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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

嘉吉三年正月一日〜十二月三十日

嘉吉三年

正月一日、小朝拝、御薬供、元日節会

看聞日記、管見記、続史愚抄

二日、殿上淵酔

看聞日記

六日、叙位追行

看聞日記、管見

七日、白馬節会

看聞日記、管見

八日、後七日御修法、太元帥法

東寺執行日記、続史愚抄

十一日、県召除目

続史愚抄

十六日、踏歌節会

看聞日記、管見

十九日、三毬打

看聞日記

二十六日、この夜より清涼殿で不動法

看聞日記、建内記

二十七日、禁裏で松囃

看聞日記

二月一日、釈奠

建内記

五日、大原野

建内記

十日、春日祭

二十日、小倉宮叛逆の噂があることについて足利義勝(代理の畠山持国)に仰せ下す、また禁裏非番衆を招集

看聞日記

二十二日、新年穀奉幣使を発遣、南殿に出御、御拝

管見記、建内記

二十三日、貞成親王のもとに大櫃二合を預ける

看聞日記

二十八日、大外記清原業忠の申請を許可し、玉海二百五巻を下す

建内記

この日、富樫氏の内紛に関わり、被官の山川八郎をめぐる騒動で禁裏に公家衆参集

看聞日記

三月一日、大外記清原業忠、春秋左氏伝第二十四卷を進講

建内記

二日、少納言文章博士東坊城益長に侍読のことを仰せ出す

建内記

三日、闘鶏

看聞日記、建内記

六日、貞成親王の元に剣を預ける

看聞日記

八日、花御覧

看聞日記

十日、昼御座で御読、少納言文章博士東坊城益長、五帝本紀を講ず

建内記

十一日、観花御宴、当座和歌会

看聞日記、建内記

十三日、後白河天皇聖忌、長講堂で御経供養

建内記

十四日、七瀬の祓

建内記

十六日、県召除目追行

看聞日記(十四日・十六日)、管見記(十四日・十五日・十六日)、建内記(十四日・十五日・十六日)

二十一日、北野一切経

管見

二十三日、和漢連句会、発句

建内記

二十七日、御薬

看聞日記

四月六日、稲荷祭

康富記、東寺執行日記

十一日、平野祭、同臨時祭

康富記

この日、松尾祭

康富記、東寺執行日記

十二日、梅宮祭

康富記

十五日、吉田祭延引

康富記

二十一日、鴨御蔭山祭

管見記、康富記

二十三日、日吉祭

管見記、康富記

二十四日、賀茂祭

看聞日記、康富記(二十二日・二十四日・二十五日)

二十七日、春日一社奉幣使発遣

康富記

この日、吉田祭追行

康富記

五月五日、深草祭

康富記

九日、祈雨奉幣使を丹生川上神社貴船神社に発遣

康富記

十二日、この夜より禁中にて御修法

看聞日記(十二日・十八日)

二十日、大雨洪水、この日止雨奉幣使を発遣

看聞日記、康富記

二十二日、来たる二十八日、貞成親王女入江禅尼宮性恵三回忌によりこの日御経被物を賜う

看聞日記

二十八日、蔵人権右中弁坊城俊秀を延暦寺六月会勅使として差し遣わす

康富記

六月四日、延暦寺六月会

康富記

十一日、月次祭、神今食を延引

康富記

十二日、侍読大外記清原業忠の春秋左氏伝の進講を聞く、この日同書講釈終了に際し奥書に宸筆を染める

建内記、康富記(十二日・十九日)

十四日、祇園御霊会を行う

建内記

十五日、祇園臨時祭

建内記

二十四日、贈太政大臣足利義教の三回忌に泉涌寺で仏事

康富記、東寺執行日記、続史愚抄

二十五日、当時で後宇多天皇仏事

東寺執行日記

二十七日、雑熱および三星合、地震などの祈祷のため、この夜より禁中にて御修法

建内記、康富記(二十一日・二十七日)、続史愚抄(二十七日・七月四日)

二十八日、腫れ物を患う

康富記

二十九日、大祓

康富記(二十九日・三十日)

七月三日、腫れ物平癒

看聞日記(一日・二日・三日)

七日、乞巧奠、御楽あり、所作あり

看聞日記、管見記、建内記

十七日、貞成親王に一条歌合恋部一巻を賜う

看聞日記

二十三日、去る二十一日足利義勝薨ず、この日贈左大臣従一位などの宣下、義勝の弟武家相続治定により剣、馬を賜う

続史愚抄、看聞日記、管見記(二十一日・二十三日)

