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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座二月第三回「朝鮮使節の見た室町日本」に向けて2

毎度ー!!!じゃなくて、毎度名前が定まらなくて申し訳ねぇことです。

 

オンライン日本史講座2月21日分の「朝鮮使節の見た室町日本」予告編の2回目です。動画を付ければプロダクトローンチっぽくなってなんか格好いいのでしょうが、動画をここで後悔する、もとい公開する根性がありません。公開したら後悔するのは目に見えてますので。鏡が苦手な人間は自らのサイトで動画や顔写真をさらすには勇気が必要です。

 

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2月21日は「朝鮮使節の見た室町日本」というテーマでお話ししますが、まず一人目は老松堂という号を持つ宋希璟です。彼の『老松堂日本行録』には様々な彼なりの観察が見られます。

 

彼が来日した前提が応永の外寇です。

 

倭寇足利義満が海賊統制を行い、また対馬国守護代宗貞茂倭寇の統制に乗り出し、また朝鮮王朝の方でも倭寇対策をとった結果、15世紀初頭には倭寇は沈静化します。しかし宗貞茂の死去と幼少の貞盛の継承で対馬の統制力は失われ、倭寇頭目の早田氏が実権を掌握します。これが1418年のことです。

 

1419年には7件の倭寇が記録されています。中でも1419年の五月には数千人の軍勢が襲撃しています。ここまで大規模化すると守護クラスの関与を疑わざるを得ません。おそらくは少弐満貞が犯人ではないか、と勝手に考えています。このころ少弐氏は必ずしも幕府体制の中に順応していません。九州探題渋川氏との戦闘は断続的に続いています。1419年はまさに渋川満頼が引退し、渋川義俊が継承した年です。満貞が勝負をかけたとしても不思議ではありません。ただ証拠はありません。

 

これが朝鮮で問題となります。朝鮮王朝もそのころゴタゴタのタネを抱えていました。当時国王は四代目の世宗(セジョン)ですが、実権は父親の三代目国王であり、上王太宗(テジョン)が掌握していました。一種の院政です。太宗は兵権を掌握し、さらに1418年には世宗の義父と義叔父が太宗に処刑される、という事件を起こしています。世宗とその外戚の力を削ごうとしたのですが、太宗が息子の世宗を全く信用していないことが伺えます。

 

そのような中、太宗は対馬への出兵を命じます。これには色々な理由があるでしょう。この頃明は義持による外交の途絶に怒り、出兵を検討していました。それに対し、朝鮮王朝にも援兵を出す準備をせよ、と命じていましたので、朝鮮王朝としては対馬倭寇が活発化すると、明による日本征服に駆り出されるリスクがありました。とりあえず朝鮮王朝としては大規模な日明間の戦争が行われることは避けなければなりません。倭寇を鎮圧すれば明による日本征服の名分は失われる、という側面は指摘されています。

 

また太宗としてはここで自らが掌握する兵権を発動して対馬への軍事行動を起こすことで、世宗の力を掣肘することができる、という読みもあったでしょう。いずれの理由にせよ、太宗にとっては軍事行動を起こすことはメリットがあったのです。

 

朝鮮王朝は渋川義俊と宗貞盛対馬攻撃を通告します。これを見る限りでは朝鮮王朝の狙いは対馬倭寇勢力の攻撃であったようです。

 

三軍都体察使の李従茂(イ・ジョンム)に率いられた朝鮮軍は無警戒だった対馬に上陸し、114人を斬首、家も2000戸近くが焼かれます。135人の拉致された明人を救出しますが、対馬の反撃で百数十人の損害を出し、戦況はこう着状態になります。

 

太宗からは7月(旧暦)に入ると大風が吹くから長期戦は避けよとの命が届き、また貞盛からも大風の影響を考えて撤退するように勧告され、朝鮮軍は撤退を決断します。

 

問題はその後です。

 

この事件は京都にも報告され、大混乱を引き起こします。『看聞日記』応永26年8月13日条には「探題持範」が報告書をもたらした、という記載があります。「蒙古・高麗」の軍が攻め寄せたが、騎馬姿の女性武者が素晴らしい活躍をして撃退した、という話です。これについて貞成親王は「この書状は本物だ」と言っていますが、そもそも「持範って誰やねん」というところです。九州探題は渋川満頼か渋川義俊です。「持」も「範」も一つもかすっていません。これはどうやら神社が作ったデマビラなのですが、それをいとも簡単に信じてしまうあたり、デマに流されやすいお人だったようです。現代の我々も貞成親王を決して笑えません。

 

さらに話がややこしくなる事件が起こっています。

 

朝鮮に対馬の使者がやってきました。その使者は対馬を朝鮮に編入してほしいと要求してきました。そこで朝鮮では慶尚道への編入を決めました。

 

しかしそれは当然ながら対馬の総意ではありません。おそらくは対馬と朝鮮の関係悪化で苦しくなった朝鮮との貿易で身を立てていた小勢力が打った芝居でしょう。しかしこれが日本側の心情を著しく悪化させることは当然です。

 

そのようなこじれた日朝関係の中で足利義持のとった対応は非常に落ち着いたものでした。義持は通信使をとりあえず派遣し、朝鮮国王に挨拶と大蔵経を贈ってくれるように頼みました。

 

その義持の通信使に対して回礼使が派遣されたのです。回礼使に任命されたのが宋希璟(ソン・ヒギョン)であることは、前回ご説明致しました。

 

彼はまず対馬で抗議されます。「朝鮮は対馬を併合するらしいですね。少弐殿と我々は命をかけてそれを阻止します」と言われました。まあ当然です。

 

