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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

ラボール学園で「和の文化体験教室 古文書のお勉強始めませんか」を行います

ラボール学園(京都勤労者学園)で「古文書のお勉強始めませんか」という講座を開催することになり、私が担当させていただくことになりました。

 

これは9月2日(月)午後1時30分から午後3時30分に開催される「1回講座 和の文化体験教室 古文書のお勉強始めませんか」です。

 

1回講座なので気軽にお越しいただけます。

 

対象としてはくずし字解読の経験がない、というレベルの方を想定しています。一応1回受講していただければくずし字を読むためにはどのような努力をすればいいのか、ということをお伝えできれば、と思っています。

 

www.labor.or.jp

 好きな戦国武将の文字を読みたいと思っている方、博物館に展示されている資料が読めたら楽しいのにな、と思っている方、そういう「歴史をもう少し詳しく知りたい」という気持ちに応えてくれるのが古文書(こもんじょ)です。
 しかし「難しそう」「こんなの読めるはずがないし」とあきらめていませんか?
 今回、ラボール学園で普段開講している古文書講座のエッセンスをまとめた1回講座「古文書のお勉強始めませんか?」を開講します。

 

申し込み受付は8月6日(火)からです。

最凶のヒャッハー源義親

今日のオンライン日本史講座のまとめです。

 

源義親源義家の嫡子です。対馬守だった時に九州を横行し、略奪を働いています。時に1101年のことです。大宰大弐大江匡房からの訴えで義親は隠岐国流罪となりますが、出雲国に渡り、そこで反乱を続けたため、最終的には平正盛に討ち取られてしまいます。

 

この結果河内源氏は没落し、代わりに伊勢平氏が勃興してきます。

 

しかしいろいろ不思議な点が出てきます。

 

まずこれで河内源氏は没落し、嫡子の為義は受領にもなれなかった、と言われています。しかし義親は思っているはずです。「それ、俺のせいか?」って。というのは同じく義親の息子の義信は従四位下左兵衛佐まで昇進しています。五位の検非違使で終わったのは義親の子だったからでもなく、清和源氏が没落したから、というわけでもなさそうです。話は逆で為義が受領にならなかったから没落したのです。

 

為義の長男の義朝を見ても明らかです。義朝は為義の到達しなかった受領に30半ばで到達しています。どう考えても「義親のせい」ではなさそうです。為義は自滅した、としか言いようがありません。

 

しかし義親の一件はいろいろ考えなければならない問題があります。そもそも彼はなぜ「ヒャッハー」と立ち上がったのでしょうか。謎です。

 

ちょうど鴻臚館の廃絶と12世紀におけるグローバリゼーションが関係あるのかな、という議論も出ましたが、この辺は現時点では史料的な裏付けのない思いつきレベルです。

 

もう一つ、義親の死後30年近く経って、義親のパチモンが四人も出ます。特にそのうちの二人は堂々と上京してきて「俺が義親だ」と名乗ります。それも同じ時期に二人です。で義親と義親が戦闘して義親が義親を討ち取るも義親もまた誰かわからない武装集団に暗殺されます。

 

意味がわかりません。もう少し丁寧に書きます。義親と名乗る人物が京都に現れます。そして彼は藤原忠実によって保護されます。その背景には鳥羽上皇の内意があったようです。義親の保護は鳥羽にとって白河の否定という意味を持つ、と元木泰雄氏・高橋昌明氏は説明しています。忠実及び鳥羽に保護されていた義親を鴨院義親といいます。

 


河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

 


増補改訂 清盛以前 (平凡社ライブラリー)

 

一方北陸からも義親と名乗る人物がやってきました。彼を大津義親と呼びます。大津義親は鴨院義親によって殺害されますが、翌月には鴨院義親も殺害されます。

 

最初に怪しまれたのは平忠盛でした。忠盛の父の正盛が義親を追討したのは前述した通りですが、これ、一部には「ほんまかいな?」と思われていました。というのは勇猛を以ってなる河内源氏の御曹司を、何やらぽっと出の伊勢平氏が討てるはずがない、というのです。八百長ではないか、とか散々な言われようで、そういう噂が出歩いているところに義親と名乗る人物がが現れては忠盛にとってはよろしくない事態です。これは討ち取るしかありません。

 

しかし犯人とされたのは美濃源氏源光信でした。光信第前で鴨院義親と大津義親の合戦が行われたのです。光信にとっては舐められた、と考えます。「舐められたら殺す。これが武士の本懐だ」というように光信は義親殺害に走った、とされています。