二十六日、貞成親王の財務不如意により補助

看聞日記

八月三日、釈奠を停止、翌四日、北野祭延引、故足利義勝の触穢による

康富記(一日・三日・四日・五日)、管見記(四日)

四日、蔵人所において御卜あり、天下怪異しばしば現れるによる、触穢により軒廊卜に代える

康富記

十一日、怪異祈祷のためこの夜より禁中で御修法

看聞日記、康富記(十一日・十七日)

十五日、石清水八幡宮放生会を延引

康富記、東寺執行日記

十六日、駒牽

康富記

九月九日、重陽節句、平座

康富記

十一日、伊勢例幣、併せて臨時奉幣を附進、この日外宮臨時奉幣

康富記

十五日、石清水八幡宮放生会追行

看聞日記、康富記、東寺執行日記

十六日、但馬国金剛勝院住僧、金剛経を献上

看聞日記

十八日、御霊祭を追行

看聞日記、康富記

二十三日、竹園詠百首和歌に合点、月次短冊とともに貞成親王に賜う、この夜より御修法

看聞日記

この日、禁闕の変

看聞日記、管見記、師郷記、康富記、続神皇正統記

二十四日、南朝方、根本中堂に立てこもり、治罰綸旨

看聞日記、康富記、

二十六日、禁闕の変鎮圧、貞成親王第に遷幸

看聞日記、康富記、管見

二十七日、管領畠山持国、内裏から奪われた宝剣を進上

管見記、康富記(二十七日・二十八日)、看聞日記(二十七日・二十八日)、続史愚抄

十月十三日、貞成親王に剣を賜う

看聞日記

十四日、貞成親王、琵琶を献上

看聞日記

十六日、貞成親王を召し、宴を賜う

看聞日記

二十三日、幕府、足利義教遺愛の品物を献上

看聞日記

二十六日、囲碁

看聞日記

二十八日、当座和歌会、囲碁

看聞日記

二十九日、相応院より内裏祈祷の経巻数を献上、この日、東寺八幡宮で神璽出現の祈祷

看聞日記、東寺執行日記、続史愚抄

十一月五日、和漢連句会、囲碁

看聞日記

七日、御拝、朝餉始

看聞日記

九日、平野祭、同臨時祭、春日祭

看聞日記、管見記、師郷記

十日、梅宮祭

康富記、師郷記(九日)