宋希璟はそれに対しとりあえず積極的な併合の意図は朝鮮側にはないことを説明し、その場は無事に終わります。

 

次に彼は博多に入り、そこで渋川義俊の応接を受けます。そこから赤間関(現在の下関)で大内盛見の援護のもと、瀬戸内海を行きます。

 

問題は備後に到着した時でした。備後の守護の山名時熙はこの時将軍の意に違うことがあり、逼塞していましたので、ここには海賊統制が行き届かず、宋希璟の一行も苦労します。

 

やがて兵庫につき、そこから陸路で京都に向かいます。

 

京都では斯波義淳がその応接に関わります。彼の応接には他に亡命元人二世の陳宗奇(二代目陳外郎)や、幼少時に倭寇に拉致され、朝鮮に転売されて明に取り戻され、義満に見出されて足利家に使える魏天など、室町幕府に仕えていた国際人たちが宋希璟との交渉に当たります。

 

義持はなかなか宋希璟との面会に応じません。それはそうです。日本側の怒りをしっかりと伝える必要があったからです。

 

国書に明年号が書いてあることを知った陳宗奇は宋希璟に干支に書き換えるようにアドバイスします。しかし宋希璟もそこは突っぱねます。日本側の交渉ペースに安直に乗るわけにはいきません。

 

膠着するかに見えたこの問題ですが、些細なことから一気に雪解けとなります。

 

ある時、応接役の甲斐将久(斯波家執事、遠江国守護代)らの食卓に魚肉がないことを見た宋希璟はその旨を質問します。

 

宋「なんであなたたちの食卓には魚がないのか。うちのにはあるのに」

甲斐「前の公方の仏事でして、公方様以下物忌みで精進潔斎をしております」

宋「そういうことならば、我々も先王の供養のため精進潔斎をいたしましょう」

 

この宋希璟らの行動は義持に報告され、義持は宋希璟との面会に応じ、日朝間の懸案は解消されます。

 

この背景に清水克行氏は義持の前のめりの「徳政」への熱意とその空回りによる焦燥からくる孤独感を、宋希璟の行動が救ったのではないか、としています。

 


大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

 

 

これ自体は非常に鋭い見方ですが、同時に義持サイドとしてもどこかで交渉を妥結させる必要はあり、宋希璟の行動はある意味義持へのサインとして機能していたのではないか、と考えます。おそらく宋希璟の精進潔斎への参加は、義持に対して朝鮮使節の誠意をアピールするデモンストレーションであり、それゆえ甲斐将久もそれを義持に報告し、義持もその「誠意」を受け入れて交渉妥結に至ったのでしょう。

 

外交が言葉だけではなく、様々な行為のやりとり、メッセージの交換など様々な側面がら成り立っている、という当たり前のことがここからも読み取れます。

 

今回の講座では宋希璟が見た室町日本の内実に触れたいと思います。

 

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後花園天皇の生涯−康正二年正月一日〜十二月晦日

ちなみにこの年は後花園天皇が仙洞御所に方違え行幸を頻繁に行っています。仙洞御所の主の父の法皇貞成親王)が病気になっていたようです。この年八月二十九日、八十五歳で「崩御」します。

