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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

佐々木頼綱譲状案(『朽木家古文書』147 国立公文書館)

古文書入門です。

『朽木家古文書』一四七号文書です。これはまた国立公文書館の写真と『史料纂集 朽木文書』の番号が一致しています。

 

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佐々木頼綱譲状案 朽木家古文書 国立公文書館

では翻刻です。

次男五郎源義綱ニ譲渡所領事

一、近江國朽木庄〈承久勲功、祖父近江守信綱拝領所也〉

一、常陸國本木郷〈弘安勲功、頼綱拝領所也〉

右彼両所ハ勲功庄也、小所なりと(登)いへとも

他に(尓)ことなる(流)所領なり、そ(楚)の(乃)むね(袮)を存知して

知行すへ(遍)き状如件

弘安十年二月廿八日左衛門尉源頼綱 御在判

右承久ノ比より寛永四年迄ハ四百十年ニ成

 寛永年間に書写されたことが奥書よりわかります。「案」というよりは「写」というイメージの方が近いかも、と思います。

 

( )内に字母を入れておきました。

 

読み下しです。

次男五郎源義綱に譲り渡す所領の事

一、近江國朽木庄〈承久勲功、祖父近江守信綱拝領所なり〉

一、常陸國本木郷〈弘安勲功、頼綱拝領所なり〉

右彼の両所は勲功の庄なり。小所なりといへども他に異なる所領なり。その旨を存知して知行すべき状件の如し。

弘安十年二月廿八日左衛門尉源頼綱 御在判

右承久の比より寛永四年迄ハ四百十年に成る

 

ここに出てくる「源頼綱」は高島高信の次男の高島頼綱です。彼は霜月騒動で大功を立て、朽木谷を譲与され、朽木氏の祖となりました。頼綱の次男の義綱は正式に朽木氏を名乗り、朽木氏の初代となります。義綱の曾孫の経氏の代に池氏の所領を併呑し、有力者となります。

