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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

文正元年の政情不安について2

応仁の乱の直前に起きた政情不安についてですが、震源地が斯波武衛家であるらしいことは前回少し書きました。

 

若くて当主が次々と死んでいった斯波武衛家ですが、若い当主の後見として一門の大野斯波家から斯波持種がやってきますが、もう一人後見していたのが重臣の甲斐将久(ゆきひさ)です。当時は出家していて常治(じょうち)と名乗っていまして、こちらの名前の方が有名です。

 

この両者の対立が色々な問題を引き起こします。

 

まず一つ目が足利義政の寺社領不知行地還付政策をめぐる争いです。こういう長い漢字が続く言葉を覚えさせられたトラウマが歴史嫌いを作るのはよく理解しています。わかりやすく言えば、守護領国にある寺社領の中で寺社が支配できなくなってしまっている土地における寺社の権益を保護せよ、という命令です。これで不利益を被るのは、寺社領を実効支配していた国人です。この問題では甲斐常治は義政の政策を推進する立場にあり、この政策で不利益を被った国人は常治と対立する義敏を頼り、両者の亀裂は深まります。義敏は義政に常治の驕慢を訴えますが、そもそも義政の命令をがん無視している義敏の訴えが取り上げられる可能性はなく、逆に義敏は義政の恨みを買って失脚します。

 

このころ関東公方足利成氏が義政と対立します。享徳の乱と言います。これで義政はとりあえず斯波義敏と甲斐常治に出陣を命じますが、義敏は何を血迷ったか、常治を攻撃します。ブチギレた義政は義敏を追放します。

 

義政はいいことを思いつきました。成氏に代えて自分の兄弟を関東公方にすればいいのです。出家していた庶兄を還俗させ、政知と名乗らせて関東公方にします。堀越公方といいます。後見には渋川義鏡(よしかね)がつきました。

 

問題があります。渋川義鏡は守護ではないため、軍事力に不安があります。そこで義政はまたいいことを思いつきました。義政はおそらく「オレ、天才的だな」と思っていたのではないでしょうか。彼は義鏡の子どもの義廉を斯波武衛家の当主にすることを思いついたのです。これで斯波武衛家の武力を効率的に関東に振り向けることができます。

 

しかし義政の思いつきはうまく行きませんでした。京都からやってきた関東公方に上杉氏などが反発、さらに古河に逃れた成氏との戦いは泥沼化し、義政は義鏡や義廉を遠ざけるようになります。義廉は思ったのではないでしょうか。「あれ、これオレが悪いのか?」と。

 

義敏はこれを狙って伊勢貞親らに復帰工作を仕掛けます。これが功を奏して義政は義廉を引き摺り下ろし、義敏を武衛家家督に復帰させます。これは山名宗全細川勝元連合と結びついた斯波義廉に代えて義敏を引き立て、斯波家を山名ー細川連合から引き剥がす意図があったと考えられています。

 

しかしこれには山名ー細川連合の反発が当然予想されます。ここでの対立軸は将軍側近派と細川ー山名連合となります。近衛政家一条教房が恐れたのは、山名宗全細川勝元の対立などではなく、ましてや足利義尚を推す日野富子山名宗全が、足利義視を推す細川勝元と対立する未来像でもありません。特に後者は『応仁記』において富子を悪者にしたい意図で作り上げられた虚像とされています。彼らが恐れたのは、将軍およびその側近と、細川ー山名連合が正面衝突する事態だったのではないでしょうか。

 

彼らの恐れは荒唐無稽ではありません。山名宗全足利義政を排して足利義視を擁立する構想があったと言われています。播磨国をめぐって競合するリスクのある赤松政則による赤松家再興を認めた義政および側近集団に対して宗全の不信は頂点に達していました。

 

ただここで宗全は義廉と連携を強めたことで、勝元との関係が微妙なものになって行きます。義廉は畠山義就(よしひろ)と連携していましたが、宗全と義廉の連携は、畠山義就と対立する畠山政長と連携する勝元との連携を犠牲にしかねないリスクを背負っています。細川ー山名連合の弛緩と、将軍側近勢力の勃興、そして両者の対立、これが当時の不安定要因であり、それが露骨に現れ、政治的危機にまで高まったのが、斯波義敏家督復帰と斯波義廉の失脚だったのでしょう。

 

この結末はあっけないものでした。

 