貞成親王が実際に法皇待遇だったのは「崩御」という表記からも明らかですが、薨ずと書いてある史料もあって、実際のところはより慎重に検討する必要があります。

康正二年
正月一日、四方拝、御薬供、元日節会
師郷記、続史愚抄
五日、叙位
師郷記、続史愚抄
七日、白馬節会
師郷記
八日、太元帥法
続史愚抄
十一日、県召除目延引
続史愚抄
十六日、踏歌節会
師郷記
二月三日、大原野祭延引
師郷記
四日、祈年祭延引、この夜別殿行幸
師郷記
七日、釈奠延引
師郷記
八日、春日祭
師郷記
十三日、園韓神祭延引
師郷記
十五日、大原野祭追行
師郷記
十七日、釈奠追行、ただし宴穏座を停止
師郷記
二十五日、再び園韓神祭延引
師郷記
三月三日、御燈、御拝
師郷記
二十四日、方違として仙洞御所に行幸、翌朝還御
師郷記
二十九日、県召除目追行
管見記、師郷記
この日、造内裏紫宸殿、春興殿、清涼殿ならびに諸門等の木作始、立柱上棟などの日時を定める。紫宸殿、春興殿などの木作始あり
師郷記(十二日・二十二日・三月三日・二十九日)、管見記、続史愚抄
四月一日
旬、平座
五日、法勝寺大乗会
師郷記
九日、方違として仙洞御所に行幸、翌朝還御
管見記、師郷記
十一日、紫宸殿立柱上棟始、次いで破風葺檜皮日時定
管見記、師郷記、皇代年略記、修法部類記
十三日、吉田祭延引
師郷記
二十一日、平野祭追行、松尾祭ならびに日吉祭は延引
師郷記
二十二日、賀茂祭、梅宮祭
師郷記(二十二日、二十三日)
二十五日、吉田祭追行
師郷記
五月二日、別殿行幸
師郷記
十九日、止雨奉幣
師郷記
二十五日、仙洞御所に行幸、翌朝還御
管見記、師郷記(二十四日、二十五日)
二十六日、止雨奉幣
師郷記
三十日、権大納言日の家秀(秀光)に内大臣追贈宣下
師郷記
六月七日、来月遷幸御祈の日時定
師郷記
十一日、月次祭、神今食を行う、この日祈年祭を追行
師郷記
十二日、足利義政、参内して物を献ず
師郷記
十三日、別殿行幸
師郷記
十四日、祇園御霊会を延引
師郷記
二十七日、遷幸御祈八社奉幣、御拝
師郷記
三十日、大祓
七月二日、新造内裏遷幸已前御祈諸社御読経日時、僧名および遷幸日時以下条々の定あり
管見記、師郷記、康正二年八社仁王経御読経記
四日、日吉祭追行
師郷記
六日、新造内裏諸門立柱上棟あり
管見
十日、この日より新造内裏で安鎮法を行う、十六日結願
師郷記(十日・十四日・十六日)、修法部類記、続史愚抄
十二日、祇園御霊会追行
師郷記
二十日、東洞院殿より新内裏土御門殿に遷幸
管見記、師郷記、皇年代略記、続神皇正統記続史愚抄
二十五日、将軍足利義政参内
師郷記
二十六日、別殿行幸
師郷記
八月四日、北野祭、同臨時祭
師郷記
十五日、石清水八幡宮放生会延引
師郷記
十六日、駒牽
師郷記
十八日、御霊会
師郷記
二十日、釈奠、但し宴穏座を停止
師郷記
二十九日、後崇光院崩御
師郷記、大乗院寺社雑事記、続史愚抄
九月三日、御燈停止
師郷記
四日、後崇光院中陰を大光明寺内地蔵殿に始行
師郷記
九日、重陽節句、平座を停止
師郷記
十一日、伊勢例幣を延引
師郷記
十五日、禁裏御祈祷のため天地災変祭を行う
師郷記
二十日、この日より十日間定観寺老僧を召し、禁裏で法華経を講ず
師郷記
二十九日、後崇光院遺詔奏、この日錫紵著御の儀あり
師郷記、禁裏御錫紵之事同若宮御方御軽服御服之事
十月一日、旬、平座停止
師郷記
四日、この日より禁裏で如法仏眼法を修す、十日結願
師郷記(四日・十日)
八日、後崇光院三十五日御仏事のため、御経供養を大光明寺に行う
師郷記
十一日、後崇光院四十九日御仏事を大光明寺に行う
師郷記
十八日、この日より禁裏で二尊院長老の大経談義、三十日結願
師郷記(十八日・三十日)
二十八日、二尊院長老を召して円頓戒を受ける
師郷記
十一月六日、平野祭ならびに春日祭延引
師郷記
七日、梅宮祭延引
師郷記
十日、大原野祭延引
師郷記
十一日、園韓神祭
師郷記
十二日、鎮魂祭延引
師郷記
十三日、新嘗祭
師郷記
十四日、豊明節会を停め、平座
師郷記
十八日、春日祭追行、この日再び平野祭延引、また吉田祭延引
師郷記、続史愚抄
十九日、梅宮祭追行
師郷記
二十二日、大原野祭追行
師郷記
二十四日、鎮魂祭追行
師郷記
十二月一日、吉田祭追行
師郷記
二十日、興福寺維摩
三会定一記
二十七日、後七日御修法を追行
続史愚抄(二十七日・三十日)

オンライン日本史講座二月第三回「朝鮮使節の見た室町日本」予告

自分で作成した更新スケジュールを間違えて日曜日にアップする予定の「後花園天皇の生涯」をアップしてしまいました。というわけで深夜に書いています。

 

ticket.asanojinnya.com2月21日のオンライン日本史講座「朝鮮使節の見た室町日本」の予告編です。

 

朝鮮半島と日本列島にそれぞれ成立した国は長い間交流を続けてきました。今回はそれについて見ていきます。

 

室町時代は特に両者の間が密接な時代でした。とは言っても必ずしも友好関係一色ではありません。

 

江戸時代の朝鮮通信使研究は1990年代にブームになりました。日朝友好の歴史として把握すること自体、間違いとは言えませんが、朝鮮通信使を友好一色で塗りつぶすのも、現実から目を背ける面がないとは言えないでしょう。朝鮮通信使がもたらす文物に人々は関心を寄せ、先進文化を受容する場であったことは事実です。しかし一方で自文化が一番と考える意識も存在し、そこに摩擦が起こっていたことも見なければならないでしょう。

 

江戸時代には朝鮮から通信使が来るのみでしたが、室町時代には相互に通信使を出し合っていました。

 

朝鮮王朝は非常に手続きに厳密です。これはおそらく儒学と関係があると思います。やってくるのは通信使、通信使への返事は回礼使、拉致された人々の送還を担当するのが刷還使というように、その役割に応じて名前が付けられていました。

 

室町時代には何回か来日していますが、詳細な記録が残っているのが一四二〇年に来日した日本回礼使の宋希璟(ソン・ギヒョン)の時と、一四四三年に来日した日本通信使卞孝文(ピョン・ヒョムン)の時です。

 

宋希璟の時は通信使本人の宋希璟が『老松堂日本行録』を、卞孝文の時には書状官として来日した申叔舟(シン・スクチュ)による『海東諸国紀』です。いずれも岩波文庫に入っています。

 


老松堂日本行録―朝鮮使節の見た中世日本 (岩波文庫)

こちらは宋希璟の書いた『老松堂日本行録』です。応永の外寇の後処理に来た宋希璟の紀行文です。足利義持との困難な交渉や、宋希璟の見た当時の日本社会が生々しく描かれています。解説は村井章介氏です。

 

 


海東諸国紀―朝鮮人の見た中世の日本と琉球 (岩波文庫)

こちらは申叔舟の『海東諸国紀』です。この本自体は1471年に書かれていますが、彼は1443年に来日しています。足利義教のお悔やみと足利義勝の就位のお祝いです。しかし彼らが滞在中に足利義勝が病死し、義勝のお悔やみになってしまいます。

 