十二日、陣座立柱

看聞日記、東寺執行日記

十三日、夜、伊勢神宮一社奉幣

看聞日記、康富記

十四日、園韓神祭を停止、この日、大祓を諸司に附せらる

師郷記、康富記

十五日、鎮魂祭

康富記、師郷記

十六日、新嘗祭

管見記、康富記

十七日、豊明節会の平座を停止、皇居がまだ整わないため

康富記

十九日、当座和歌会

看聞日記

二十一日、風邪、北野祭追行、同臨時祭、吉田祭

看聞日記、康富記、続史愚抄

二十五日、大原野祭追行

看聞日記、康富記

二十七日、内侍所立柱の儀

看聞日記

三十日、九月二十三日以来内裏警固の解陣、内侍所新殿渡御以下条々の日時定

看聞日記、康富記

十二月二日、殿上立柱新造

看聞日記

八日、内侍所新造御殿に渡御

看聞日記、康富記

九日、内裏造営に関し祇園社執行官女に神託

看聞日記

十一日、祇園執行、造内裏用材を献上、管領も献上、この日地形検知事始

看聞日記

この日、月次祭、神今食

康富記、師郷記

この日、煤払

看聞日記

十二日、内裏造営に関し、管領より沙汰

看聞日記

十三日、貞成親王、造内裏記録一合を献上、この日造内裏事始

看聞日記、康富記、師郷記

この日、新造の笏を進上

看聞日記

十九日、造内裏仮屋立柱上棟并に行事所始、この日、諸道に明年の甲子革命の当否を勘申させるべき旨の宣下

康富記、師郷記

二十三日、貞成親王、鞨鼓太鼓を献上

看聞日記

二十五日、内侍所恒例御神楽、臨時御神楽、臨御

看聞日記、管見記、康富記、師郷記

二十七日、貢馬御覧

看聞日記、管見

二十九日、追儺、大祓を諸司に附す

師郷記

この日、貞成親王、三条実量の邸に移る

看聞日記

天皇、綸旨を取り消されたってよ5

荒れ果てた神泉苑。そこに現れた唐橋在綱の家人たち。

「ここの土地は俺たちが天皇様から拝領したんだ、ヒャッハー!!!!」

神泉苑を管理していた長福寺とその管理者である東寺が訴え出た。

「あいつら、嘘ついて天皇様の綸旨をもらってやりたい放題です」

幕府の裁判が始まりました。天皇のもとにも事情聴取。その事情聴取に応じたのではないか、と思えるのがこの後花園天皇女房奉書です。

 

女房奉書は、天皇の意思を直接受け伝える内侍が奉書形式の仮名書きの書状を作成して相手に交付するもので、もともとはメモでしたが、室町時代以降、多く出されるようになり、戦国時代には女房奉書が普通になります。

 

女房奉書は天皇直筆のものもありますが、それも含めて女筆と呼ばれる独特の仮名書き主体の筆跡で、しかも散らし書きと呼ばれる独特の文字配列をしています。

 

前回の最後に示した女房奉書案はあくまでも案文(あんもん、控え)なので、普通の配列になっていますが、本文(ほんもん)は散らし書きだったはずです。さらに内容がかなり踏み込んでいるので、後花園天皇宸筆の可能性をあると私は見ています。

 

では見て見ましょう。

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後花園天皇女房奉書案

東寺百合文書ほ函108号文書です。

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翻刻文です。

(端裏書)

「女房奉書案 神泉苑事」

とう寺より申神せんゑんの事、

かん二位かやうに申候、このくわうやの

事、きうこんにつきてのそミ申候

ほとに、御さたをへられ候て、りんしを

なされたる事にて候、この申しやうに

見候ことく、たかさせ候事候やらん、

かのいけの中まて、さくようを

いたし、よろつかヰにまかせ候事とも

候とて候、さやうのきしかるへからぬ

にて候ハゞ、なとや寺けよりこゝ

もとをハせいはヰもし候ハぬやらん、

さくまへハかん二位はいりやうし

候へハとて、いまさらとかく申候へき

事にては候はす候、そのうへ御いのりの

さい所などをハのそき候て申

うけ候ほとに、さやうの事、けん

みちニおほせつけられ候て、ちよく

さいをなされたる事にて候をり

ふしんの御さたのように申なし候、

しかるへからず候、尚々このいけをこそ、

とうしよりくわんれヰし候とも、

くわうやまてさゝへ申候へき事

にてハ候ハぬかとおほしめし候、さり

なから、しせうなと候て申事にて候

やらん、このやう御心え候て、よくよくお

ほせられ候へかしと申とて候、かしく

 

 

長禄三年六月二十四日自寺務真光院被出之 

 

 ひらがなばかりで何言ってるんだか、わかりません。子どもの頃、漢字が苦手で漢字テストでゼロ点を連発していた私としては、その頃「漢字なんてなくなればいいのに」と思っていました。自分の浅はかさを反省します。

 

漢字を入れます。

東寺より申す、神泉苑の事、菅二位かやうに申し候、この荒野の事、きうこん(休墾)につきて望み申し候ほどに、御沙汰を経られ候て、綸旨をなされたる事にて候、この申し様に見候如く、たかさせ(違させ)候ことやらん、彼の池の中まで、さくよう(作用)を致し、よろづ雅意に任せ候とも候とて候、左様の儀、然るべからぬにて候はば、なと(何故)や寺家より爰元をは成敗もし候はぬやらん、さくまへ(柵前)は菅二位拝領し候へばとて、今更兎角申すべき事にては候はず候、その上御祈りの在所などをば、除き候て申受け候ほどに、左様のこと、厳密に仰せ付けられ候て、勅裁をなされたる事にて候折、不審の御沙汰のように申しなし候、然るべからず候、尚々この池をこそ東寺より管領し候とも、荒野まで支え申し候べき事にては候はぬかと思し召し候、さりながら支證など候て申事にて候やらん、この様御心得候て、よくよくおほせられ候へかしと申すとて候、かしく

 