正親町天皇の生涯ー永禄十年正月一日〜十二月晦日

永禄十年
正月
一日、四方拝を行う、小朝拝・元日節会は停止
御湯殿上日記、言継卿記、続史愚抄
五日、千秋万歳
御湯殿上日記、言継卿記
七日、白馬節会
続史愚抄
八日、太元帥法
御湯殿上日記、言継卿記
十六日、踏歌節会
続史愚抄
十八日、三毬打
言継卿記
十九日、和歌会始、出御
御湯殿上日記、言継卿記
二十二日、囲碁、のち数このことあり
御湯殿上日記(正月二十二日・二月五日・十日)
二月
十六日、楊弓、のち数このことあり
言継卿記(二月十六日・四月十七日・二十七日)、御湯殿上日記(二月十七日・四月十七日・二十五日・二十七日)
十七日、貝合、のち数このことあり
御湯殿上日記(二月十七日・三十日・四月十九日)
二十二日、水無瀬宮法楽和歌会
御湯殿上日記(二月二十一日・二十二日)、言継卿記
二十五日、北野社法楽和歌会
御湯殿上日記(二月二十三日・二十五日)、言継卿記
三月
三日、闘鶏
御湯殿上日記、言継卿記
この日、着到和歌会を始める
御湯殿上日記(三月三日・十七日・十九日・二十三日)
四日、庚申待
御湯殿上日記
十日、御霊社、北野社並びに歓喜天に宮女の代官詣、のち数このことあり
御湯殿上日記(三月十日・五月二日・七日・十二日・十六日)
十三日、宮女、清荒神祇園社に参詣により撫物を遣わす、のち祇園社等に宮女代官詣
御湯殿上日記(三月十三日・五月二十四日)
十六日、仁和寺その他より苔、藤の台木等を進上せしめる
言継卿記(三月十四日・十五日・十六日・十九日・二十日)、御湯殿上日記(三月十六日・十七日・十八日・二十二日・四月十一日)
二十二日、鞍馬寺に近侍の代官詣
御湯殿上日記
四月
十四日、内宴、能
御湯殿上日記、言継卿記
二十四日、賀茂祭
御湯殿上日記
二十五日、月次和歌会
言継卿記(四月二十六日・五月二日)
二十七日、別殿行幸
御湯殿上日記
五月
六日、庚申待
御湯殿上日記
六月
一日、御霊社に宮女の代官詣あり、のち数このことあり
御湯殿上日記(六月一日・八月八日・十月十八日)
七日、北野社に近侍の代官詣、のちまたこのことあり
御湯殿上日記(六月七日・十四日)
十三日、因幡堂並びに七観音に宮女の代官詣、のちまたこのことあり
御湯殿上日記(六月十三日・八月三日)
十五日、着到和歌会おわる
御湯殿上日記
二十一日、曼殊院宮覚恕より曼荼羅を召して叡念あり
御湯殿上日記
二十二日、囲碁連歌などあり、のち数囲碁あり
御湯殿上日記(六月二十二日・九月十日・十三日)、言継卿記
二十五日、北野社法楽当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
この日、月次和歌会、のち数このことあり
言継卿記(六月二十一日・七月二十四日・八月二十六日・九月二十四日・十月二十五日・十二月二十四日)、御湯殿上日記(八月二十四日)
二十九日、大祓
御湯殿上日記
七月
二日、殿上修理事始
御湯殿上日記
四日、小御所で楽始、箏の所作
御湯殿上日記、言継卿記
七日、七夕節、和歌会並びに楽会、箏の所作、この日庚申待
御湯殿上日記、言継卿記(七月六日・七日)
十九日、この日より殿上修理
御湯殿上日記(七月十九日・二十日・二十一日・二十二日・二十三日・二十四日・二十五日・二十六日・二十七日)
二十二日、不予
御湯殿上日記
二十六日、聖護院新門主道澄僧正、若王子増真僧正参内、議定所において謁を賜い、加持に候す
御湯殿上日記、言継卿記
八月
一日、八朔の儀
御湯殿上日記
六日、法勝寺長老を召して受戒
御湯殿上日記、言継卿記
十五日、観月当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
九月
五日、泉涌寺長老を召して受戒
御湯殿上日記
八日、庚申待
御湯殿上日記
九日、重陽節、和歌会
御湯殿上日記
二十七日、延暦寺六月会
言継卿記
十月
六日、亥子の儀、十八日、三十日同じ
御湯殿上日記(十月六日・十八日・三十日)
十日、聖護院新門主道澄、若王子増真僧正、参内、謁を賜う
御湯殿上日記、言継卿記
十五日、日待あり
御湯殿上日記
この日、不予
(十月十五日・十六日・十七日・十八日)
十九日、不予平癒祈祷を諸寺社に仰せ付ける、次いで快方に向かう
御湯殿上日記(十月十九日・二十日・二十一日・二十二日・二十三日・二十四日・二十五日・二十六日・二十七日・二十八日・二十九日・十一月一日・三日・二十五日)、言継卿記(十月十九日・二十日・二十一日・二十二日・二十四日・二十五日・二十六日・二十八日・十一月十六日・二十三日・二十四日)
十一月
六日、石清水八幡宮に宮女の代官詣あるにより撫物を賜う、この日これを返献す
御湯殿上日記
九日、庚申待
言継卿記
二十二日、この日より御湯殿の修理
御湯殿上日記、言継卿記
十二月
九日、楊弓、のち数このことあり
御湯殿上日記、言継卿記(十二月二十一日・十四日)
十三日、病気平癒の祝宴
言継卿記
十九日、不予
言継卿記(十二月十九日・二十三日・二十四日)
二十八日、別殿行幸
言継卿記

後花園天皇から成仁親王への手紙

後花園天皇の皇子はどんな人?父帝との関係は?調べてみました。

 

後花園天皇には皇子が一人しかいませんでした。嘉楽門院大炊御門信子所生の成仁(ふさひと)親王です。母親の大炊御門信子は実際には大炊御門家の姫ではなく、地下の楽人の娘です。医師の和気氏の養女になって後花園天皇の下臈となり、唯一の皇子を産んだことから大炊御門家の養女となって国母となりますが、他の上臈たちに皇子が生まれれば生家の身分の低い信子所生の成仁親王は門跡に入室する運命でした。しかし結果として後花園の唯一の皇子であったため、彼が儲君となります。

