記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

モンゴル戦争、又の名を「蒙古襲来」「元寇」

8月1日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座です。8月はいわゆるモンゴル戦争を取り上げます。モンゴル戦争というのは聞きなれない名前ですが、蒙古襲来とか元寇とか言われるものです。

 

元寇という言葉は最近学会では見かけませんね。どうしたのでしょうか。ポリコレ棒でタコ殴りにされたのでは、と心配になります。

 

それについて私の頭の中のデータを拾い出してみたところ、「元寇」という言い方がそもそも語義的に間違っているから、という見方が出てきました。

 

どういうことでしょうか。

 

そもそも「元寇」に含まれる「寇」というのは「盗人」とか、そういう意味の言葉です。従って国家に「寇」という言葉を使うのはおかしいのです。あくまでも「倭寇」であった「日本寇」ではありません。「倭」と「日本」とは明らかに異なる概念です。

 

こういうことを言うと「日本と異なる倭があったわけではない」という意見が出てきますが、私に言わせるとそれは現代の我々の国家観をそのまま中世にスライドさせた議論です。史料を読む時の姿勢に問題がある、としか言いようがありません。当時の朝鮮王朝の考え方を把握すべきです。そのためには彼らがどういう場合に「倭」とか「日本」とかいう言葉を使っているかを慎重に見極めなければなりません。そこをざっくり読むと「中世日本とは異なる倭はなかった」という意見になるのです。

 

『高麗史』を慎重に読めば、彼らは明らかに室町幕府を「日本」と呼び、室町幕府とは異なる勢力を「倭」と呼んでいることがわかります。

 

この辺はかつて下記の論文で論じましたので、関心のある方はご覧ください。(PDF注意)

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no81_04.pdf

 

つまり「元」という王朝が「寇」を働いていた、というのは語義的におかしいのです。「寇」というのは単なる侵略行為を表すのではありません。

 

ただそれならば「応永の外寇」はどうなるのか、という疑問が出てきます。というか、私もその疑問は持ちます。日本語では「寇」と言う言葉は単に「外敵による侵略」という意味に転化しているので、それを考えれば「元寇」という言い方もあながち的外れとはいえない、という気もしてきました。

 

ともあれ近年「元寇」という言葉をみないな、と思われたならば、そういう事情が働いていたのですね。いや、びっくりですね。私ももちろん・・・知ってました。

 

で、モンゴル戦争、いわゆる文永の役弘安の役のことですが、発端が、クビライ・カアンによる高圧的な国書に求められることが多かったと思います。

 

しかしこれは本当に高圧的な国書なのでしょうか。

 

調べてみました。

 

現在の我々からすれば高圧的で好戦的な国書です。このような言葉で威圧をかけてくる国とは仲良くできそうにもありません。

 

しかしこれは現代の我々の認識です。言うまでもなく中世の人間は同じように考えたかどうかは不明です。

 

これが本当に不明ならば、現代人と同じ発想をするはずだ、と想定するのはまだ止むを得ないと言えるかもしれません。しかしはっきり史料を解釈すれば現代人とは異なる解釈が出るものにも現代人の考え方を当てはめるのは、超歴史的である、という非難を免れることはないでしょう。

 

クビライは本当に好戦的で高圧的な侵略の意図をちらつかせるために国書を書いたのでしょうか。

 

私はその意見に与しません。

 

クビライの国書が侵略を意図したものである、という見方は、現代の我々の見方を無前提に導入して国書を解釈するからです。これは歴史学研究においては慎重に扱うべき問題と考えます。

 

結論だけを言いますと、クビライの国書は当時の大モンゴルウルスの大カアンのジャルリク(命令書)のテンプレートに忠実に沿ったものでしかなく、この国書自体に武力行使の意図を読み取るべきではありません。さらにいえばクビライのジャルリクにしては破格の敬意を払った文言です。

 

この点について詳しく知りたい方はこちらの論文で詳しく論じましたのでご覧ください。(PDF注意)

 

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/hatano.pdf

 

しかしこういう意見も当然出てきます。「クビライがいかに敬意を払ったとしても日本側が武力行使と受け取ったのでは意味がないのではないか」

 

私もその意見に賛成です。いくら大モンゴルウルスサイドが「いや、あれはあれで一生懸命気を使っているんだよ。それをわかってくれよ。あくまでテンプレなんだ」と言われても「そんなん知らんがな」で終わりです。相手に意図が伝わらない文書を出す側に問題があります。

 

しかし当時の日本はクビライの意図を正しく受け取り続けていた、と私は考えています。その上で「それでも日本は戦争を選んだ」のです。厳密にいえば「鎌倉幕府は戦争を選んだ」のです。

 

次回、この辺をもう少し詳しく見ていきます。

 

いかがでしたか?