この使節については以前述べました。

sengokukomonjo.hatenablog.com

sengokukomonjo.hatenablog.com

申叔舟は首陽大君(スヤンテグン)の書状官として北京にも行っています。首陽大君は後に甥の端宗から王位を簒奪しています(癸酉靖難)。おかげで世祖とその側近であった申叔舟は悪役になります。

 

この書は「日本国紀」(!)「琉球国紀」などから成っています。

「日本国紀」では「天皇代序」「国王代序」と地理の記載がなされています。日本・朝鮮が朝鮮王朝からどのように理解され、応接されてきたかが記されており、当時の日本社会を知る上でも貴重な所見を提供しています。

 

 これらについての研究として真っ先に上げておくべきなのは関周一氏の本でしょう。

 


朝鮮人のみた中世日本 (歴史文化ライブラリー) [ 関周一 ]

この著作では『老松堂日本行録』と『海東諸国紀』を中心に、朝鮮人漂流人の記録も使って、当時の日本の姿を「旅人の視点」から見直しています。

 

朝鮮使節による記録の特徴は、日本側には当たり前すぎて記されていなかった日本の姿が描かれていることにあります。いわゆるエトランゼの視点となります。エトランゼの特徴は、その文化にどっぷり浸かってしまっている人々が自明のこととして特に気にもとめていないその文化の特質をするどくえぐり出して見せるところにあります。例えば日本の男女の人口比は1:2で、圧倒的に女性が多いことを宋希璟は書き残しています。

 

 

宋希璟についてはこちらの清水克行氏の著作にも触れられています。

 


大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

この著書は基本的には応永の飢饉について述べていますが、飢饉の直前に起こった応永の外寇やその交渉のために来日した宋希璟についても少し触れられています。宋希璟と散々もめていた足利義持がなぜ態度を翻して友好的になったのか、の理由について興味深い視点が提示されています。

 

ちなみに、そういう室町日本の特徴について、清水克行氏と高野秀行氏の対談の本があります。これは室町日本に関心のある人および現代のアジア・アフリカの「辺境」とされる地域に関心のある人におすすめです。とりあえず歴史学に関心のある人にはお勧めできます。

 


【中古】 世界の辺境とハードボイルド室町時代 /高野秀行(著者),清水克行(著者) 【中古】afb

 

 

後花園天皇の生涯−享徳四年正月一日〜康正元年十二月晦日(七月二十五日改元)

享徳四年
正月一日、小朝拝、御薬供、元日節会
清贈二位宗賢卿記、師郷記、続史愚抄
二日、御薬供、殿上淵酔
清贈二位宗賢卿記、師郷記
三日、御薬供
師郷記
五日、叙位
清贈二位宗賢卿記、師郷記、康富記
七日、白馬節会、出御
管見記、清贈二位宗賢卿記、師郷記、康富記
八日、太元帥法を行う、後七日御修法は延引
康富記、続史愚抄
十一日、県召除目延引
続史愚抄
十六日、踏歌節会、出御
康富記、清贈二位宗賢卿記、師郷記、続史愚抄
十九日、石清水八幡宮厄尽会を延引
康富記、
二月一日、釈奠延引
師郷記
三日、大原野祭延引
康富記、師郷記
四日、祈年祭延引
清贈二位宗賢卿記、師郷記
八日、春日祭延引
康富記、師郷記
十一日、釈奠追行、日吉神輿動座につき宴隠座を停止
康富記、清贈二位宗賢卿記、師郷記
十三日、園韓神祭
師郷記
十五日、大原野祭を追行
康富記、清贈二位宗賢卿記、師郷記
二十日、春日祭追行
清贈二位宗賢卿記、師郷記
二十三日、別伝行幸
清贈二位宗賢卿記
二十八日、木寺宮親王宣下、邦康と名付ける
康富記、清贈二位宗賢卿記、師郷記
三月一日、元応寺、法勝寺に勅使を差遣、慈威上人百年忌による
康富記、清贈二位宗賢卿記
三日、御燈
康富記、師郷記
四日、祈年祭追行
管見記、康富記、師郷記
二十四日、右大臣洞院実熙を一上とすべきより仰せ出る
康富記、師郷記
二十八日、県召除目追行
康富記、師郷記
この日、足利義政足利成氏追討の旗を賜う
続史愚抄
四月一日、平座遠因、日食による
清贈二位宗賢卿記、師郷記
二日、平座追行
清贈二位宗賢卿記、師郷記
七日、別殿行幸
師郷記
九日、松尾祭、平野祭延引
康富記、師郷記
十日、梅宮祭
清贈二位宗賢卿記、師郷記
十三日、吉田祭
康富記、清贈二位宗賢卿記、師郷記
二十一日、日吉祭延引
康富記、師郷記
二十二日、賀茂祭延引、武家要脚がないため
康富記(二十日、二十二日、二十三日、二十四日)、師郷記(二十二日、二十三日、二十四日)
四月一日賀茂祭停止に関し、一条兼良二条持通に勅問あり
康富記
十六日、賀茂祭再び延引
続史愚抄
二十七日、日吉祭追行
康富記、師郷記
二十八日、賀茂祭追行
康富記(二十六日、二十八日、二十九日)、師郷記
五月五日、僧正教覚に天台座主宣下
師郷記、続史愚抄
十日、平野祭追行、同臨時祭は延引
師郷記
六月五日、前関白二条持通を関白氏長者とし、牛車・兵仗等元の如くの宣下
師郷記、続史愚抄
六日、前内大臣西園寺公名太政大臣に任ず
管見記、師郷記
十一日、月次祭、神今食
師郷記、続史愚抄
十四日、祇園御霊会
師郷記
二十九日、大祓
続史愚抄
七月五日、右大臣洞院実熙第にて年号勘者宣下
師富記、清贈二位宗賢卿記、康富記
七日、乞巧奠、楽あり、詩歌会
康富記、師郷記
十七日、改元定を延引
康富記
二十三日、門上墓で菅原為賢、年号勘文を上る
清贈二位宗賢卿記
二十四日、大内記唐橋在治、年号勘文を上る
清贈二位宗賢卿記
二十五日、改元、享徳四年を改めて康正元年とす。兵革による
清贈二位宗賢卿記、師郷記、元秘別録
康正元年八月四日
康富記、師郷記
十四日、釈奠を追行、但し宴穏座を停止
康富記、師郷記
十五日、去年の石清水八幡宮放生会を追行
康富記
十六日、駒牽、この日関白二条持通太政大臣の上に列すべき宣下あり
康富記、師郷記
二十七日、右大臣洞院実熙を左大臣に、内大臣一条教房を右大臣に、権大納言近衛教基を内大臣に任ず、この日兼官除目
康富記清贈二位宗賢卿記、師郷記
二十九日、別殿行幸
師郷記
九月九日、重陽節句、平座
康富記、師郷記
十一日、伊勢例弊遠因
康富記、師郷記
十八日、白鷺二羽、内裏南殿の上に集まる、よって陰陽寮にこれを卜せしむ
康富記、師郷記
二十二日、軒廊御卜、伊勢神宮の怪異による
康富記、師郷記
二十四日、禁中で八字文殊
仁和寺御伝
二十八日、法勝寺で大乗会
康富記
十月一日、旬、平座
管見記、師郷記
十三日、別殿行幸
師郷記
十四日、この日より禁中で北斗法
師郷記
二十日、後小松天皇聖忌により免者、また安楽光院にて御経供養
康富記
二十八日、木寺宮邦康親王を三品に敍し、中務卿に任ず、この日元服の儀ありしによる
師郷記、続史愚抄
十一月一日、平野祭、春日祭延引
康富記、清贈二位宗賢卿記、師郷記
二日、梅宮祭
清贈二位宗賢卿記、師郷記
十三日、春日祭追行、また吉田祭行われる
康富記、師郷記
十七日、大原野祭延引
師郷記
十八日、園韓神祭
康富記、師郷記
十九日、鎮魂祭
康富記、師郷記
二十日、新嘗祭
康富記、師郷記
二十一日、豊明節会を停め、平座
康富記、師郷記
二十五日、平野祭を追行、同臨時祭は延引
康富記、師郷記
二十九日、大原野祭追行
管見記、康富記、師郷記
十二月八日、二条政嗣二条持通子息)に叙位、禁色等の宣下、この日元服による
康富記、師郷記、続史愚抄
十一日、月次祭、神今食を延引
清贈二位宗賢卿記、師郷記
十四日、昼御座において読書、高辻長継、史記を授ける
康富記
十七日、禁中において歌合会
内裏歌合
二十日、石清水八幡宮放生会、上卿以下の参列なし
続史愚抄
二十一日、別殿行幸
師郷記
二十七日、貢馬御覧、将軍足利義政、歳末の御礼に参内
康富記、師郷記
二十九日、追儺、内侍所御神楽、同臨時御神楽を附行、この日小除目
康富記、師郷記、続史愚抄