将軍側近勢力はここで勝負に出ます。足利義尚を養育している伊勢貞親をリーダーとする側近勢力は、足利義視の排斥に乗り出します。貞親は義視が謀反を企んでいる、と義政に告げ、殺害することを求めます。義視は勝元を頼り、勝元は宗全と組んで義視を弁護し、将軍側近の伊勢貞親と季瓊真蘂の追放を要求し、合わせて斯波義敏赤松政則ら貞親と季瓊真蘂によって登用された人々も失脚します。これを文正の政変と言います。

 

一旦は義視が将軍代行になって細川勝元山名宗全による後見のもと、幕政を執る体制が作られますが、急激な変化をよしとしない勝元は義政と講和して義政の幕政復帰という形をとります。

 

おそらくここで事態は落ち着いた、とみられたはずです。これまで延期されていた後土御門天皇の大嘗会はこの年の十二月十八日に挙行されます。

 

結果的にはこれが中世最後の大嘗会となります。

 

花園上皇後土御門天皇の大嘗会を挙行してホッとしていたであろうまさにその時、大きく歴史が動きます。

 

宗全が畠山義就の支持に動きます。これは二十年以上続いた細川勝元との連携を解消することを意味していました。勝元との連携を維持することで宗全は幕府のナンバーツーの地位を確保することはできますが、所詮は勝元の後塵を拝することになります。安定を求めるタイプの人物ならばそれでもよかったのでしょうが、宗全は自らがトップに躍り出る方を選びました。

 

義就は義政の許可を得ずに上洛し、義政は当初激怒しながらも、宗全・義就らによる軍事的圧力に負けて政長を罷免し、義就を支持します。いわば軍事力による政権奪取です。政長は武力で抵抗する道を選び、政長と義就が対決する御霊合戦が行われます。これで義政は介入を禁じ、勝った方を支持する姿勢を見せますが、これに正直に従った勝元に対し、宗全らは義就に加担し、政長は没落して勝元に匿われることになります。

 

ここで『公卿補任』には後花園上皇の治罰院宣が義就に下された、という記述があります。『後法興院記』にはみられないので少し慎重に扱う必要はあるかな、とは思いますが、もし本当だとすれば大失敗です。これについては少し検討してみます。

文正元年の政情不安について

後花園院政が開始されてしばらくすると世情不安が訪れます。

文正元年(1466年)には近衛家では累代の記録類を岩倉に避難させています。これが結果的に当たり、近衛家は記録類を消失させずに現代にまで貴重な記録類を伝えてくれたのです。

 

一条家では一条教房大和国興福寺疎開しています。弟の興福寺大乗院門跡の尋尊を頼ったのです。ちなみに、のちに父親の一条兼良がやってきたため、教房は土佐国に行き、土佐一条氏の祖となります。

 

このように文正元年にはすでに応仁の乱の兆しが現れていたのですが、その後の経過を知っている我々はどうしても細川勝元山名宗全を対立的に描き出したくなりますし、そこを震源地としたくもなります。しかし研究の現段階では、細川勝元山名宗全の対立は乱の勃発の直前であるとされていますし、まして日野富子が自らの生んだ足利義尚を将軍につけたくて山名宗全を頼った、という『応仁記』に由来する話は今日ではほぼ否定されていると言っていいでしょう。

 

したがってこの段階で政家らが心配していたのは将軍家の後継者争いや細川vs山名という対立関係ではありません。彼らの目に映っていた未来の可能性とはどのようなものだったのでしょうか。

 

『後法興院記』にはこのころ、「武衛」という記述が出てきます。「武衛」というのは斯波氏のことです。この直前に「筑紫武衛」が「武衛」を継承したという記述が見られ、そこから世情不安が加速していくような書き方をしています。

 

「筑紫武衛」とは斯波義敏のことであり、義敏が当時武衛家の当主であった斯波義廉に代わって武衛家当主についたことが震源だったようです。

 

これは足利義政の主導ですが、義政の背後には伊勢貞親がいました。そもそも武衛家は20年以上不安定な状況でした。

 

ここで武衛家と呼ばれた斯波本家について少し述べておかなければならないでしょう。

 

斯波氏の祖の家氏は鎌倉時代足利泰氏の嫡子でしたが、母親が名越北条氏の出であったために、得宗家の女性を母に持つ頼氏に家督を替えられました。

 