 ( )にくくった漢字は自信がもてないものです。

現代語訳です。

東寺より申し入れている神泉苑のこと、唐橋在綱がこのように申しました。この荒野のことは、休耕地であるため、望み申しましたので、手続きを経て綸旨を出されたことです。この言い分に見られるように、違反がありましょうか。あの池の中まで開墾し、全て自分の意思を押し通したというように言っています、そのようなことはあってはならないことでありますので、なぜ寺家より私(唐橋在綱)を成敗するのでしょうか、柵の前は在綱が拝領しておりますので、今更とかく申すべきことではありません、その上、お祈りの場所は除いて申し受けていますので、そのようなことを厳密に仰せつけられて勅裁をなされたことなので、よくわからない処置のように言っていることはよろしくないことです。なおなおこの池をこそ東寺が管理していましたが、荒野まで管理しているものではないと思し召しです。とはいいながら証拠などありまして申すことでしょう。このことを心得てよくよく仰せられよということで申すことです。かしく

 

 不満タラタラなのがよくわかります。特に「さやうの事、けんみちニおほせつけられ候て、ちよくさいをなされたる事にて候をりふしんの御さたのように申なし候、しかるへからず候」(こちらかてしっかり考えて勅裁をしてんだから、おかしな綸旨だというような言いがかりはけしからん)という部分にはかなりの怒りすら感じます。さらに「このいけをこそ、とうしよりくわんれヰし候とも、くわうやまてさゝへ申候へき事にてハ候ハぬかとおほしめし候」(東寺半端ないって。あいつ半端ないって。池はともかく荒野まで管理しているって言い張るんやもん、そんなんできひんやん、普通)と東寺に非があるかのように難癖をつけています。で、最後に「さりなから、しせうなと候て申事にて候やらん」(しかしながら、証拠などがあって申している事でしょう)と負け惜しみで締めくくります。

 

この一連の流れ、中世後期の天皇制のあり方について非常に示唆的です。一般には後花園天皇は英邁で、彼の八面六臂の活躍で天皇家は後円融院時代に失墜した天皇権威を取り戻した、というように理解されがちです。しかし近年の研究では、幕府が天皇権威を侵奪し、後花園天皇がそれを取り戻した、という形では理解されていません。室町幕府足利義詮以来、一貫して天皇権威の確立とその保全に腐心した、とされています。義満と義持以降の違いは、天皇権威をパターナルに保全しようとした足利義満と、補佐する形で保全しようとした義持以降ということになります。義満は正平の一統と後円融院の資質のために崩壊してしまった天皇権威を強力に再構築するために、自らを天皇家の家長となぞらえ、幼少の後小松天皇を力強く支え、後小松天皇が成人後の義持以降は、摂関家に准じた形で天皇権威を支えた、と理解されています。この辺、わかりやすく論じたものとして石原比伊呂氏のこの著作をあげておきます。

 

足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)

足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)

 

 

 

天皇、綸旨を取り消されたってよ4

綸旨を取り消されるということはよくあるのでしょうか。不勉強なんでその辺はわかりませんが、御成敗式目にも「掠め給わる」という言葉が出てきますので、昔からお上を騙して不正に補助金やらを「掠め給わる」悪党はいたんでしょう。この場合補助金を出したお上の責任ではなく、騙した方がなんらかの罪科に問われるようです。御成敗式目43条では所領没収、所領なければ遠流と決められています。

 

綸旨ではどの程度天皇の意思が反映するのでしょうか。

 

嘉吉の乱後花園天皇が出した赤松満祐治罰綸旨の発給過程を見てみましょう。

 

細川持之が「持之?m9(^Д^)プギャー」状態になったため、天皇の綸旨にすがることに決定。

三条実雅(義教の義兄、嘉吉の乱で怪我)に綸旨を出してくれるように頼む。

実雅から中山定親(朝廷サイドの幕府担当窓口)に伝達。

定親から天皇の祐筆の坊城俊秀に指示。

俊秀が万里小路時房に下書きを依頼。時房は日が悪いということを理由にばっくれようとするも俊秀の粘りに負けて「清原業忠に添削してもろてや」と渡す。

業忠、ゲロと下痢ピーを理由に拒否するも俊秀、裏口から襲撃して添削成功。

俊秀、後花園天皇のもとに苦労してゲットした下書きを提示。

後花園「ふーん、まあええんちゃうの?でもちょっと書き足しとくね」と言ってほぼ全ての文言をチェンジ。俊秀の苦労は何だったんだろう、と思うのは俊秀と私だけでしょうか。