オンライン日本史講座二月第二回の報告

今日は「日明貿易日本国王」という題で行いました。

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まずは「海禁体制」です。

鎖国論から「四つの口」論への転換から話を始めました。

近世(江戸時代)を鎖国体制という、国を閉ざしていた、という見方で見るのではなく、あくまでも交流の統制として、統制下に置かれながらも続いた交流に注目すべき、という議論です。

 

そのような見方が出てくる背景として、中世における多様な地域間交流の問題が挙げられます。「四つの口」における「松前口」「対馬口」「薩摩口」は、中世以来の伝統を引き継いでいます。それらは断ち切られることなく続いていたのです。

 

以前から国家間の交渉を研究する「対外交渉史」というテーマは存在していました。国家間のみならず、地域対国家、地域対地域の関係を研究する「対外関係史」という視座、さらには国家の中の地域、国家を超えた地域など様々な地域概念が提出され「対外関係史」の研究は進みますが、そこに海によって繋がる視点を導入した「海域アジア史」というテーマが20世紀末には出てきます。日本国王論もそこに規制されています。

 

今回のテーマの大きな柱が「日本国王良懐」です。

 

1369年、明の洪武帝は使者を派遣し、日本に朝貢倭寇統制を呼びかけます。と言っても当時の日本において倭寇統制の実を期待できるのは太宰府を制圧している征西将軍府しかありません。室町幕府は九州では圧倒的に不利な状況で、逆に南朝は九州以外では完全に追い詰められていました。明は良懐を日本王の「近属」と正確に認識していました。

 

洪武帝の使者は1回目は激怒した「良懐」に数人が斬殺された上に残された二人も拘留の末に追放されます。それでも洪武帝は2回目の使者を派遣します。2度目の使者である趙秩は良懐の説得に成功し、良懐は禅僧の祖来を派遣し、称臣朝貢してきます。

 

ここでの論点の一つは良懐は趙秩に「お前は蒙古の使者だろう」と詰め寄っている、と明の史料には書かれています。趙秩は「我々はその蒙古を滅ぼして新たに中華帝国を作った明である」と言っています。良懐は元から明への移り変わりを知らなかったのか、知っていてそう言ったのか、という問題があります。博多にいた、という懐良親王の立場を考えれば知っていた、と考えるのが自然ですが、懐良が蒙古と名指ししたのは、侵略者=蒙古というように表現していた可能性はないかな、と考えます。というのはその40年後に伏見宮貞成親王応永の外寇のことを「蒙古」の襲来と書いているからです。ちなみに通交相手の中華帝国のことを日本では伝統的に「唐」と呼んでいました。