四代目の足利高経は建武の新政越前国守護になり、足利尊氏の離反に伴って彼も南朝と戦い、新田義貞を討ち取る戦功を挙げています。尊氏の死後には若い義詮を助けて幕政を掌握します。細川清氏の失脚に伴い執事に就任して幕政を左右した高経ですが、「執事になることは我が家の疵である」と言い放ったと言われています。結局幼少の義将を執事に据えてその後見をするという形で幕政に参画します。

 

五代目の義将(よしゆき)の時に足利の名乗りをやめて「斯波」という名乗りに変えています。高経失脚後台頭した細川家との対立を経て六代目の義重までは幕政に重きをなしていましたが、七代目の義淳の代に関東公方をめぐる問題で足利義教と対立し、また斯波家の領国が越前・遠江尾張と関東方面に偏っていたこともあって、幕府内の地位を下降させていきます。しかもこのころには大名の長老であった畠山満家・山名時熙・三宝満済による合議が力を持っており、彼らに比べて若かった義淳にはついぞ機会が訪れることはありませんでした。

 

義淳は嫡子に先立たれ、弟の持有を後継者に指名していましたが、義淳の死後、義教は「器量ではない」として僧籍に入っていた弟を還俗させ、義郷とします。これは武衛家への介入とされますが、私は疑っています。というのは持有は義教のお気に入りだったわけであり、義郷が継承した後も持有は活躍しています。私の見立てはこうです。

 

義淳「私の死後は持有に・・・」_(:3 」∠)_

義教(え〜、あいつ、確かにおもろいヤツやけど、武衛家を統率できるような人間的な重みというもんがなぁ)

義教「器量の仁にあらず。というわけで斯波家を継承するのは相国寺の瑞鳳な」

 

しかし義郷は事故死して息子の義健が継ぎます。持有が後見役として活躍しますが、持有も若くして死に、その後継として分家の大野斯波氏の持種が後見役になります。持種の嫡子が義敏です。義健も早死にして義敏が武衛家を継承します。

 

斯波武衛家の動向だけで随分長くなりましたので続きは分けます。

 

後花園天皇と空虚な中心としての天皇制

東島誠氏は下記著作で「天皇制とは中世後期の所産であるーこの結論は決して意外ではない」といいます。

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

 

 唐突に言われても何のことか、分からない方も多いかと思います。氏は注に下記著作をあげています、

Ⅳ章の「隔壁の誕生」について氏は「本章は、〈天皇制〉を古代から〈実在した〉ものと見る旧い常識と、近代知によって〈構成された〉ものと見る新しい常識の、いずれの常識からも訣別する道を択ぶものとなった」と述べます。「天皇制は中世の所産である」というのは、天皇制が古代の天皇制そのまま残っているわけではないが、さりとて近代に全て作り上げられ、前近代とは完全に断絶しているわけでもない、ということである、と私は理解しています。

氏は天皇制について「形骸化しつつも惰性的に想起されるシステムとしての天皇」と定義します。

 

公共圏の歴史的創造―江湖の思想へ

公共圏の歴史的創造―江湖の思想へ

 

 

もう少し詳しく氏は『自由にしてケシカラン人々の世紀』で述べています。応仁の乱の直前の寛正年間の糺河原の勧進猿楽の座と、その百年前の四条河原の勧進猿楽を比べると、寛正年間には足利義政日野富子夫妻を頂点とした序列が出来上がっているのですが、富子と義政の間に「神之座敷」が設えられているわけです。そして「神之座敷」の正面にあたる末席には勧進猿楽師が座っています。「神之座敷」という「空虚な中心点」が据えられているこの構造こそが天皇制である、と東島氏は言うわけです。

 

百年前の南北朝時代の猿楽を風刺した狂歌には「王ばかりこそのぼらざりけれ」と天皇の不在がすでに指摘されています。そしてその天皇の不在が、天皇の座となるべき「空虚な中心点」を設えさせることとなえい、そこに天皇が座るとなると、天皇から始まる身分秩序が再確認されることとなる、これが天皇制であり、中世後期にこの形がはじまった、というわけです。

 

後花園天皇にこだわって見ていきますと、この話はかなり腑に落ちるわけです。この東島氏の著作が出た時には何を言っているのか、実は皆目わかりませんでした。今はなるほど、と少しわかる気がします。

 

今考えているのは、中世後期といっても、具体的にいつ、どのような経緯で「空虚な中心」である「天皇制」が出現してきたのか、ということですが、これは我田引水に なりますが、後花園天皇の時代に他ならない。