西園寺公名天皇がほとんど自分で書いたと聞いて「そんな話聞いた事ねぇわ」と激おこぷんぷん。

 

というような過程を経ているので、後花園天皇が手を入れなければ、まあ普通の綸旨発給手続きになりそうです。ということは、天皇は本来上がってきた綸旨の下書きにOKを出すのが仕事のようです。

 

ということは、出した綸旨の根底が間違っていて、その結果綸旨が取り消されたとしても「そいつが嘘ついとったん、知らんかっとってんちんとんしゃん」と言ってごまかせるレベルではないかと思います。

 

では後花園天皇の反応を示す史料をみてみましょう。

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女房奉書というのは、天皇に使える女房が、天皇の意を奉じて出す文書です。それだけに天皇の意がダイレクトに出ます。この「後花園天皇女房奉書案」は案文なので、女房奉書独特の散らし書きではないため、読みやすくなってます。あくまでも比較的、のレベルではありますが。

長くなってきましたので、これの解説などは次回に続きます。

後花園天皇、綸旨を取り消されたってよ3

唐橋在綱「今、金がなくって困ってんすよ〜。収入、なんとかなりませんかね」

後花園天皇「よっしゃ、ワイの持っとる土地で荒野になってしもたのがあるから、それやるわ。それをなんとかしろや。おい、(庭田)雅行、(鷲尾)隆頼、綸旨出したれ」

庭田雅行鷲尾隆頼「へい。わかりやした」

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東寺にて。

長福寺からの使者「大変っす!神泉苑が唐橋家の連中に占拠されています!」

東寺「な・に!?」

長福寺「あいつら、綸旨を持ってます」

東寺「な・ん・や・て!?」

長福寺「祈祷のための池は外したから、あとは天皇から拝領した、と言っています!」

東寺「こら、まずい。誰か頼りになる人おれへんかな〜」

色々あって、前権中納言従二位坊城俊秀に頼むことに。

東寺「坊城様、神泉苑がお内裏様によって唐橋家のものになってしまいました。なんとかなりませんか」

坊城俊秀「綸旨か〜。昔書かされたことがあったなあ。なついわ〜」(

嘉吉の乱の治罰綸旨の起草案を完全に書き換える後花園天皇 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座参照)

東寺「綸旨をつぶすにはどうすればいいんですか?」

俊秀「せやな、要するに唐橋はんは、神泉苑は東寺の管理がグダグダで、ゴミ捨て場になってて、これは東寺が管理してへん以上は東寺のものではないから、天皇から拝領した、いうたはるわけやろ?そやから、池も含めて東寺のものでも天皇のものでもない、いえばええんちゃうやろか?」

東寺「???」

俊秀「つまりやな、池も含めてあそこは東寺のもんやのうて、龍神のもんや、と言ってしまえばええねん」

 東寺「なるほど、そうすりゃ池やないところは東寺のもんやないから、天皇の好きにできる、という理屈もつぶせますな」

(以上、東島誠「隔壁の誕生」『公共圏の歴史的創造』東大出版会、2000年、pp177〜179、を元に構成)

 

公共圏の歴史的創造―江湖の思想へ

公共圏の歴史的創造―江湖の思想へ

 

 あと一回続きます。

後花園天皇、綸旨を取り消される2

後花園天皇が綸旨を取り消される、という事件について取り上げています。

 

次にあげる「室町幕府奉行人連署奉書」であっさり取り消されています。

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翻刻から。

神泉苑境内事、号荒野菅二位

在綱卿家雑掌猥被掠給綸旨云々、

於彼地近遍者、有子細而古今不成

其総大勧進長福寺被致警固之処、

此如物忩之儀太不可然、早止件競望

寺家弥可被専厳禁之由所被仰

下也、仍執達如件

  長禄三年六月廿九日 下野守在判

            散位在判

   当寺住持

 読み下し。

神泉苑境内の事、荒野と号し、菅二位在綱卿家の雑掌、猥に綸旨を掠め給わると云々。彼の地の近遍においては、子細有りて、古今ならず、其の総大勧進長福寺警固を致さるるのところ、此の如き物忩の儀、はなはだしかるべからず。早く件の競望を止め、寺家いよいよ厳禁を専らにすべきの由、仰せくださるなり、よって執達件の如し 

 