 

私はこの事件の黒幕ともいうべき鳥羽上皇に関心を持っています。

 

三不如意の白河法皇や「日本一の大天狗」後白河法皇に比べると影の薄い人物ですがなかなか興味深い人物でもあります。

 

例えば「天子摂関御影」のこの図を見てください。

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これ、鳥羽院の図ですが、白河院鳥羽院の最大の違いは、似絵を書かせているところです。「呪詛できるもんならしてみいや!」という気概が見えます。で彼だけこっちを向いています。他の天皇は逆向けです。

 

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これは有名な後醍醐天皇ですが、他の天皇もすべてこちらを向いています。つまり鳥羽と他の天皇が向き合っているのです。鳥羽はある時代の画期を作り出しているのです。

 

彼の最大の特徴は積極的な荘園の集積です。鳥羽の時代に集積された荘園は八条院領としてその後の王家領荘園と呼ばれる膨大な荘園群の中核をなしました。他に法金剛院領も鳥羽の集積にかかるものです。

 

白河から鳥羽の時代というのは大きく世界が変わっていく時代でもありました。

 

忠盛は鳥羽のバックアップの元、鳥羽を本所とする神埼荘の預所となり、日宋貿易に本格的に介入します。そのころ西海道の海賊の討伐に動員され、その時に捕縛した海賊を家人として組織し、瀬戸内航路を掌握しました。

 

王家領荘園を大量に抱え込んだ鳥羽はその財力を使って武士を組織し、平忠盛と清盛父子の処罰を求める比叡山の強訴を抑え込むことに成功しましたが、その時鳥羽は警備部隊の交代ごとに大規模な閲兵とパレードを行い、強訴を封じ込めました。王法が仏法を押さえ込んだのです。もはや山法師も不如意ではなくなりました。鳥羽の肖像画の存在は仏法をも凌駕した鳥羽の自身の現れだったのでしょうか。

 

この辺は私も詳しく検討したことがないのでどの程度正確かは自信がありませんが、一度考えてみようとは思っています。いつのことになるかはわかりません。

清和源氏の行く末ー戦争の日本史

軍事貴族としてもっとも有名なのが清和源氏であることは論を俟たないでしょう。その中でも我々が「源氏」といった場合、念頭に置いているのが河内源氏です。

 

ticket.asanojinnya.com

 

清和天皇の孫の経基王が源の姓を賜って臣籍降下し、武蔵守として赴任し、平将門の乱に関係し、のちに藤原純友の乱にも関わって、その功績もあって諸国の受領を歴任して最終的には鎮守府将軍になった人物です。

 

大雑把に言いますと、経基の子の満仲が同じく受領を重ねて最終的に鎮守府将軍に到達し、軍事貴族としての地位を確立します。満仲は2度受領を務めた摂津国に経済的基盤を保有し、都で活躍しました。

 

その後嫡男頼光は摂津源氏に、頼親は大和国に勢力を扶植し大和源氏に、頼信は河内国に勢力を扶植し河内源氏になります。

 

摂津源氏源頼政が有名ですが、酒呑童子説話や鵺説話で知られるように、主として都での大内守護として活躍します。嫡流多田源氏多田行綱が知られます。行綱は鹿ケ谷事件では武力を見込まれ、参加しますが、清盛に寝返り、鹿ケ谷事件を引き起こします。その後は源頼朝に協力して一の谷の合戦で活躍しますが、源氏の嫡流を簒奪しようとした頼朝によって義経関係者として所領を没収されます。義経追捕で活躍しましたが、そもそも頼朝の狙いは多田荘だったわけで、その後の行綱の動向は不明です。

 

摂津源氏でもっとも有名なのは源頼政ですが、頼政平治の乱で清盛に寝返り、清和源氏では初の三位に昇進します。しかし以仁王の乱に関わり戦死します。その孫の源頼茂承久の乱の直前に後鳥羽上皇によって粛清されます。

 

摂津源氏では他に保元の乱平治の乱で活躍した源光保がいます。彼も頼政と同じく早くから四位の位に到達し、河内源氏よりも上でしたが、鳥羽院の側近でその後は二条親政派に属したために後白河院によって陥れられ、薩摩国に配流されたのち殺害されています。

 

摂津源氏の末裔として有名なのは美濃国に土着した土岐氏です。美濃守護として、三管領四職としての活躍が有名です。

 