 

例えば想像してください。称光天皇後小松天皇後円融天皇後光厳天皇で「空虚な中心」になれるか、と。今日に伝わる彼らのエピソードに碌なものがありません。称光天皇後円融天皇はDVエピソード、後小松天皇パワハラで自殺者まで出している。後光厳天皇三種の神器がないまま即位し、退位し(これは後円融も同じ)、興福寺の強訴に対して空気を読まずに強気に出て詰んでしまった間の悪さ。

 

ここで誤解してはいけないのは、室町幕府は精一杯天皇の権威を守ろうとしているのであって、王権を簒奪しようとか、天皇権威を弱小化して自分に都合のいいようにしている、とか考えてはいないことです。もちろん強大であっても困るのでしょうが、当時の天皇の権威は極限まで減少していました。それを如何に幕府にとって都合のいいように回復させるか、という課題があったのですが、後光厳天皇から称光天皇までの天皇は「オレが、オレが」と前に出たがり、結果として天皇の権威を傷つけてしまうことが多く、幕府にとっては頭が痛いことであったはずです。

 

彼らと比べると、我らが後花園天皇はやはり傑出していたと言わざるを得ません。自己顕示欲や衒いが強いのは事実ですが、それがうまく作用しています。

 

後花園天皇にとって大きな転機はやはり治罰綸旨の発給だったと思います。田村航氏が「揺れる後花園天皇」(『日本歴史』818号、2016年7月号)で明らかにされたことですが、治罰綸旨を奏請した足利義教は、幕府権威の低下を補うためではなく、皇統の定まらない中で、権威が揺らいでいる後花園天皇の権威を向上させるために綸旨を奏請した、とされています。実は戦争行為に天皇が加担するのは危険な行為であるわけです。戦争責任が不可避に問われます。室町幕府が長く天皇を戦争に加担させなかったのは、戦争に加担することで天皇の戦争責任が問われ、天皇権威が低下してしまうことを恐れたからだ、とも考えられます。いわば一種の賭けだったわけです。

 

後花園天皇はこの賭けに勝ちます。もし一回でも室町幕府の戦争がうまくいかないことがあれば、天皇は責任を真正面からかぶることになります。後花園天皇が綸旨を出した戦争に後花園天皇は勝ち続け、後花園天皇の権威は安定するわけです。

 

『長禄寛正記』における義政の奢侈とそれを漢詩で諌める後花園天皇のエピソードも取り扱いに少し注意が必要だと思います。

 

足利義政が飢饉も顧みず、奢侈にふけり、御所の造営を行なっていた時に、後花園天皇漢詩でもって民の苦しみを顧みるように諭し、株をあげた、という例の話ですが、これは愚かな義政と英邁な後花園天皇を対置する物語ではありません。物語の作りとしては、英邁な天皇とその意を汲んで奢侈をやめる立派な将軍という話になっています。

 

現実の寛正の飢饉があまりにも残酷な現実であるため、そのリアリティの方に目がいくわけですが、作者の意図は違うところにあるのです。『長禄寛正記』の失敗は、あまりにもベースとした現実が酷たらしいために、英邁な天皇の意を体現する有能な将軍というストーリーが現実離れしてしまい、どう読んでも英邁な天皇(もしくは嫌味な天皇)に叱りつけられる愚かな将軍というストーリにしかならなくなってしまったところでしょう。

 

と、細かく見るとボロが出ているのですが、寛正の飢饉の終わりを告げるイベントとしての糺河原の勧進猿楽の場に「神之座敷」という「空虚な中心」に座す存在として、後花園天皇以上の存在を知りません。

 

東島氏は『公共圏の歴史的創造』の中で、天皇制を神泉苑の隔壁になぞらえています。こちらの方がより後花園天皇の役割を明確に示しています。室町幕府神泉苑の東面にのみ隔壁を築きました。それは「無秩序のなかの秩序をかろうじて表象している。それは形骸化しつつも惰性的に想起されるシステムとしての天皇と、同じ役割を担うモニュメントであったに違いない。壁の向こう側は闇である。見えないことにしておかなければならなかったのである」(201ページ)というものでした。ポイントは幕府が壁と天皇制を築いた、ということです。そしてもう一つ、壁はやはり闇を隠さなければなりません。自身が闇であっては「見えないことにしておかなければならなかった」ということすらできません。

 