 

元寇」さんや「蒙古襲来」さんは近年は「モンゴル戦争」という名前に変わっていることがわかりました。

 

またモンゴル戦争と名前を変えていますが、「元寇」と呼ばれる事件の発端となったクビライさんの手紙があまりにもウエメセ(タカビーとも言う)だったから、という見方が多いですが、必ずしもそうではない、という見方もあることもわかりました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

源義経の秘密、気になるあの人との関係は?

源義経といえば今でも人気の高いヒーローです。

 

義経の相方として鉄道オタクならもちろん弁慶ですね。7100型蒸気機関車の名前で今日まで残っているのが「弁慶号」「義経号」「しづか号」でいずれも義経がらみです。ちなみに他には「信広号」(松前藩始祖武田信広に由来)とか、「比羅夫」(阿倍野比羅夫)とか、「光圀」(なんでやねん)とかがありました。「光圀」は意味不明です。どうせなら「武四郎」とすべきでしょうが、明治時代にそれは無理でしょう。

 

弁慶といえば寡頭袈裟姿で薙刀を持つ、という典型的な「僧兵」スタイルで、義経とは五条大橋で出会い、義経の刀を奪おうとするも敗れ、義経の部下になる、という話で有名です。義経に従い、最後は立ち往生という壮絶な最期を遂げることで、義経の悲しくも華やかな生涯を彩る名脇役、場合によっては主役となる人物です。

 

しかし実際にいたのでしょうか。

 

吾妻鏡』に「武蔵坊弁慶」という名前が出てきます。弁慶は実在したようです。文治元年十一月三日と六日条に出現します。逃亡する義経の従者として一番最後に記載されています。

 

現場からは以上です。

 

要するに「武蔵坊弁慶」はいたことはわかりますが、実像は全くわからない、ということになりそうです。

 

我々が想起する弁慶像は、義経を支援した比叡山の大衆(だいしゅ)・悪僧、現在我々がしばしば「僧兵」と呼んでいる人々のイメージが弁慶に投影されたもの、と考えられそうです。

 

次に気になるのがジンギスカンとの関係です。義経がモンゴルに渡ってチンギス・ハンになった、という伝説はどのようにして広まっていくのでしょうか。

 

室町時代の『御伽草子』に義経が北海道に渡る、という伝説が紹介されています。ただ今日我々が考える義経と北海道とはかなり異なります。東北にいたころ、修行のために北海道に渡り、その後頼朝の下に駆けつけ、大活躍する、という話になっています。時代背景としては、そのころ日本海交易が発展し、京都に多くの北海道産の物資が流入していたことと関係があるでしょう。

 

この関係で着目されるのが、津軽安藤氏が室町殿と関わりを持っていたことです。

 

江戸時代になると判官贔屓から、義経が衣川で死なずに北海道に逃れた、という話に展開していきます。1670年の『続本朝通鑑』に義経が死なずに蝦夷ヶ島に到ったという記述が見られます。1700年には「シャムシャヰン」が源義経の末裔、という話が「本朝武家評林」に載せられ、1700年代初頭には義経シャクシャインである、という見解が見られるようになります。

 

この背景には、当時の日本と蝦夷地の交易の拡大があります。

 

18世紀中頃になりますと義経が金の将軍になった、とか、清の皇帝の先祖になった、という荒唐無稽な物語が広まります。

 

しかし義経の伝説はやはりチンギス・カンになったことが最大のクライマックスでしょう。なんせ世界を圧倒したモンゴル帝国が日本人だった、というのですから。

 

シーボルト義経チンギス説を論証しようとしています。

 

その白眉が小矢部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』です。これは参謀本部も支持して大々的に広まります。当時「満蒙は帝国の生命線」と言われており、政治的な側面が強くありました。

 

当時の歴史学研究者は一斉に反発します。『中央史談』で錚々たる研究者が「成吉思汗は義経にあらず」という特集記事で小矢部を散々に批判します。

 

しかし小矢部は動じません。「日本史の研究には大いなる愛国心を要す」研究者は「国家の名誉も不名誉も眼中に置かぬ」として非難します。

 

義経成吉思汗説は戦前にはすでにお話にならないレベルで、現在ではエンタテインメントとしては成立しても、もはやトンデモでも成立しないレベルである、といえましょう。

 

いかがでしたか?

 

伝説が成立してくる過程はかなり興味深いものでしたね。

 

それでは最後まで読んでくださりありがとうございました。

 

下をクリックしてオンライン講座にきていただけるとうれしいです。

 

ticket.asanojinnya.com

源義経の戦歴は?あの人との関係は?