河内源氏の行く末ですが、嫡流は以前述べましたように、義家の死後、急速に勢力を衰えさせていきます。義家の嫡男義親が対馬守時代に謀反を起こし、義家の死後、急速に力を伸ばしていた伊勢平氏平正盛に討伐され、義親の弟の義忠は伊勢平氏に接近し、正盛の嫡男忠盛にその一字を与えるなど伊勢平氏との協調に努めましたが反発する源義光に暗殺され、義親の嫡子の為義が後を継ぎましたが、為義は受領にもなれずに地位を低下させていきます。

 

為義は受領にもなれなかったことに象徴されるようにキャリアパスでは苦労します。もっとも彼の場合はかなり自業自得の側面が強く、白河院鳥羽院に伺候しながら犯人の隠匿や狼藉行為で信頼を失い、西海の海賊追捕の候補に名前が上がりながら鳥羽院がその狼藉略奪を懸念して反対するなど、身から出た錆という感じしかしません。

 

院からの信頼を失った為義は摂関家に接近し、忠実・頼長親子からの信頼を獲得しますが、美福門院に接近した義朝との対立を強め、最終的には保元の乱で滅亡します。この時に為義の子ども達も多く運命を共にします。

 

為義の長男の義朝は独自の動きを始め、関東で為義の嫡男とも目されていた義賢を殺害し、常盤御前との婚姻を契機に美福門院に接近し、保元の乱で活躍し、一気にプレゼンスを高めますが平治の乱で水泡に帰します。

 

義朝の遺児の頼朝の動きについては言うまでもありません。従二位右大将征夷大将軍として鎌倉幕府を開き、河内源氏を源氏の代表とすることに成功します。

 

義家の子の義国の子の義康は下野国の足利を本拠とし、保元の乱で活躍しますが、翌年には病死し、義兼は八条院の蔵人を経て頼朝に従います。義兼は頼朝の外戚の北条氏に接近し、御家人の中でも名門として地位を向上させ、代々北条氏を外戚とするようになります。

 

鎌倉幕府末の足利高氏の活躍は言うまでもなく、それ以降、足利氏の祖である源義家がクローズアップされていきます。足利氏の義家推しが現在まで続いているものと思います。

 

 

京極導誉書状(『朽木家古文書』55 国立公文書館)

婆娑羅大名と呼ばれた佐々木京極導誉の書状です。

 

京極導誉は道誉の方が有名です。「京極導誉」でグーグル先生に聞くと「もしかして京極道誉?」と聞かれます。

 

自署では「導誉」なので「導誉」が正しいのですが、「入道々誉」と書かれるので「道誉」が有名になりました。

 

京極家は佐々木信綱の四男氏信を祖とする家です。高島郡浅井郡・愛知郡など近江国北半分6郡の地頭職と京極高辻の屋敷を継承し、京極氏を名乗ります。宗家は六角氏といいます。

 

鎌倉時代末期に高氏が出て北条高時のもとで出世し、その後は足利尊氏に従って京極氏を有力守護大名に押し上げました。

 

彼はその派手な振る舞いから婆娑羅大名と呼ばれていました。妙法院ともめた時には流罪に処せられながら、派手な格好をして道道酒宴をしながら配所に向かい、しかもその時に比叡山の守り神である猿の毛皮をつかった靭を身につけ、比叡山を揶揄したと伝わります。

 

南朝方の楠木正儀との交友は知られており、南北朝の和睦を推進しようとした人物でもあり、公武の交渉にも活躍するなど、下克上的な側面で見るべきではない、という見方が出てきているようです。

 

延暦寺と佐々木氏は近江国の権益をめぐって鋭く対立しており、導誉のイメージにこのエピソードは大きく寄与していますが、下克上という文脈で捉えるべきではないというのも道理かと思います。

 

それでは現物を。

 

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京極導誉書状 朽木家古文書55 国立公文書館

 では釈文を。

吉野發向事、被仰下候

間、今日令上洛候、来廿一日

可立京都候、廿日以前令

京着給候者、公私悦入候

恐々謹言

閏七月十二日  沙弥導誉(花押)

謹上 出羽四郎兵衛尉殿

 

一行目の二字めの「野」がくずれています。左右の展開を上下にしているのでややこしいです。「候」も小さい点ですが、ごく普通です。

 

二行目一字めの「間」も「門」が小さく、下に「日」がある形が「間」の基本形です。「今日」とか「来」とか、上下に伸びているので掴みにくいです。この辺動画で解説した方がいいかもしれないな、というところです。やはりこういう静止画で古文書を解説するのはかなり難しいものがあります。もちろん慣れていればわかるのですが。