その意味で後花園天皇というのは格好の「隔壁」だったわけです。もっとも実際の隔壁の向こう側を「天皇のものだから」と側近に与えてしまい、東寺から訴えられて足利義政に綸旨を取り消され、不満タラタラ、という「隔壁」「空虚な中心」であったわけですが。

 

この辺、もう少し整理してみたいと思っています。

後花園天皇をめぐる人々ー後土御門天皇3

後土御門天皇について以前に渡邊大門氏の『戦国の貧乏天皇』を紹介いたしましたが、末柄豊氏が新しい『戦国時代の天皇』(日本史リブレット)を出しています。

 

戦国時代の天皇 (日本史リブレット)

戦国時代の天皇 (日本史リブレット)

 

 後土御門天皇から正親町天皇までの戦国時代の天皇について述べています。

渡邊氏・末柄氏の著作に加えて、神田裕理氏編の『ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆』(洋泉社歴史新書y)を読むと現段階における戦国時代の天皇制研究の到達点がだいたいカバーできるかと思います。もちろん大学で専門的にやろうとするならば、ここから今谷明氏の研究、奥野高広氏の研究などに遡って見ていく必要がありますし、雑誌論文でもかなり進んできています。

 

 

後土御門天皇の最大のポイントは金欠であった、ということです。

 

葬儀を出す費用が捻出できずに遺体が40日間以上放置されていた、という伝説があります。実際には防腐処理がなされていたはずであり、それほど損壊しなかったのではないか、と見られていますが、水銀を流し込んだくらいで防腐の効果があるのか、とか、いろいろ議論はあるでしょう。

 

ただ注意しなければならないのは、葬式も出せない、って言っても、50000円ほどの家族葬すら出せないほど貧窮はしていない、ということです。やはり天皇ですから、大喪の礼はそれ相応の格式が必要で、私の父のように「死んだらゴミの日にポリ袋に入れて出して欲しいが、法律的にアウトなので、法律的にセーフな状態で、できる限りゴミを捨てるように出して欲しい」と遺言すれば別ですが、普通は大喪の礼、火葬、陵墓の造成など、かなりの費用がかかります。ちなみに末柄氏前掲書によれば七万疋と言います。現在の貨幣価値にざっくり換算すると、7000万円です。昔の幕府ならばポンと出せたんでしょうが、嘉吉の乱応仁の乱以降、財政基盤が弱体化した幕府には厳しい額です。

 

前近代の天皇を理解する上で押さえておかなければならない点があります。後土御門天皇は譲位できませんでした。彼は5回も譲位を宣言しますが、譲位させてもらえませんでした。そして異例なことに在位中に崩御します。

 

現在の我々から見れば、在位中に崩御するのは当然かと思いがちですが、実は非常に少ないです。太上天皇制が始まって以降は、原則譲位します。特に院政開始以降は譲位して上皇になってから本格的に政務を見るのがノーマルな状態になり、天皇が政務を見る親政はアブノーマルになります。

 

在位中に崩御した天皇といえば、近衛天皇安徳天皇四条天皇後二条天皇称光天皇という感じになります。

 

近衛天皇は後継者が決まらず、体調不良が長引いたにも関わらず譲位が行われず、崩御後も後継者で揉めます。安徳天皇四条天皇は不慮の崩御であり、しかも幼少での崩御となっているので、譲位する余裕はありません。後二条天皇は二十四歳で、しかもかなりの急死だったようです。称光天皇は、崩御直後に譲位させることも考えられましたが、称光天皇の遺志を慮って在位のままの崩御となりました。

 

いろいろと曰く付きでなければ在位中の崩御はないわけです。在位中に崩御する、ということは、御所の触穢の問題もあって、よろしくないわけです。

 

後土御門天皇が「やめたい」というのは、実際にはそれほど奇矯なことではありません。ただ譲位すると践祚・即位の儀式で数千万円レベルの金が必要で、仙洞御所の造営にも多額の費用がかかります。この費用を出し惜しみしているから、後土御門天皇は譲位できないわけです。後土御門天皇が根性なしだった、とか、やめるやめる詐欺だ、とかいうのは当たりません。

 

この後、後奈良天皇後柏原天皇も譲位できないまま崩御します。正親町天皇織田信長が譲位を迫った、とされるのは、実際には譲位するための条件を整えたのであり、むしろその意味では信長は天皇に忠義を尽くしている、というべきでしょう。