 

この後花園から成仁へ送られた手紙が今日残っています。「後花園院御消息」と言われ、『群書類従』などに収められています。

 

大日本史料』にも収載されていて、そこには頭注で内容が書かれていますので、その頭注をみていきましょう。

 

アウトラインを示しておきます。

「言動は重々しくしなさい」

連歌の時にやたら他人の句を難じてはいけない」

漢詩を理解することができないのにやたらに問いを発してはいけない」

「幼少の頃よりわがままであることはいけない」

「学問・芸術に励まなければならない」

「中国の文明を知らなくては万事に恥をかく」

「よく分からないことは伏見宮貞常親王に尋ねなさい」

「小鳥をコレクションするのをやめなさい」

結構口うるさいです。中国文明、というのは当時のグローバルスタンダードです。グローバルスタンダードに基づかない思考はだめだそうです。天皇とか朝廷といえば「日本の伝統」というイメージが強いですが、やはり何らかのスタンダードを踏まえない議論は恥ずかしいという意識が後花園には強かったようです。当時の知識人とはそういうものなのでしょう。耳が痛いっす。

 

「言動は荘重を要す」

いきなりかましてくれています。原文では「御進退などは如何にもしづかに重々と候はんずるにて候、御こは色なにとやらんきふきふと聞え候、やはらかにのどやかに仰付られ候べきにて候」というところです。話し方にまでケチをつけています。

 

現代語訳を示しておきます。「御進退などはいかにも静かに重々しくなさるべきです。お声が何やら汲々と(余裕がないように)聞こえます。やわらかにのどやかに発声なさるべきです。」

 

連歌の時、濫に他人の句を難ずる勿れ」

多分に他人のアラを探す悪癖があったのでしょう。「連歌の時人のいたし候句などいかにわろく候へばとて、そこつに難を入られ候事しかるべからずおぼへ候」と言っています。それどころか難もない句にケチをつけて恥をかくリスクまで指摘しています。「しぜん難も候はぬ句などをとかくおほせられ候はんずるは、かへりて御ちじよくにて候べく候」というところです。

 

連歌の時、人の作った句がいかに出来がよくなかろうとも、粗忽に難を入れられることはよろしくありません。」ということは後花園から見て成仁はしばしば粗忽に難をつけているのでしょう。「難もない句などをとかく仰せられるのは逆に恥辱となります」とまで言っています。

 

「漢句を解する能はずして濫に問を発する勿れ」

 これは長いです。

又和漢連句のとき、漢の句いで候へば毎度ふしん候、これはをての御尋にて候はんずれ、とても連句のことは一向御存知候はぬうへは、あながち当座の御ふしんはそのせんなき事にて候、肝要は連歌まじり候事にて候ほどに、さやうの時、御句を出され候はんずるまでにて候、さりながら漢句つまり候ときなどにて御句など付られたきやうにも候はば、さやうの時御ふしんも候べきにて候、そのうへしぜんやすき句など御たづね候へば、これほどに文字かたなど疎々しき御事にて候かと、人の存じ候はんずることも、かつうは口惜やうに候、とても一座後日に御覧ぜられ候べきうへは、その時いかにも御不審候て、御けいこの便りにもせられ候べく候、殊に近比の会など室町殿太閤いしいし厳重に伺候せられ候事にて候、聊のことも御心に御心を添られ候て御謹候はんずるにて候、ただうち心やすくさいさいしこうのものさへ人人の心中は辱かしきことにて候、ましてやとさまさいかくのかたがたは、いかにも見落され候はぬやうに、誰々もありたき事にて候