 

洪武帝はそれに応えて禅僧の仲猷と無逸の二人を遣わしますが、良懐を日本国王冊封するはずだった彼らを思わぬ運命が待ち受けています。良懐は「新設の守土臣」に敗北し、無逸らはとらわれの身となります。

 

ここで思いつきましたが、なぜ洪武帝は禅僧を派遣したのか、という疑問に対する答えですが、良懐サイドが派遣した使者が禅僧だったから、という可能性があります。

 

それはともかく、無逸らは京都に連行され、そこの「持明」という勢力と交渉することになります。幼君が在位し、臣下が国権を思うままに振るう政治体制は明の受け入れるところとはなりませんでした。室町幕府の最初の遣使は失敗に終わります。

 

良懐こと懐良親王も最後はいつ、どこでだったのか、は明らかにならないままで、しかも懐良死後には征西将軍府の自立化が南朝から難詰されることになります。いわば一種の亡命政権だった可能性が議論になりました。つまり南朝が滅亡したら懐良が南朝を再興するという形だったのではないか、ということです。

 

後半は足利将軍と日本国王の関係です。

 

一つ目の論点は、義満の「日本国王」は受け入れられていたのか、ということですが、これは当時の日本では非難轟々、従って日本国王天皇に変わる権威として期待した、という王権簒奪のツールとしての日本国王は成り立たないだろう、という見通しが立ちます。あくまでも貿易名義として日本国王を把握するべきだろう、ということです。

 

その点に関わって興味深いのが、足利義教の時の明の使者への応対です。義教を日本国王冊封する使者がやってくるのが永享6年です。

 

その時に拝礼、肩書き、年号が問題になりました。詳細は前回のエントリをお読みください。

http://sengokukomonjo.hatenablog.com/entry/2019/02/13/003644

 

ここでの問題は満済がどう対応したかです。満済は折中の儀にて2回、明の皇帝に日本大臣として礼を尽くすのは問題ではない、前に日本国王と書いているのだから日本国王と書いておけ、そもそも将軍は覇王だ、明年号にしておけ、せっかく明はよろこんでいるのだから、水を差すな、どうしても明に臣従したくないというのならば「日本は神国なので外国に従うことはできない」とでも手紙に書いとけ、という主張でした。

 

問題は赤松満祐と細川持之がなぜちゃぶ台返しに出たか、です。拝礼なし、日本国、日本年号というちゃぶ台返しを持ち出してきたのは彼らです。でも彼らも満済と同じく日明貿易の利害関係者です。日明関係を悪化させて得なことは何一つありません。

 

ヒントは満済が「公方様(義教)も知らんかったんかいな」と驚いているところと、言い出しっぺが義教らしいところです。

 

多分義教がいきなりちゃぶ台返しを始めたのではないでしょうか。永享6年には義教の暴走が始まっていた、と言われています。畠山満家と後小松法皇が死去し、義教にとっての目の上のたんこぶがなくなっていました。全能感にひたった義教が日明関係にも口を出し始めたとしても不思議ではありません。満済は結局自分の言い分を通したようです。

 

修士論文を書いていた頃は「満済の発言力は結局偉大だな、義教も持之や満祐も満載には逆らえないんだな」としか思っていませんでしたが、余裕を持って史料に向かうことができるようになりますと、そのころ満済が心臓疾患らしい症状を頻りに訴えていることがわかりました。体調不良の中、必死で義教らの無茶振りを修正している満済の苦しみが理解できたような気がします。

 

そのころの重要な輸出品の硫黄についても議論になりました。

 

硫黄は明にとっては重要な武器の原料です。しかし日本ではあまり使い道がありません。その硫黄は将軍の独占物です。武器はやはり公方の専管事項であることがわかります。

 

その硫黄取引に手を染めて失脚したのが山名時熙です。

 

で硫黄に関連して取り上げるべきなのが、島津氏久足利義持による永楽帝への謝罪の使節です。義満の死後、永楽帝を無視してきた義持が謝罪してきた時、永楽帝は喜んで義持に謝罪を受け入れ、今後一層忠節を励むように言い渡す勅諭を出します。それを見て義持は激怒します。

 

義持の謝罪の使者は偽物だったのです。硫黄を輸出できなくて困っていた氏久はおそらく義持名義の偽物を出すことで硫黄を捌こうとしたのではないでしょうか。

 

天皇日本国王の関係も議論になります。

 

日本国王は「人臣に外交なし」という海禁体制の根本をクリアするために作られた称号です。建前上は日本国王の上には明皇帝しかいません。しかし日本国王は同時に日本の左大臣であったりするわけです。ここをどう考えるか、です。

 

株式会社日本の代表取締役会長が天皇代表取締役社長が将軍という見方もできるんじゃないか、という意見が出されました。で、どちらが実権があるか、という問題である、という見方です。

 

実際、現在の室町時代研究では天皇と将軍を共同経営者と見る見方が主流です。将軍による天皇大権の侵害に見えるのも、天皇大権の復活に見えるのも、とどのつまりは代表権は二人にあるものの、力関係がどちらに傾くか、という問題であり、同じ経営体制の中にあることは事実である、と見る見方です。

 

会社の経営を掌握してきた代表取締役社長が急死し、後継者候補はまだ9歳の少年で、代表権のない専務が後継者候補を補佐している段階で、それまで退いていた代表取締役会長が経営の前線に出てくるようなものです。