 

後土御門天皇でもう一つ特筆されるのは、彼の大嘗会のあと、大嘗会は数百年間途絶えてしまう、ということです。費用がなくリストラされました。その後、霊元天皇が息子の東山天皇のために頑張って再興します。これは幕府ににらまれてしまい、中御門天皇は見送られますが、桜町天皇の時に今度は幕府の援助のもと再興されます。

 

後土御門天皇の大嘗会は文正元年十二月二十八日に行われています。これは西暦で言えば1466年で、文正の政変で伊勢貞親が失脚した時にあたります。翌年正月には畠山義就が上洛し、畠山政長が失脚、山名宗全細川勝元から離反し、五月には応仁の乱が勃発します。文正元年段階で近衛政家近衛家伝来の文書類を岩倉に移していますから、戦乱が勃発する予感は多くの人が共有していたに違いありません。後花園上皇もそれを感じて後土御門天皇の大嘗会を急がせたのでしょう。

後花園天皇をめぐる人々ー後土御門天皇2

末柄豊氏に「天皇と室町殿の微妙な関係」という文章があります。『新発見!週刊日本の歴史』室町時代3に入っています。

 

週刊 新発見!日本の歴史 2013年 12/15号 [分冊百科]

週刊 新発見!日本の歴史 2013年 12/15号 [分冊百科]

 

 

後土御門天皇あての一条兼良の手紙と、日野富子あての後土御門天皇の手紙を分析し、天皇と室町殿の関係を、天皇が室町殿から庇護される存在である、としています。

 

この結論には何の異論もありません。ここで異論が出せたら面白いのですが、現時点ではこの結論は動かないと思います。

 

後土御門天皇を取り上げる際に、もう少し詳しくこの書状の裏を見ていきたいと思います。

 

一条兼良消息」(一条兼良から後土御門天皇への手紙)は、天皇が自らの判断で大名に位階を追贈することの可否、と末柄氏はいいます。大内政弘が亡父教弘に対して従三位贈位を望んで兼良に仲介を求めます。ところが兼良が仲介したところ、後土御門天皇は幕府の意向を憚って拒否し、それに対し翻意を求めたもの、ということです。

 

武家官位天皇にあっても不可侵の領域として存在していた、と末柄氏はいうのですが、末柄氏の見方は一条兼良および大内政弘サイドから見たら全くその通りなんですが、後土御門天皇サイドから見ればそれほど単純なものではありません。

 

一条兼良は「贈位にすぎないのに武家からの咎めを理由に認めないのはいかがなものでしょうか」と言っています。後土御門天皇の立場に立てば、ものすごく乱暴なものいいです。

 

兼良「今回、大内政弘から亡父の教弘への贈位の要請がありました。なにとぞ贈位してやってくださいませ」

後土御門天皇「え〜!?そんなん幕府を通せや。幕府を通さんかったら幕府がどう思うか、考えたことあるか?」

兼良「いえ、今回は現任ではなくあくまでも故人への追贈です。幕府から咎めがあるかもしれないから認めないのはいかがなものでしょう」

 

私はそもそも政弘と兼良の言い分がむちゃくちゃだと思います。武家のことなんですから幕府を通せばいい話です。「武家咎めがあるかもしれない、とか弱腰になってんじゃねぇよ」という前に、幕府にお願いすれば、そもそも「武家咎め」云々と言わなくて済むわけです。

 

ということは、この贈位は幕府がそもそもいい顔をしていないことを示しています。もう一つ、兼良がここまで必死なのは、政弘から多額の献金を受け取って動いているから、以外にはあり得ません。この話は幕府云々ではなく、そもそも後土御門天皇にとっては迷惑この上ない話であったはずです。

 

将軍家御台所、というよりも後土御門天皇にとっては友達以上、不倫相手未満、というか夫公認の準恋人関係だった日野富子に宛てた後土御門天皇の手紙は何を書いていたか、というと、末柄氏の記述によれば、以下の通りです。

 

禁裏御料であった山国荘の代官である烏丸資任(からすまる・すけとう)は禁裏の修造を怠り、後土御門天皇はその解任を望んでいました。その意向と資任の抗弁の内容を教えて欲しいと、富子に書き送り、富子は資任の言い分を伝えましたが、それが不当だと言った手紙が現在残っているようです。

 