 

三行目ですが、「京都」の下の点が「候」なのはいいとして、「以前」も典型的なくずし方なのでしっかりと覚えていくようにしましょう。

 

四行目の「着」とか「給」という字は少し難解ですが、「給」自体は頻出の文字でもあります。「悦」もよくみかけます。

 

日付の上の「壬」は「閏」のことです。時々これを「壬」と呼んでいるサイトがありますが、この辺は声を大にしていいたい。「壬七月」ってイミフすぎ。

 

読み下し。

 吉野発向の事、仰せ下され候間、今日上洛せしめ候。来たる二十一日に京都を立つべく候。二十日以前に京着せしめ給い候わば、公私悦び入り候。恐々謹言。

 

この文書は前後のつながりから建武五年(延元三年、1338年)発給と考えられています。この年の五月には北畠顕家が、この文書の日付の十日前の閏七月二日には新田義貞が戦死しており、一気にカタをつけようとしたのかもしれません。しかしこの後の一連の56・57・58号文書を見ると、吉野から南都に目的地が変わり、九月になってもまだ「出羽四郎兵衛尉」こと朽木頼氏は催促に応じていません。導誉の苛立ちが伝わってくる文書が残されています。

奥州藤原氏ー戦争の日本史

奥州藤原氏とはどういう人々だったのでしょうか。

 

奥州藤原氏は一体全体どういう家なのか、というのは私も北方史に足を踏み入れるまではよく理解できていませんでした。ややこしい。

 

そもそも清原清衡藤原清衡に名前を変える意味が分からなかった。あのへんのややこしい兄弟関係を整理したら簡単にわかりますが。

 

私の場合「炎立つ」でだいぶんわかりやすく整理されました。藤原経清を世界の渡辺謙が、藤原清衡村上弘明が、そしてなんかショボい評価しか与えられてこなかった藤原泰衡渡辺謙の二役、最後は一人で山の中を彷徨う泰衡に川野太郎演じる安倍宗任が「経清殿!経清殿ではありませんか?」と声を掛けるシーンがラストシーンでした。川野太郎は次の大河ドラマ花の乱」でも後土御門天皇を演じて三田佳子演じる日野富子と少しいい感じになっていました。

 

実際泰衡の頭部を見るとそんな生易しい死に方をしていません。

 

ここを見るとかなり泰衡は抵抗したのちに壮絶な死を遂げたようです。(藤原四代のミイラの写真があります。気になる方は閲覧注意)

日本の人骨発見史5.中尊寺藤原氏四代のミイラ - 人類学のススメ

 

藤原清衡後三年の役の部でも説明しました通り、安倍頼時の娘と藤原経清の間に生まれ、前九年の役で母子で清原武貞に引き取られます。その結果、武貞の子はややこしいことになります。

 

まず武貞には長男の真衡がいます。そこに藤原経清の子の清衡が入ってきます。そして頼時娘との間に家衡が生まれます。つまり真衡と清衡は父も母も違う、真衡と家衡は母が違う、清衡と家衡は父が違う。これだけややこしいと最初から殺しあえ、と言っているようなものです。源義家ならずとも手を突っ込んで清原氏を内部から崩壊させたくなる、というものです。

 

最終的な勝者になった清衡は父親の姓に戻すことを願い出て認められ、さらに正六位上陸奥国押領使となります。基衡は出羽・陸奥両国の押領使となり、秀衡は従五位上陸奥守、鎮守府将軍を歴任し、陸奥・出羽両国にまたがる巨大軍事貴族が成立します。

 

秀衡の時に院近臣の藤原信頼の兄の藤原基成が下向してきて、基成の娘との間に泰衡が生まれます。奥州藤原氏もまた在地の武士団に絶えず都との関係を保ってきました。清衡・基衡は摂関家に接近し、摂関家領の代官のようなことをしていたようです。

 

秀衡は信頼との強いパイプを作り上げた、とも言え、もしそのまま平治の乱など起こらずに信頼が勢力を伸ばしていたら、あるいは信頼がもっとうまく清盛や義朝や秀衡を統御していたら、元木泰雄氏の言う通り、信頼は武家権門を作り上げた、と言えるかもしれません。

 


保元・平治の乱を読みなおす (NHKブックス)

 

もっとも信頼がそこまで構想し、実行するだけの人物であったかどうかというのも議論のあるところです。

 


陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

秀衡は源義朝の遺児の源義経を受け入れ、義経の兄の源頼朝が挙兵すると義経を頼朝の元に送り出し、義経が頼朝と対立するとそれを受け入れています。結果論からいえば最悪の敗着ですが、秀衡には父太郎と言われた国衡と母太郎と言われた泰衡がいて、最悪の場合両者の間で後継者争いが起こることを気にしていたのかもしれません。義経という都の関係者を擁立することで安定を計るのはよくみられることで、藤原基成にしてもそういう意味を持っていたのでしょう。

 

しかし頼朝は圧力をかけ、その圧力に負けて泰衡が義経を討った時に奥州藤原氏の命脈は尽きました。頼朝にとっては義経を討とうが討つまいが関係なかったのです。頼朝にとっては奥州藤原氏こそが最終ターゲットでした。

 

頼朝は頼義故実にしたがって奥州征伐を遂行します。東北を制圧した頼義に頼朝は自らを重ね合わせ、平氏追討を上回る規模で動員をかけます。それは頼朝が頼義の後継者という貴種であることを誇示し、源氏神話のもとに武士団を組織したことを意味します。本来河内源氏が他の源氏と比べて突出した存在ではないにも関わらず、頼朝以降武門の棟梁として河内源氏神話が再生産されていくのは頼義の前九年の役があったからなのです。

 

ちなみに征夷大将軍という肩書きですが、一時は鎮守府将軍であった奥州藤原氏を超える官職としての征夷大将軍という見方がなされていましたが、近年では征夷大将軍という地位が朝廷サイドで出されていることが明らかになり、征夷大将軍そのものにはこだわりがなかった、という見方になっています。

 

ただそれに関しても勘文から見てそう決めるのは早計である、という見方もなされていますし、私も頼朝サイドが単に「大将軍」だけを求めていた、とは考え難いとは思っています。少なくともいくつか忌避しているのは事実であり、ほぼほぼ征夷大将軍以外には適した肩書きはなかったことは事実でしょう。逆に征夷大将軍以外に適する候補があるのか、という気がしています。征東大将軍木曽義仲でアウト、惣官は平宗盛でアウト。征夷大将軍坂上田村麻呂の吉例があり、セーフ、と言ったら朝廷が結論を出したとしても、それが朝廷の主導であったか、という点については私も疑問を持ちます。詳しくは『立命館文学』624号の杉橋隆夫氏の論文をご覧ください。

 


源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

 

 

www.ritsumei.ac.jp

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/sugihasi.pdf(pdf注意)

祝!後花園天皇生誕600年その1

『看聞日記』応永26年6月17日条を見てみます。

 

十七日。雨降。(中略)抑二条局産所ニ出〈庭田〉。則平産〈寅刻〉若宮云々。尤珍重也。面々賀申。三位則御盃持参。

 

これは『後花園天皇実録』には次のように「按」があります。

御降誕ノ日次、看聞御記ニ六月十七日夜寅刻トアレバ十八日暁ナルベシ。同記ニ御七夜ヲ二十三日ノ条ニ係ケ、尚ホ三十二年七月二十八日ノ条ニ六月十七日夜誕生ノ語アレバ、当時ハ十七日御降誕ト大様ニ思ヘルナルベシ。今姑ク吹上本帝王系図、本朝皇胤紹運録、皇年代略記等ノ記載ニ従フ。尚ホ御産所ハ看聞御記ニ庭田ノ註記アレバ恐ラク外祖父庭田経有ノ第ナルベシ。

 

 ちなみに庭田経有は応永19年には没しているので、その息子で後花園天皇の外伯父にあたる庭田重有でしょう。

 