源義経、といえば現在でも人気が高いヒーローですね!

 

私も小学校時代、伝記を借りてきて涙を流しながら読んだ記憶があります。

 

そこで憎たらしい梶原景時義経を散々にいたぶって最後は死に追いやるのですが、本当に憎らしく見えました。

 

そんな源義経について、これは室町時代に作られた『義経記』によるイメージでしかない、と言われています。調べてみました。

 

源義経は九条院の雑仕女であった常盤御前河内源氏の棟梁の源義朝の間に生まれた、ということは前回お知らせしました。これは美福門院と藤原忠通の主導で行われ、義朝は父親がついにはなれなかった受領になったことも書きました。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 平治の乱で父親を失い、その後しばらく平清盛の庇護下に置かれたのち、一条長成と結婚して嫡子の能成を産み、義朝との間に産まれた子も流罪ではなく無事に高僧への道を歩み始めた時に末子の牛若だけは鞍馬寺を出奔したので、夫のツテを頼って奥州に行ったことまでは前回のまとめです。

 

途中で元服して義経と名乗り、奥州藤原氏の庇護下に入りましたが、異母兄の源頼朝の挙兵を聞いて頼朝のもとに駆けつけ、義経の活躍が始まります。

 

ちなみに今若もいち早く駆けつけ、頼朝の正妻の政子の妹と結婚しています。所領の名前を取り、阿野全成となのっていました。乙若も頼朝のために駆けつけ、尾張国平氏と戦って壮絶な戦死を遂げています。

 

義経といえば治承・寿永の内乱で木曽義仲討伐を皮切りに一ノ谷、屋島・壇ノ浦と平氏に勝ち続け、平氏を西海に滅ぼして源氏の恨みを晴らした、と言われています。

 

しかし目付役の梶原景時と対立し、景時の讒言を受けて頼朝から命を狙われ、逃避行の末に奥州藤原氏の庇護下に再び入ります。しかし庇護者の藤原秀衡の死後、嫡子に藤原泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を殺し、その首を鎌倉に送りますが、頼朝は許さず、奥州藤原氏も滅ぼされます。

 

さて、義経の戦といえば、一ノ谷の逆落とし、屋島の奇襲、壇ノ浦の八艘飛びが有名です。しかし本当にあの坂を駆け下り、わずか数十騎で屋島を陥落させ、最後は超人的な身体能力を見せられるものでしょうか。

 

一ノ谷では義経が背後から奇襲をかけ、平氏海上に追い落とした、とされています。ここで九条兼実さんの証言を聞いてみましょう。

 

「山の方より多田行綱が山手を攻めて落とした、と聞いている」(『玉葉』元暦元年二月八日条の意訳)

 

これだけを見ると、一ノ谷で平氏を倒したのは多田行綱ということになります。

 


源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― (角川選書)

 

 それに対し一ノ谷と鵯越とは違うのであり、「山手」というのは福原で、一ノ谷は須磨で、両者はかなり離れているため、義経が一ノ谷を攻めた、という『平家物語』の記述は信頼できる、という見方もあります。

 


源義経と壇ノ浦 (人をあるく)

 

この辺はどちらにも言い分があり、どちらが正しいか、というのはわかりませんでした。

 

次に屋島です。少数の軍勢を多数のように見せかけ、さらに奇襲で平氏海上に追い出すことに成功したことは梶原景時の報告からも明らかです。

 

少数で平氏の本拠地を失わせたこの戦いの実情はほとんどわかりません。いろいろな話が作られていますが、その虚実については慎重になるべきである、と言われています。

 

壇ノ浦です。これは潮の流れをうまく義経が使った、ということですが、実際に急流だったのか、あるいは義経が潮の流れの弱い小潮の時を狙ったのか、いろいろ言われています。実際には九州の陸上も源範頼に制圧されていたため、平氏はもはや海上部隊しかなく、陸と水軍の攻撃を受け、そもそも勝ち目がなかった、とも言われています。

 

ただこの時義経は致命的なミスを犯しています。

 

平氏との間のソフトランディングを目指さず、徹底的に追い詰めたために、平氏安徳天皇三種の神器を海に投げ込むという行為に出ます。想像力を働かせれば、相手を追い詰めればそういう挙に出ることは容易に予測できることです。

 

これについては義経が頼朝ではなく後白河の意向に従っていたから、という考え方があります。

 


平家物語を読む (歴史と古典)

 


陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

そう考えれば、頼朝がせっかく平氏との講和を視野に入れたソフトランディングを考えていたのに、強硬策一本で最悪の結果を招いた理由もわかりますね。平氏を憎悪していたのは頼朝ではなく、後白河だったのです。確かに後白河は平治の乱以降、自分と折に触れ対立してきた平清盛を許していなかったのかもしれませんね。自身のこだわりである高倉皇統はすでに後鳥羽天皇によって継承されているので安徳天皇が帰ってきても邪魔なだけですから西海で悲劇的な崩御となった方が都合が良かったかもしれません。

 

そしてこれが頼朝と義経の不仲のきっかけになったのではないか、と呉座勇一氏は指摘しています。私もそう思います。

 

いかがでしたか?