資任の主張は、山国荘の代官は足利義教から拝領したものであって、天皇による解任要求は不当だとしたものです。それに対して後土御門天皇は自分の意向を覆すのは遺憾である、と述べて改めて解任するように要求しました。末柄氏は「禁裏の修造に必要な所領の支配についてさえ、室町殿に懇願する以外の方法がなかった」としています。

 

それはその通りで、全く異存はないんですが、後土御門天皇側から見ると、日野富子にわざわざ頼み込んでいるのが目につきます。

 

十年にわたって同居していた誼を頼ったのでしょうが、だからこそ不満をぶちまけられる関係にあったと言えるでしょう。義政と後土御門天皇の間を富子が取り持っているのはなかなか興味深い現象ですが、それは十年に渡る二人の親密な関係が築き上げたものと言えるでしょう。

 

末柄氏は「天皇自身、幕府の庇護なしに朝廷の存立が不可能であることを熟知し、室町殿の判断を尊重することを当然視していた」としています。全く異論はありません。

 

ただ、それ以上に後土御門天皇の代に、十年に渡る同居で室町殿と天皇の間の緊張関係は失われ、なあなあになっていたことは見逃せないだろうと思います。

 

後土御門天皇と富子の仲良しコンビは、明応の政変では別々の道を歩むかに見えます。細川政元による足利義稙廃立を支援する富子と、それにブチ切れて退位を表明しようとする後土御門天皇は対立をするかのようですが、最終的に後土御門天皇足利義澄征夷大将軍と認定することで、富子との関係が破綻することはなくなりました。

 

後土御門天皇が結局明応の政変を追認したのは、退位するにも費用がかかるからです。その費用を出すのは細川政元日野富子なので、富子をディスっておいて富子に費用を出してもらう、というのは後土御門天皇がいかに富子とずぶずぶの関係であったとしても、気まずかったでしょう。

 

案外富子は費用をポンと出してくれたかもしれませんが。ただ政元が、意外と小さい男だったかもしれません。

 

後花園天皇をめぐる人々ー後土御門天皇

息子です。次の天皇です。遺体を40日間放置され腐敗してしまった、ともっぱらの噂です。五回も「朕は退位する」と宣言して、結局最後まで退位しなかった「やめるやめる詐欺」の人です。

 

とまあ、あまりいいイメージのない天皇ですが、実際父親の後花園天皇の頭を悩ませる程度には英邁とは言い難いところがあったようです。

 

後花園天皇は儲君時代の成仁親王に「小鳥をかわいがってばかりいないように」と文句を垂れています。まあ偉大すぎる親父を持った子どもにありがちな話ではあります。十歳でいきなり天皇にならされて、他人の中で暮らしてきた後花園天皇からすれば、後土御門天皇が自分の趣味に没頭しているのは歯がゆく見えたでしょう。後花園天皇はその年頃には実父と養父のプレッシャーの中で学問にひたすら励んでいましたから、実父のもとでのびのびと羽を伸ばしている後土御門天皇は甘ちゃんだと思えたでしょう。

 

後花園天皇後土御門天皇の有名なエピソードとして三条西実隆が、後花園天皇は40過ぎても化粧をし続けていたが、後土御門天皇は40になって化粧をやめてしまった、というのを挙げています。

 

個人的な意見ですが、後土御門天皇は、称光天皇後小松天皇後円融天皇後光厳天皇に比べるとはるかに帝王としての資質はあると思いますが、何しろ比較されるのが、歴代でも傑出していると言われている後花園天皇ですからねぇ。気の毒な面はあると思います。

 

後土御門天皇に関してはやはり渡邊大門氏の『戦国の貧乏天皇』から読み始めるのがいいと思います。

 

戦国の貧乏天皇

戦国の貧乏天皇

 

 

後土御門天皇は、十年にわたって室町殿に仮寓し続け、その間に富子の女房に手を出して皇子女を四人も(!)産ませています。普通は一回で出入り禁止、下手すれば殺されても文句は言えません。しかし相手が天皇だったので、黙認から公認へということになったのでしょう。

 

毎日のように酒宴を行なっていたようで、それもかなり乱れた酒宴を行なっていたようです。甘露寺親長が伝えるところによると、こんなやりとりがされています。

天皇「明日、義政が来るねんけど、その時に久我通尚を連れて来る、言うてんねん。でもあいつ(通尚)、後花園院の時もそんなに来てたやつやないやん。で今、義政と朕がやってるホームパーティ、完璧に乱交パーティになってもうてるやん。そこにそんなディープな関係でないヤツ呼んだらびっくりしよれへんかな、思てんねん。まああいつは近習やからしゃーないんかな」