グレゴリウス暦に換算すると1419年7月10日になります。

正親町天皇の生涯−永禄二年(1559)年一月一日〜十二月三十日

永禄二年
正月
一日、四方拝、小朝拝、元日節会
御湯殿上日記、言継卿記、康雄記、公卿補任
四日、千秋万歳、五日も
御湯殿上日記(四日・五日)
七日、白馬節会
御湯殿上日記、言継卿記、公卿補任
八日、太元帥法、聴聞あり、後七日御修法
御湯殿上日記、厳助往年記、東寺執行日記
十六日、踏歌節会
御湯殿上日記、言継卿記、公卿補任
十七日、清涼殿東庭において舞御覧
御湯殿上日記、言継卿記
十八日、三毬打
御湯殿上日記、言継卿記
十九日、和歌会始、出御
御湯殿上日記、言継卿記
二十日、御楽始
御湯殿上日記
二月
六日、春日祭延引
続史愚抄
七日、即位の奏聞あり、即位伝奏を定める
御湯殿上日記
十二日、故権大納言正三位日野内光に贈左大臣従一位などの宣下
日野家系譜、公卿補任、御湯殿上日記
十八日、春日祭追行
言継卿記、御湯殿上日記、公卿補任
二十二日、水無瀬宮法楽和歌会
御湯殿上日記(二十一日・二十二日)
二十五日、北野社法楽和歌会並びに月次和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
三月六日、この日より三条西公条を召して帝範を講じさせる
御湯殿上日記(二日・六日・十一日・十六日・二十一日・二十五日)、厳助往年記
二十六日、蹴鞠
御湯殿上日記、言継卿記
四月
十日、稲荷祭追行
続史愚抄、東寺執行日記
十八日、触穢
御湯殿上日記
十九日、日吉祭
御湯殿上日記、言継卿記
三十日、和漢会
御湯殿上日
五月
一日、触穢
御湯殿上日記
十日、別殿行幸
御湯殿上日記
十九日、即位奏事始、この日内侍所修理釿始
言継卿記(十二日・十七日・十八日)、御湯殿上日記(十三日・十九日)
六月
三日、炎旱により祈雨御祈を仰せつける
御湯殿上日記、厳助往年記
七日、不予
御湯殿上日記(七日・八日)
十一日、この日より御拝
御湯殿上日記
二十五日、北野社法楽和漢会並びに当座和歌会
御湯殿上日記(二十二日・二十五日)
三十日、大祓
御湯殿上日記
七月
七日、七夕節、和歌会並びに楽会を行う、箏の所作
御湯殿上日記(六月二十八日・二十九日・三十日・七月七日)、言継卿記、(四日・七日)
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
八月
一日、八朔
御湯殿上日記
八日、即位条々日時内勘文奏進
続史愚抄
十一日、阿弥陀経を召して筆立てあり、別殿行幸
御湯殿上日記
十五日、観月和歌会
御湯殿上日記(十四日・十五日)
二十一日、庚申待
御湯殿上日記
二十二日、この日より嵯峨二尊院某を召して法談を聴聞
御湯殿上日記(二十二日・二十三日・二十四日)
九月
二日、この日より後奈良天皇三回忌のために小御所で懺法講、この日大徳寺宗套に正覚普通国師の号を賜う
御湯殿上日記(二日・三日)、言継卿記(七月二十九日・九月二日・三日)、厳助往年記、続史愚抄
五日、後奈良天皇三回忌、伏見般舟三昧院において御経供養
御湯殿上日記(四日・五日・六日)、言継卿記(四日・五日)
六日、菊枝に御製を附して三条西公条に賜う
御湯殿上日記
七日、台所の修理
御湯殿上日記(七日・八日・十日・十一日・十三日)
九日、重陽節、和歌会
御湯殿上日記(八月二十七日・九月六日・九日)、言継卿記
二十九日、多武峰遷宮により左中弁柳原淳光を参向せしむ
御湯殿上日記、言継卿記(二十七日・十月二日)
三十日、観菊当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
十月
一日、亥子の儀、十三日・二十五日同じ
御湯殿上日記(一日・十三日・二十五日)
十一日、高御座修理始
御湯殿上日記(十一日・十八日)
十五日、日待
御湯殿上日記、言継卿記
十九日、花立
御湯殿上日記(十九日・二十日・二十四日)
二十二日、庚申待
御湯殿上日記
十一月
十六日、即位日時定並びに擬侍従定
御湯殿上日記(十月二十六日・十一月十六日)、言継卿記(十月二十七日・十一月十六日)
二十六日、不予
御湯殿上日記(二十六日・二十七日・十二月六日)
二十七日、足利義輝、警固の儀につき、即位の延引を請うにより廷臣を召して諮問す
御湯殿上日記(二十六日・二十七日・二十八日)
十二月四日、上乗院より立花の絵図を叡覧に供す、この日より絵図を写させる
御湯殿上日記(四日・五日・九日・十三日・十四日・十八日・十九日)
九日、御薬
御湯殿上日記
十一日、即位由奉幣の陣儀
御湯殿上日記(十一月二十八日・十二月一日・十一日)、言継卿記
十二日、即位由奉幣使を発遣、御拝
御湯殿上日記(十二日・十三日・十八日・二十五日)言継卿記