 

本日はレギュラーメンバーが二人ほど所用で参加できなかったため、いつもより長めでお送りいたしました。

 

このオンライン日本史講座では私の話よりも、それを題材として展開される議論がメインです。議論の行方に主体的に関わるもよし、どこに行くのかハラハラドキドキしながら議論を見守るのもよし、顔出しあり、なし、どちらでもOKです。様々な参加の仕方で楽しめるのがこの講座の一番いいところではないか、と思います。

 

ぜひ一度お越しください。

 

次回は2月21日の「朝鮮使節の見た室町日本」です。

 

予告エントリは金曜日深夜、日曜日深夜、火曜日深夜にアップします。お楽しみにお待ちください。

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後花園と後土御門の化粧

昔の偉い人の顔は化粧をしているのはご存知なことと思います。

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少弐景資竹崎季長絵詞」

これは文永の役竹崎季長を見送る少弐景資ですが、しっかり顔に白粉を塗り、口紅をさしてお歯黒をしているのが見えると思います。ちなみにこの日景資は征東左副都元帥劉復享を弓矢で負傷させています。歴戦の勇者劉復享も「五月人形みたいに着飾ったヤツにやられた〜!!!」と思っていたかもしれません。

 

天皇はもちろん白粉を塗るのみならず眉毛も抜いて置眉をします。いわゆる麻呂眉です。麻呂眉はもちろん俗称で殿上眉と言います。ちなみに「麻呂眉」は一発変換で出ますが、他の、例えば「置眉」は「置き眉」と出ます。そして「置眉」で検索するとグーグル先生に「もしかして置き眉?」と聞かれます。「置眉です!」と言いたくなります。「殿上眉」も「天井眉」で出ました。

 

天皇雛人形を見てもわかりますように麻呂眉です(面倒臭いので麻呂眉にします)。ところがここで後花園天皇の画像を見てみましょう。

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麻呂眉がありませんね。化粧っ気もありません。

そこで興味深い史料があります。『実隆公記』文明13年2月22日条です。

今夜候鬼間。抑今日拝龍顔之処、被略御仮粧〈今年四十〉者也。旧院四十三四之御比、未令略給之由奉見及者也。如何。

 わかりやすく言えば、後土御門天皇と会ったところ、化粧を略していました。40歳です。後花園天皇は43歳44歳のころにはまだ化粧をしていた、ということです。後土御門天皇をディスっていることだけはわかります。「父君と比べて今の人は・・・」という感じがビンビン伝わってきます。三条西実隆にその気持ちがあるかどうかはわかりません。しかしこの記述を後土御門天皇が見ればそう感じることはほぼ間違いがないと思います。

 

で、この話からわかるのは、上の後花園天皇像はかなり晩年のものではないか、と思われることです。

 

それともう一つ思いますのは、ではいつ後花園天皇は化粧をやめたのか、という問題です。私はそれは天皇譲位の時ではないか、と考えています。後花園天皇は非常に高い意識で天皇の位に臨んでいました。それは彼自身が傍系から皇位を継承した、という事情があるでしょう。

 

彼の在位年数は実は当時では最長でした。もっとも後花園本人はそれを知る由もありません。というのは、建前上は102年在位した孝安天皇がいます。したがって36年在位した後花園天皇はまだまだ短いとされていたのです。しかし不自然に在位年数の長い天皇を省いて、在位年数がそれなりにはっきりしてくる継体天皇以降で見れば後花園が一番です。推古天皇の35年がそれに次ぎます。後小松天皇は30年で、これも異例の長さと言えます。

 

後花園は譲位したのが45歳。44歳でも略さなかった、ということは、譲位までは化粧をしていた、ということでしょう。

 

後土御門は40歳で化粧をやめてしまったのは、多分天皇を続ける気力が失われていたことの表れでしょう。だから実隆もさりげなくディスっていたのではないかと考えます。

 

後土御門は五回も譲位を口にします。しかし皮肉なことにそれは全く叶えられませんでした。譲位すれば仙洞御所を立てねばならず、践祚と即位に金がかかります。大嘗会の問題もあります。応仁の乱後、急速に収縮してゆく室町幕府にその費用が出せるはずはありません。彼の譲位の望みは叶えられないままでした。

 

その結果、後土御門は後花園の在位年数を更新します。13211日です。後花園は13133日です。78日長く在位しました。後土御門は終始父帝後花園へのコンプレックスに悩まされたようですが、在位年数だけは父帝を超えました。もっとも後土御門はそこは超えたくなかったところでしょう。

 

ちなみに後土御門の記録を抜くのは光格天皇です。在位38年。その記録は明治天皇が抜き去り、そして昭和天皇が最長不倒の64年の在位となっています。後花園天皇は5位に、後土御門天皇は僅差で4位につけています。

オンライン日本史講座2月第2回「日明貿易と日本国王」に向けて3

オンライン日本史講座2月第2回「日明貿易日本国王」のための予備講座3回目です。

 

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今回は室町幕府の将軍と日本国王についてざっくりと述べていきます。

 

最初の「日本国王」である「日本国王良懐」こと懐良親王今川了俊に敗れ、筑後の山奥に逼塞します。没年も薨去した土地も厳密にはわかっていません。

 

懐良親王没後にも「日本国王良懐」名義の使者は実は見られます。八代の名和氏ともあるいは北朝方の勢力とも言われます。ともかく「日本国王良懐」名義以外では明に通交できませんから、とりあえず「日本国王良懐」を名乗る以外には手はないわけです。

 

しかし実態はありませんし、明も良懐こと懐良親王の征西将軍府が崩壊したことはわかっていますから、それ以後の遣使は全て却ています。

 