 

ここまで義経の華麗な前半生について述べてきました。次回は悲劇的な後半生と、もしかしたらチンギスハンになったのかも?その真相は?そして義経といえば外せないあの人とはどんな馴れ初めなのか?その気になる真相は?ということを書いていきます。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

気に入ったら下をクリックくださっても、何も起こりません。

[クリック]

 

それよりも気になる本がございましたら上のリンクをクリックして購入していただくとアフィカスの私が喜びます。ちなみにこのブログ全体のアフィリエイト収益はまだ0円です🤣

 

それとこれは7月25日(木)のオンライン日本史講座の予告です。こちらにもきていただけるとありがたいです。

 

ticket.asanojinnya.com

正親町天皇の生涯ー永禄七年正月一日〜十二月晦日

永禄七年
正月
一日、四方拝を行う、小朝拝、元日節会は停止
御湯殿上日記、言継卿記、惟房公記、続史愚抄
四日、千秋万歳、五日、また同じ
御湯殿上日記(四日・五日)、言継卿記(四日・五日)
五日、叙位を停止
続史愚抄
七日、白馬節会を停止
続史愚抄
八日、太元帥法
御湯殿上日記(八日・十四日)
十五日、三毬打
言継卿記
十六日、踏歌節会を停止
続史愚抄
この日、御霊社、清荒神に宮女の代官詣、のち数このことあり
御湯殿上日記(十六日・四月十八日・五月十一日)
この日、庚申待あり
御湯殿上日記
この日、貝合わせあり、のち数このことあり
御湯殿上日記(十六日・二十日・二十四日・二月十六日・三月八日・九日・十四日・二十一日・三十日・四月四日・五日・十七日・二十六日・二十七日・五月十三日・二十一日)、言継卿記(三月三十日・四月二十六日・二十七日)
十八日、三毬打あり
言継卿記(十七日・十八日)、御湯殿上日記
十九日、和歌会始
御湯殿上日記、言継卿記(十七日・十九日)
この日、祈祷のことあり、今年甲子に当たるによる
御湯殿上日記(十九日、二十九日、二月八日)
二十三日、鞍馬寺に宮女の代官詣
御湯殿上日記
二十六日、因幡堂に宮女の代官詣
御湯殿上日記(二十六日・四月十八日・五月十一日)
二十七日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
二月
六日、楽始、箏の所作
御湯殿上日記(五日・六日)、言継卿記
九日、神宮奏事あり
この日、この夜より七日間、天台座主応胤親王に百座仁王講を小御所において行わせう、聴聞あり、この日祈始
御湯殿上日記(七日・八日・九日・十日・十四日・十五日)、公卿補任、言継卿記(九日・十日・十四日・十五日)
二十一日、この日より三日間、伊勢神宮法楽楽会を行う、箏の所作
公卿補任、御湯殿上日記(二十一日・二十二日・二十三日)、言継卿記(二十一日・二十二日)
二十五日、北野社法楽当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
二十七日、観梅当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
三月
六日、春日祭追行
御湯殿上日記(二日・五日・六日)、言継卿記、公卿補任続史愚抄
十三日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
二十九日、七観音に近侍の代官詣、のちまたこのことあり
御湯殿上日記(二十九日・五月二十二日)
三十日、賀茂奏事始
御湯殿上日記
四月
七日、権大納言四辻季遠にこの日より衝立障子の絵を描かせる
御湯殿上日記(七日・十日・十九日・二十日・二十九日・五月二日・四日・六日・八日)
八日、不予
御湯殿上日記(八日・十日、十一日・十三日)
十一日、御堀浚い
御湯殿上日記、言継卿記(十二日)
十二日、故式部卿邦輔親王王子常胤親王妙法院入室により猶子のこと勅許あり
御湯殿上日記(七日・十二日)、妙法院門跡伝
この日、応胤親王より弁財天を叡覧に供す
御湯殿上日記
二十一日、腫れ物を患う
御湯殿上日記
二十五日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
五月
十三日、歓喜天並びに北野社に近侍の代官詣
御湯殿上日記
十九日、庚申待
御湯殿上日記
二十九日、誕生日、般若心経千巻読誦、この日御霊社に近侍代官詣
御湯殿上日記
六月
二日、山科言継に帷子の用脚を賜う
言継卿記
六日、貝合わせ、のち数このことあり