甘露寺親長「まあ義政さんが連れて来る、いう人を拒否ったら義政さんも面目丸潰れですからね、日野勝光さんや広橋綱光さんとよくよく相談した方がいいですよ」

 

まあちょっと誇張してます。「男女混乱」を「乱交」と訳すのは行き過ぎかもしれません。というのも、後醍醐天皇が「男女共服を着ないでパーティ」という「花園院日記」の記述を訳すると「全裸でパーティ」と読めますが、厳密にはそれぞれの身分に合わない服を着ている、ということなので、この場合も男女が入り乱れていて、という話で、別に(だめだめ〜)に及んでいる、ということではないかもしれません。

 

ただ、朝廷というのは伝統的にそういう(アッハーン)なところにはゆるいところがあり、まあ全く「ただお酒を呑んでおしゃべりを楽しんでいる」だけ、と言い切れないところも多々あります。

 

現に後土御門天皇日野富子はものすごく気があったみたいで、夫の義政が帰宅したのちも二人で二次会・三次会をやってたそうで、後土御門天皇にとっては富子は二歳年上のお姉さんみたいなものだったのかもしれません。

 

で、もう一つ重要なのは、この時に政治が進むか、と言えば、一ミリも進みません。中世はやはり身分制が強固に存在する社会であって、公式的に左大臣足利義政と現職の天皇が直接やりとりを行うことはありません。公式のやりとりはあくまでも伝奏を通じた交渉になります。でも毎晩のようにパーティで盛り上がっているわけです。この時に非公式の話になることはなかった、とは言い切れないのでなんとも言えませんが。

 

この話を持ち出したのは、後土御門天皇と義政の関係がふしだらなものであった、と言いたいわけではなく、次の話の伏線ですが、話が拡散してきたので、エントリを分けたいと思います。

日野本家について

汚ったねぇ字で恐縮ですが、日野家と天皇家・将軍家の系図です。ポイントは日野宗家を中心に書いているところです。

 

つまり日野時光の子孫のうち、資教ー有光ー資親が日野家嫡流です。

資康ー重光・康子・栄子ー義資・宗子・重子ー勝光・富子は日野家の庶流の裏松家です。しかし日野富子が有名過ぎて、彼らが実は庶流であることが忘れられているのではないか、という気がしています。

 

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これ見ていると気がつきますが、足利家の外戚になっているのは裏松家である、ということです。日野家が断絶してしまったので、最終的に裏松家の勝光が日野の名跡を継いでいる、と考えるべきです。

 

日野本家はむしろ後光厳皇統との関係が深いです。だから後小松院の出家騒ぎに巻き込まれ、出家に追い込まれた有光とか、後光厳皇統をつぶして崇光皇統にしたい足利義教に憎まれて所領没収される有光とか、ブチギレて細川勝元山名宗全とつるんで後南朝を担ぎ上げて後花園天皇の殺害を狙った有光とか、後花園天皇の殺害までは考えていなかった勝元や宗全にハシゴを外されて比叡山に立てこもったが後花園天皇の綸旨ビームを受けて比叡山で戦死した有光とか、多士済々です。って全部有光かいっ!

 

哀れを留めたのは有光の子供達です。権大納言典侍の光子さんは逐電します。そら天皇殺害計画の主犯の娘が天皇のお側に仕えるわけにはいきません。資親は参議になっていましたが、逮捕されて処刑されます。そして日野宗家は断絶します。

 

日野の名跡は広橋兼郷が継承しますが、彼は貞成親王を誣告したとして追放処分になります。兼郷はデマを吐いたとされていますが、私は案外デマではなかったのではないか、と思っています。まあ思いつきですけど。

 

その後しばらく空いて、裏松義資の孫の勝光が日野の名跡を継ぎますが、これは重子所生の義勝が将軍になったからに他なりません。義教存命時には発言力があったのは三条家出身の尹子でしたが、尹子は義教との間に実子が生まれず、重子所生の義勝、義勝急死後は同じく重子所生の義政が将軍家を継承し、重子の発言力が増していきます。さらに重子と組んでいたのが、義教に追放され、義教の死後復活した畠山持国とくれば、義教がつぶそうとした日野家や後光厳皇統が復活するのは当然の理でしょう。