洪武帝が死去し、建文帝が後継者になり、叔父の燕王と抗争が始まります。靖難の変です。燕王との緊張関係が増す中、「日本国源道義」の使者がやってきます。いうまでもなく足利義満の使者です。燕王と戦わなければならない建文帝は日本の来朝を喜んだことでしょう。義満を日本国王冊封します。

 

建文帝は敗れ、燕王が皇帝になります。永楽帝です。

 

永楽帝は積極的な海外膨張政策をとります。その最中に日本国王の使者がやってきたのです。あの、クビライ・カアンですら手を焼いたあの日本が、です。父親の洪武帝も手を焼いたあの日本です。永楽帝は己の実力に酔いしれたことでしょう。しかも鄭和からは「麒麟」の発見のニュースも飛び込んできます。「永楽の盛時」はここに極まりました。

 

しかし日本国王源道義は間も無く死去します。永楽帝はこれを悲しみ「恭献王」の諡号を贈ります。

 

永楽帝に逆風が襲い掛かります。日本が離反しました。「世子源義持」は当初は恭献王源道義の後継の日本国王として冊封されますが、やがて明との関係を拒否します。何があったのかは当日お話しします。

 

永楽帝後宮の乱れ、国内の不満の鬱積など様々な困難に直面します。さらに彼の健康も衰えていきます。求心力を保つために大規模な外征に打って出ます。しかしその途上で彼は戦病死します。

 

永楽帝については私はこの本を参考にしています。

 


永楽帝―中華「世界システム」への夢 (講談社選書メチエ)

 

日本では義持が死去し、足利義教が継承します。義教は朝鮮を通じて明との国交回復を持ちかけますが、朝鮮からは断られます。しかし永楽帝の後を継いだ宣徳帝(間にもう一人いる)は琉球尚巴志を介して義教に朝貢を呼びかけます。

 

義教の時代には日明貿易は二度派遣されます。しかし明からの使者を迎える時にいろいろ議論が沸き起こります。

 

有名なのが満済が述べた言葉です。「前回の明からの使節への応接について丁寧すぎる、と内々に斯波義将が述べていた」というあれです。そこから義満の明に対する卑屈な姿勢が云々され、また義教がその対応を改めたことで義教の株が上がる、ということになっています。

 

しかし橋本雄氏によれば、そもそも斯波義将は義満が明の使節にどのように応対したか、その場には居合わせていなかった、ということです。義満についていたのは昵懇の公家と僧侶だけだったようです。つまり義満は気のおけない人物だけを連れて明との応接に臨んでいたようです。しかもその対応は非常に高圧的であった、といいます。

 


中華幻想―唐物と外交の室町時代史

 

義教の時には明の皇帝の勅書にどのように接するか、というのがまず問題になります。これについて礼拝をしない、という案も出されますが、満済が三度を超えなければいいのではないか、と発言し、二回の拝礼ということに決定します。

 

返書に日本年号を書くのか、明年号を書くのか、が問題となります。多くの意見では日本年号を主張していました。鹿苑僧録の宝山乾珍(足利直冬の子)は干支を主張します。しかし満済はいずれも退け、明年号を主張し、満済の意見が通ります。満済の所属する醍醐寺は明との貿易に絡んでいましたので、くだらないプライドで醍醐寺の経営に関わる日明関係が破綻するのは避けたい、という気持ちだったでしょう。

 

返書の義教の肩書きも問題になります。日本国王と書くのはまずいんじゃないか、という意見です。つまり日本国王は明皇帝の臣下ではないか、ということです。満済はおそらく半分キレながら返答しています。

「あのな、昔の義満のことは全部うーそさ、そんなもーんさ、とは言われへんやんか。今更失敗だったというてどないしますねん。明かてものすごくこちらの遣使をよろこんでいるんや。それをひっくり返してどないするつもりですねん。こちらが下手、いうても義教様は日本の大臣やねんから相手の皇帝にベコベコするのは当然やん。国王という肩書きまずい、って覇王やから「国王」で問題ないですやろ」

 

まあかなり意訳してますが、満済の言い分は以上の通りです。満済は腹の底では「そんなしょーもないプライド振り回してせっかくの経済関係ぶっつぶすってほんまにあいつらみんな脳みそ入ってるんか?」程度には思っていたでしょう。半ばヤケクソ気味に「そんなに気になるんやったら『日本は神国やさかい、マウンティングされるわけにはいきません、いうたらよろしいやん」と言っています。もちろん面と向かって明皇帝に喧嘩を売る根性は細川持之や赤松満祐にはありません。

 

あと興味深いのは満済が「義教さまもご存知なかったんかいな」と驚くシーンがあることです。日本国王として儀式に臨む時の姿勢をよく知らなかったようです。

 

 義政の代には明も衰えが隠せず、日本からの朝貢を制限するようになります。

 

朝貢は莫大なお返し、つまり回賜品が必須です。十倍返しくらいが妥当です。周辺諸国はその回賜品が目的なので、回賜品を得るために貢物を持ってきて中華帝国の威信を向上させる手伝いをしているわけです。これはつまり経済的に苦しくなってくると明は朝貢を制限するようになります。

 

義政時代には10年に1回に制限されます。室町将軍にとって日明貿易経済的利益のみならず文化の最先端を行く文化のプロデューサーたりうるための文化の輸入先でもあったのです。「唐物」が手に入らなくなると室町将軍は自らがプロデュースする必要に迫られます。

 

この時期日本のみならず周辺諸国で「伝統文化」が成立する背景はそこにあります。

 

この辺についても語れたらな、と思います。では木曜日にお会いしましょう。

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