御湯殿上日記(六日・十一日・十七日・二十一日・七月二十五日・八月十一日・十一月三十日)、言継卿記(十七日、二十八日)
十日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記(十一日)
二十五日、北野社法楽当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
七月
三日、曼殊院宮覚恕に石山寺縁起を進読せしめる
御湯殿上日記
四日、楽合奏あり
御湯殿上日記
六日、来たる七日の楽習礼あり、筝の所作あり
御湯殿上日記、言継卿記
七日、七夕節、和歌会並びに楽会を行う
御湯殿上日記、言継卿記
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
二十日、庚申待
御湯殿上日記
二十九日、七観音に近侍の代官詣、のちまたこのことあり
御湯殿上日記(二十九日・九月二十七日)
八月
一日、八朔
御湯殿上日記
四日、雙林寺より霊宝を召して叡覧
御湯殿上日記
七日、延暦寺六月会
御湯殿上日記(七月二十一日・二十二日・八月六日・十一日)
十日、伊勢外宮に怪異あるにより諸寺社に祈祷を仰せ付ける
御湯殿上日記(七日・十日)
十五日、観月和歌会
御湯殿上日記(十日・十五日)
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
二十五日、楊弓、のち数このことあり
御湯殿上日記(二十五日・九月七日・十月十六日・十八日・二十四日・二十六日・二十七日・十一月十八日・十二月二十日)、言継卿記(二十七日・九月七日・二十三日・二十五日・十月十三日・二十四日・十一月十八日・十二月二十三日)
九月
五日、知恩院長老を召して法談
御湯殿上日記
六日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
九日、重陽節、和歌会
言継卿記
二十一日、庚申待
御湯殿上日記
二十五日、北野社、御霊社並びに歓喜天に近侍の代官詣
御湯殿上日記
二十九日、看経
御湯殿上日記
十月
四日、来たる十日贈皇太后藤原栄子の忌み日によりこの日より精進
御湯殿上日記
十日、六町衆をして禁裏東の堀を掘らしめる
言継卿記(十日・十一日・十二月九日)
十五日、日待、当座和歌会並びに囲碁
御湯殿上日記(十四日・十五日)、言継卿記
十七日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
二十二日、内宴、猿楽
御湯殿上日記(二十二日・二十三日)
十一月
七日、不予
御湯殿上日記(七日・九日・十日)、言継卿記(九日・十日・十一日・十二日・十七日)
二十一日、庚申待
御湯殿上日記
二十四日、盗人、内侍所に入る
言継卿記
二十八日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
十二月
二日、三条西公条の一周忌により寿量品を賜う
御湯殿上日記
三日、嵯峨鹿王院より如意宝珠を召して叡覧
御湯殿上日記
十四日、故式部卿邦輔親王王子師秀に親王宣下
御湯殿上日記、言継卿記(二十日・二十四日)、続史愚抄
二十五日、別殿行幸
御湯殿上日記

悲劇の美女常盤御前の虚実

源義経の母の常盤御前といえば絶世の美女で、東国の武家の棟梁源義朝という男の中の男と結婚し、子ども3人を生むも、平治の乱で平家に追われ、子どもと母の命を救うために清盛の側室になって、その後懲罰的に一条長成という下級貴族と結婚し、義経が頼朝に追われたあとは頼朝の追及を受ける気の毒な人、というイメージです。

 

今回は常盤御前について調べてみました。源義朝との出会いのきっかけは?家族は?再婚相手は?

 

まずは出会いのきっかけです。

 

彼女は九条院呈子の雑仕女です。雑仕女は宮中などに仕える身分の低い女性で、彼女自身も父母については不明です。彼女らの中には貴族の側室になるケースがありました。

 

彼女の嫁いだ源義朝は、河内源氏の棟梁で1147年に東国を長男の源義平に任せるまで東国で武士の棟梁となっていましたが、自らは都に戻ってきて藤原南家の貴族で熱田大宮司藤原季範の娘と婚姻し、源頼朝をもうけています。その後の義朝は1153年に従五位下に叙爵され、貴族の仲間入りをし、下野守に任官して受領層という中級貴族の仲間入りをします。

 

1153年には常盤御前との間の今若丸が生まれているので、このころ義朝と常盤御前は婚姻したことになります。

 