「掠め給わる」というのは、虚偽を申告して綸旨など上位者の命令をゲットすることです。だから唐橋在綱の関係者が綸旨を不正な方法で手に入れた、という判決文です。一応綸旨を出した後花園天皇の名誉は守っているものの、ある意味面目丸潰れです。なんせ、天皇の権力が及ぶはずの神泉苑の土地の処分が自由にならなかったのですから。

長禄三年ということは、あの足利義政に諷諫する二年前です。これで恥をかかされた後花園天皇が腹いせに足利義政に諷諫を送った、と考えれば、ネタとしては面白いですが、まあネタです。

ただ、桜井英治氏は「かりにその諫言にあやまりがなかったとしても、それがはたして統治者としての高い意識に出たものかは十分検討してみる必要がある」(『室町人の精神』講談社学術文庫、p231、2009年)とおっしゃっていますが、足利義政無為無策であったわけではないことは東島誠氏も『自由にしてケシカラン人々の世紀』(講談社メチエ、pp105〜106、2010年)でおっしゃっているところであり、この両氏の意見を考えれば、少し考慮に値するかもしれません。

 

室町人の精神 日本の歴史12 (講談社学術文庫)

室町人の精神 日本の歴史12 (講談社学術文庫)

 

 

 

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

 

 

 

まあ後花園天皇の諷諫については、後花園天皇をとことん考えてみる、という当ブログでは「素晴らしい天皇だったんだ」というところで思考停止するわけにはいきません。だから何かあるのか、と言われれば、今のところないです。

後花園天皇、綸旨を取り消される

「綸言、汗の如し」という言葉があります。綸言とは天皇の言葉、汗の如し、というのは汗のように一旦出たら取り消したり訂正したりできないもの、という意味です。

 

為政者が自分の言った言葉を簡単に翻して、全く恥じなければ、為政者の言葉に重みがなくなり、民は拠る術を失います。だからこそ為政者は軽率な発言や、その訂正を慎まなければなりません。

 

で、本題です。後花園天皇が出した綸旨が、まさに取り消されてしまうということが起こりました。まあ後醍醐天皇は『太平記』では「かくばかり 垂らさせ給う 綸言の 汗のごとくに などながるらん」と皮肉られています。綸言が汗のように流れてしまう、ということです。後醍醐天皇は程なく政権の座から滑り落ちます。

 

しかし不思議なもので、重いはずの為政者の言葉が訂正されても、その責任を問われない無敵の人がいます。そうです。我らが後花園天皇です。取り消したのは誰か、といえば足利義政です。

 

あの、長禄・寛正の飢饉の時に民の苦しみも顧みず、御所の造営にかかりっきりになっていたあの無能な義政に、義政に漢詩で諷諫を加える英邁な天皇が、綸言を取り消されるとは!(『長禄寛正記』限定)あの、蠣崎蔵人を北海道に追い落とした南部政経を宮廷に読んで涙を流しながら感謝の意を述べたあの英邁な天皇が、政経の挑発にビビってしまったヘタレの義政に!(『東北太平記』限定)

 

問題の綸旨は東島誠氏にも「この綸旨もおかしなもの」と一刀両断にされています(『公共圏の歴史的創造』二〇〇〇年、東京大学出版会、一七七ページ)。

 

取り消されるのもやむを得ないかもしれません。

公共圏の歴史的創造―江湖の思想へ

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 これは幸いに『東寺百合文書』入りしています。現物を見て見ましょう。

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では例によって翻刻を挙げておきましょう。

神泉苑池外荒野二条以南

三条以北大宮以西壬生以東

〈但除池北面十丈同東面〉可令管領給之由

天気所候也、仍執達如件

長禄三年四月廿三日 左中将在判

謹上 中御門菅二位殿

読み下し文です。

神泉苑池の外の荒野二条以南、三条以北、大宮以西、壬生以東〈但し池北面の十丈・同東面を除く〉を管領せしめ給うべきのよし、天気候所なり、よって執達件の如し。

 長禄三年四月廿三日 左中将(庭田雅行)在判

謹上 中御門菅二位殿(唐橋在綱) 

 これは唐橋在綱が、困窮を理由に神泉苑の池以外の場所の拝領を願い出て、それが許可されたものですが、「池=祈祷在所は侵害していないという理由で、結局唐橋家の主張が容れられてしまう」(東島同書p177)のです。その背景には「禁苑なのだから荒野は天皇が自由に処分できる、ということなのであろう」(東島同書p178)という考えがあるようです。

 