1155年には乙若丸が、1159年には牛若丸が生まれています。

 

ここで一つ、押さえておかなければならないポイントがあります。

 

それは九条院呈子の雑仕女と婚姻することの意味です。

 

九条院呈子は近衛天皇中宮です。藤原忠通の養子として入内しました。当時、忠通は美福門院と組んで藤原摂関家を代表する藤原忠実・頼長父子と対立する関係にありました。呈子の入内は、頼長の養子である多子への対抗馬です。この呈子の入内によって忠通と父の忠実の関係は破綻しているわけであり、この雑仕女と婚姻する、ということは、美福門院に肩入れすることを示しています。これは同時に摂関家に仕えていた父源為義との訣別を意味します。

 

その甲斐あってか、義朝は今若生誕の年には念願の受領になっています。父為義が願いながらついに到達しなかった受領の地位に義朝は30歳で到達しました。と同時に彼は従五位下に叙爵されます。貴族の仲間入りです。

 

その後の義朝の栄達ぶりは知られた通りです。近衛天皇崩御に端を発した政変の中で、あやまたずに鳥羽院や美福門院の信頼を勝ち得て、鳥羽院崩御から始まった保元の乱では圧倒的な働きで後白河派を勝利に導きました。

 

彼らの運命が暗転するのは平治の乱です。後白河院の側近であった藤原信頼信西の争いで信頼は二条天皇派の藤原経宗と組んで信西を排斥します。しかし信頼・義朝は中間派であった平清盛を味方に引き入れることに失敗します。これは信西派であった藤原公教の切り崩しに屈したからです。

 

義朝は暴発し、東国に去ろうとして途中で討ち取られます。

 

その中、常盤御前は雪の中、3人の息子を守ろうと逃亡する、という逃亡談があります。幼児の今若と乙若を連れ、乳児の牛若を抱きかかえて雪の中を逃げ惑う常盤御前の姿は涙を誘います。

 

しかしそれが事実であったかどうかに関しては確証はありません。

 

また彼女が潜伏先の大和国で、母親が囚われたことを知り、母を助けるために九条院に出頭したのちに清盛のもとに赴いて子どもたちの助命を嘆願するシーンも著名なシーンですが、これも確証はとれません。まして清盛の側室となった、というシーンも軍記物と『尊卑分脈』にのみ見える話で、当時の記録からは伺えません。したがって虚偽として退けることもできませんが、事実と考えることにも慎重であるべきでしょう。

 

平治の乱で一旦消息の途絶えた常盤ですが、再び彼女の動静が明らかになるのは一条長成に再嫁してからです。

 

一条長成藤原北家道隆流の貴族で、美福門院の御所に昇殿を許されたことが史料上の所見であることから、美福門院系の貴族であったことがうかがえます。加賀守・但馬守と累進し、現在確認できる最終官位は正四位下大蔵卿です。公卿まであと一歩のところまで昇進しています。

 

長く子どもがいませんでしたが、常盤との間に待望の能成をもうけています。

 

能成の生誕とともに今若が醍醐寺に入室しています。そして乙若が園城寺に入室し、牛若は鞍馬寺に入室することになります。

 

今若は異母兄の源希義と一歳しか違わないのに、土佐国流罪になった希義に対して醍醐寺に入室するという、ある意味好待遇を受けられたのは、彼が長成の養子として扱われたからではないか、という見解があります。乙若・牛若も長成の子として扱われ、寺に入室することになった、と見るのは説得性があると私も考えます。

 

長成には意外な血縁関係があります。

 

長成の母は白河・鳥羽両院の近臣で、藤原道長の曾孫の権中納言藤原長忠の娘でした。彼女の姉妹は藤原北家隆家流の藤原基隆に嫁ぎ、忠隆を産んでいます。忠隆の子どもが平治の乱の首魁藤原信頼です。一方信頼の兄の藤原基成は娘を奥州藤原氏藤原秀衡に嫁がせ、藤原泰衡が生まれています。

 

鞍馬寺に入ったものの、出家を拒否して出奔した牛若の身の上を案じた常盤が、長成のツテを頼って秀衡のもとに牛若を送り込もうとした可能性が指摘されています。

 

いかがでしたか。

 

今回のネタ本は前川佳代氏の『源義経と壇ノ浦』です。

 


源義経と壇ノ浦 (人をあるく)

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

後花園天皇をめぐる人々ー広橋兼郷

追記:この記事を基にして『研究論集 歴史と文化』第5号に「後花園天皇貞成親王の関係についての基礎的考察」を掲載させていただきました。

 

後花園天皇と父親の伏見宮貞成親王の間を引き裂くようなデマを言いふらして失脚した広橋兼郷、行動が少し怪しい、とか、あまりにも悪質だとか言われています。

 

そこで今日は広橋兼郷について調べてみました!

 

卒業写真は?彼女はいるの?SNSは?

 

プロフィール

 

名前 広橋兼郷(ひろはし かねさと)

応永八(1401)年生まれ

父親、広橋兼宣

極官 従二位権中納言

改名歴 宣光→親光→兼郷

 

広橋兼郷といえば、後花園天皇伏見宮貞成親王の間のデマを流布し、そのせいで後花園天皇の弟宮の貞常親王への親王宣下が遅れた、と言われています。その責任を取らされて流罪になるべきところを時の将軍足利義政の母の日野重子の口添えで流罪は回避され、所領に引きこもっていましたが、暗殺されたと『公卿補任』には書いてあります。もっとも嫡子の広橋綱光が詳細に記録を残しておりまして、それ以前から病気であったことが書かれていますので、暗殺の可能性は除外できるでしょう。

 

彼はかなり挙動不審な人物であった、と酒井紀美氏は書いていらっしゃいます。

 


中世のうわさ―情報伝達のしくみ

 

 称光天皇崩御して大騒ぎの中、仏事奉行を命じられた兼郷さん、いきなり「私はお祈り奉行ですから仏事はできません」と言い張り、仏事奉行ができない、という事態に陥ります。周囲は「いやいや、吉凶の奉行を兼任している例はあるから」と説得しますが兼郷は首を縦に降りません。結局こわーい足利義教が出てきて最終的に兼郷がやることになりました。

 

酒井氏は、兼郷を融通の効かない生真面目な人、と評していらっしゃいますが、見方によっては「ああ仏事奉行をやりたくなかったんだな」という気もしないではありません。兼郷からすれば「何で俺が仏事もやらなあかんねん。他におるやろ」というところかもしれません。そこはなんともわかりません。

 

酒井氏はこのような奇矯な言動を行う兼郷が、ややこしいデマ事件が起きた時に張本の濡れ衣を着せられたのは、目立った存在だった兼郷がスケープゴートにされた、と考えていらっしゃいます。

 

この見解が成り立つためには兼郷がそもそも何もしていない、ということを確実にすることが必要です。

 

一方小川剛生氏は下に示します本に収載された「伏見宮家の成立」という論文で、兼郷が後花園と貞成の仲を引き裂こうとしてデマを流した、とし、その背景として兼郷が後小松に近い存在だったことを指摘しています。

 


看聞日記と中世文化

 

 

 

この見解が成り立つためには兼郷が貞成や後花園と疎遠であることを示すことが必要です。

 

結論から言いますと、兼郷はかなり貞成親王と親密です。小川氏は応永二十五年の記事に「疎遠」とあったので疎遠だった、としていらっしゃいますが、応永二十五年といえばまだ称光天皇足利義持の時代です。この時代と後花園天皇足利義教の時代では立場は違って当然で、実際兼郷は伏見宮と義教の間をしばしば仲介しています。

 

また貞成親王が後小松の旧仙洞御所を献上され、その屋敷跡を近しい人に分与していますが、その中に三条実雅とともに広橋兼郷がいました。したがって彼は貞成親王との関係は決して「疎遠」ではありませんでした。

 

禁闕の変で後花園が逃げる途中で立ち寄った中に兼郷がいます。誰が敵なのかわからない中、兼郷の屋敷にも立ち寄ったのは後花園が兼郷のことを信用していたからでしょう。

 

ではなぜ兼郷はあのような悲惨な最期を遂げなければならなかったのでしょうか。それは酒井氏のいうようにスケープゴートだったのか、小川氏のいうように悪質なデマの代償なのか。

 

私はどちらでもない、と考えています。この問題を考えるにはやはり後花園天皇伏見宮貞成親王の親子関係を再考しなければならない、と思います。これまでこの両者は親密な関係とされてきました。私はここに疑いを挟んでいます。この辺は今書いている論文で明らかにします。論文が出ればまた告知します。もっとも「あの辺の論文だろうな」と思った方、多分正解です。

 

いかがでしたか。広橋兼郷について調べてみました。

 

ちなみに改名が多くて、最初は宣光という名前でしたが、新しい将軍の名前が義宣になったので憚って親光と名前を変えたら義宣さんも義教と改名したので全く無意味で、すぐに義教が道号を光山としたらしいので「光」を名前に含む貴族は片っ端から改名しています。親光から兼郷と変わったのはこの時です。

 

ここまで読んでいただいてありがとうございました。(まとめブログ風に)

以仁王の令旨は源氏の蜂起に繋がらなかった!