しかし「荒野」に成り果ててるとはいえ、一応「禁苑」である(あった)神泉苑をあっさりお気に入り(かどうかも定かではない)唐橋在綱に、ポンっとやってしまうのは、いささか乱暴な気がしないでもありません。この点の統治者意識の高さは後花園天皇に限ったものではなく、後円融・後小松・称光と続いている後光厳流皇統のお家芸です。後光厳流の統治者意識の高さ(ざっくりいえばウエメセ)は後光厳流の成立事情からくるコンプレックスがあり、後花園天皇の場合、崇光流のコンプレックスもあって、双方を継承する後花園天皇としては、そういう面も受け継いでいる、といえそうです。

 

で、神泉苑の管理者であった東寺としては「これは捨ておけん」ということで裁判に訴え出るわけです。

 

これはあっさり唐橋在綱が敗訴するわけですが、その結果、在綱に権利を付与していた後花園天皇綸旨はあっさり紙切れと化すわけですが、その判決文は次回。

後花園天皇宸筆女房奉書

女房奉書について、少し見ていきたいと思います。

 

題名がそもそもおかしいですね。「奉書」なのに「宸筆」。つまり「奉書」とは主君の意を奉って祐筆が書く書状のはずです。天皇の意を奉じるのであれば「天皇様はこのように仰せである。そこで私が天皇様の意思を伝える」となります。

 

宸筆奉書となると、「天皇様、つまりこの私はこのように仰せである。したがって伝達者である私は、天皇である私の意思を承って伝える」となります。ちょっと何書いてんのかわかんないです・・・・・・!!

 

ちょっと何書いてんのかわかんないです……!!

ちょっと何書いてんのかわかんないです……!!

 

 

グダグダ言わずに本文を出しましょう。『大徳寺文書』一五四三文書です。

 

故つち御かとの中将ありみちの朝臣かいせきのしきちの事、むらさき野大とく寺のたつちう如意庵にきしんの事、きこしめし候ぬ、ことにかの中将かほたいのためとて候へハ、へちしてくはうの御きしんにしゆむし候て、なかくいらんわつらひなく、ち行をいたし候へと、つたへおほせられ候へく候と、申とて候、かしこ

 (礼紙切封ウハ書)「菅中納言とのへ」

 ちょっと何言ってんだかわかんないです。

子供の頃、漢字が極度に苦手だったんで、ひらがなばかりで文章を書けたらなんと素晴らしいことか、と夢想していました。その誤りを心の底より反省します。

 

漢字を混ぜると次のようになります。

故土御門の中将有通の朝臣が遺跡の敷地の事、紫野大徳寺塔頭如意庵に寄進の事、聞こしめし候ぬ。殊に彼の中将が菩提のためとて候へば、別して公方の御寄進に准じ候て、永く違乱煩いなく、知行を致し候へと、伝え仰せられ候べく候と、申すとて候、かしこ

 久我家庶流の土御門家はこの有通が宝徳四(一四五二)年四月二十八日、疱瘡によって二十一歳の若さで逝去したことで断絶します。その遺領の処分を行った女房奉書です。

 

現代語に直すとこんな感じです。

故土御門中将有通朝臣の遺跡の敷地の事、紫野大徳寺塔頭如意庵に寄進の事、お聞きになりました。特に彼の中将の菩提のためということですので、特別に公方のご寄進に准じて、永く違乱や煩いがないように知行をいたしなさい、と伝え仰せられるように、ということで申し上げます。かしこ 

 どう考えても後花園天皇の意を女房が奉じている文にしか見えません。しかし「宸筆」とある以上は、この文章を書いているのが後花園天皇本人であることも疑いようがありません。

 

後醍醐天皇にも宸筆綸旨というものがあります。綸旨も奉書形式ですから、宸筆綸旨というのも矛盾しています。後醍醐天皇は「左中将」という架空の人物をでっち上げて、そいつに自分の意を奉じさせています。

 

後花園天皇の女房奉書も、実際には女房が書いている風体をとっているので、架空の女房(名前なし)に自分の意を奉じさせる形になっています。だから実際にはそれほど「ちょっと何言ってんだかわかんないです」とはなりません。

 

自分の意思を最もダイレクトに出そうとすれば、宸筆で自分の意思を書いたらいいのですが、そこは天皇という地位の不便さ、それが許されていないのです。だから後花園天皇は架空の女房に意を奉じさせる、というアクロバッティックなことをやったんですね。