以仁王の令旨が全国にばらまかれ、それに対応した源氏が諸国で蜂起し、ついに平氏を滅ぼすに至った!

 

それは本当でしょうか?

 

どうも近年の研究では必ずしもそうは言えない、ということのようです。

 

源頼朝のケースです。頼朝のもとに令旨をもたらしたのは頼朝の叔父の源行家でした。このとき頼朝は斎戒沐浴して義父の北条時政とともに令旨を見た、とされています。そして令旨の到来を受けて挙兵を決意した、と『吾妻鏡』には記されています。

 

しかしそこから二ヶ月、頼朝は動きません。五月には頼政家臣で頼朝の支援者の寒河尼につながる下河辺行平からクーデタ計画の情報がもたらされたにも関わらず、です。

 

頼朝が動き出すのは三善康信からの知らせを受けてからです。細川重男氏は二ヶ月は長すぎだろう、と言っています。そう思います。頼朝は挙兵の準備に取り掛かったのではなく、迷ったのでもなく、なかったことにしたのでしょう。

 

それはそうでしょう。頼朝は別に困窮していません。妻の北条政子と結婚し、北条氏の婿に迎えられ、長女もできて幸せいっぱいの時期です。頼朝にとってようやく落ち着ける場所ができたのです。頼朝にとって平氏を倒す、というディールはあまりにも割に合いません。

 


頼朝の武士団 ~将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉 (歴史新書y)

 

 頼朝が挙兵を意識して動き出すのは、三善康信から「以仁王の令旨を受け取った先の追討が命じられた。奥州藤原氏のもとに逃亡しなさい」という勧告が来たからです。細川氏はこの勧告が頼朝の挙兵を決意させた、と考えています。頼朝にとって、自分と妻子と北条氏が生き延びる道は挙兵して平氏から東国を守るしかありません。

 

40人ほどの弱小武士団が挙兵したところであっという間につぶされるのは目に見えています。頼朝の乳兄弟である山内須藤経俊は元に頼朝の挙兵の計画を知らされて「人間、貧窮の至りになればわけのわからないことを思いつくものだ」と罵倒され、断られています。

 

それでも三浦義澄、千葉胤頼がどうやら味方になってくれそうで、頼朝は伊豆の目代山木兼隆を襲撃の第一ターゲットに選びます。これは成功し、頼朝は挙兵しますが、頼朝謀反に備えて東国に帰着した大庭景親の軍勢に叩き潰され、九死に一生を得てから、奇跡の復活までは省略します。

 

さて、頼朝は東国を制圧しましたが、まず頼朝の成功の要因です。これは伊豆国の場合、それまで知行国主であった源頼政が敗死して知行国主が交代します。平時忠知行国主になり、在庁官人にも大きな変動が起こり、その不安に頼朝の挙兵がすっぽりはまり込んだ、という側面はあります。

 

また頼朝は早くから以仁王の令旨を錦の御旗とせず、治承三年の政変で幽閉された後白河院を助けよう、と錦の御旗を後白河に設定していました。

 

一方、そこで下手打ったのが木曾義仲です。義仲はあくまでも以仁王にこだわり、皇位継承にも以仁王の王子の北陸宮(ほくろくのみや)を推し、後白河の不興を買います。後白河はあくまでも高倉院の遺児からの皇位継承にこだわっていました。

 

その後の動きは省略します。

 

皮肉なことに北陸宮は後鳥羽即位後に入京し、後白河の庇護下に入りますが、義仲による後白河幽閉計画の直前に逐電し、行方不明となります。二年後、頼朝の庇護下で帰京していますから、頼朝を頼って逐電したのでしょう。

 

その後は頼朝の援助を受けながら75歳の長寿を全うします。

 

以仁王の子息は他に二人いましたが、次男の真性は以仁王の挙兵の時にはすでに出家していたので特に問題視されず、後に天台座主となり、城興寺領を引き継いでいます。以仁王の運命を狂わせた城興寺領は以仁王の次男に引き継がれたのです。彼は後鳥羽・土御門・順徳の護持僧を勤め、73歳の長寿を全うしました。

 

三男は以仁王挙兵時には5歳だったので処刑されるリスクもありましたが、助命され、仁和寺で出家し、東寺長者や仁和寺長者という真言宗のトップに上り詰め、東大寺別当も務めた顕密に通じた高僧となり、土御門・順徳・後堀河の護持僧を務めました。53歳で兄二人に先立って1228年に入寂しています。

 

以仁王の子孫は残りませんでしたが、王子たちはいずれも穏やかな晩年を送ったようです。