 「やすき句など御たづね候へば、これほどに文字かたなど疎々しき御事にて候かと、人の存じ候はんずることも、かつうは口惜やうに候」というところは「簡単な句などをお尋ねになれば、ここまで漢文の素養がないのか、などと人々に知られるのが大変残念であります」ということで「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とは逆のようです。確かに学生は簡単なこと、些細なことでもどんどん教員に聞くべきですが、それは学生が教員に比べてその講義に関することは知識が少ない、という前提があってのこと、確かに古文書の調査で簡単な文字を聞くのはいささか恥ずかしい、というのはわかります。だから仲のいい人にこっそり聞くようなものです。私も多用しました。

 

「御幼少より放縦なるを誡めらる」

かなり手厳しいです。では後花園が実際にどう書いているかを見ましょう。

惣じてそれの御事はおさなくいらせおはしまし候時より、をそろしく辱かしき人も候はぬやうに思召候て、御心のままに御そだち候ゆへに、今に御心づかひもかやうに候かとおぼへ候、猶もおさなき御年にても候はばせめては罪さり所も候べきにて候、今にをきては御成身の事にて候、いかにもいかにも御身を謹まれ、世の欺けり候はぬやうに、御嗜候はんずるがかんようにて候 

 手厳しいです。

そうじてその事は幼くいらっしゃったころより自分が恥ずかしくなるほど立派な人もいないように思って、心のままに育ったゆえに今も心遣いもそんなものか、と思います。なおも幼い年でもあれば仕方がないというところですが、今は成人なさっているのです。いかにも身をお慎みになって、世の中にバカにされないように努力することが重要です。

 手厳しいです。かなり成仁親王の人格に危機感を持っていることが伺えます。この点後花園の父親の貞成親王が後花園に送った書状とはかなり色合いが違います。貞成は自分を贔屓にしない後花園に不満を漏らしていますが、後花園は成仁親王の現状の人間性に著しく不満を持っています。

 

「学問諸芸を勧まし給う」

後花園は成仁親王に学問諸芸を勧めています。ただポイントは後花園のいう「学問」とは漢学のことです。当時は中国の思想を身につけなければ文化人とはいえませんでした。今日では欧米の学問を基準にして様々な物の見方が組み立てられているように、当時の日本の文化はその根底に中国文明があったのです。この点を見逃していては当時の日本の文化の姿は見えてきません。

 

「幾度申ても御学文を先本とせられ候こそ御身の誤りをもあらためられ、人のよしあしをも正され候事にて候、能々御稽古候べく候、その外は公事かた詩歌管絃御手迹など御能にて候」

 

ここでの「学文」が基本的な漢学の素養ということになります。後花園も最初に四書五経から学んでいます。ちなみに後花園の成績は「言語道断」=言葉にならないほど素晴らしい、というものだったそうで、この点儒学を徹底的に研究した花園天皇との共通点があります。

 

訳は次のようになります。「何度申しても、漢学をまず基本とすること頃ご自身の誤りを改め、人の良し悪しを正すことにもなります。よくよく勉学に励むべきです。そのほかには政治や詩歌・管弦・手習いなどが必要です」

 

「漢才に乏しければ万事に辱を招く」

今まで述べてきたような、当時の日本文化における中国思想の影響を考えれば、中国文化について熟知しなければ恥となる、ということです。

 

「漢才に疎く候へば万事につけて未練恥辱なることのみにて候」

 

ここはずばり短く言っています。

 

「小鳥の飼養を戒めらる」

以下の部分です。

此ちかごろ小鳥などあつめられ候て御すきのよしきき進らせ候、これまたしかるべからす候、なにとしてもかやうの無用なる事に心をうつし候へば、かんようさたし候べき事はそばになり候習ひにて候、そのうへかやうのなぐさみはおさなき時の事にて候、万事をさしをかれ候て御稽古をはげまされ候事にて候べく候 

 手厳しいです。

近頃小鳥など集められて趣味になさっていることを聞きました。これまたよろしくありません。何としてもこのような無用なことに心を移しますと、重要なやるべきことがおろそかになるものです。そのうえこのような慰みは幼きころのものであって、今は全てに優先して学問に励むべきことです。

 

しかしこの手厳しさも後花園が成仁を立派な天皇にしたいがためなればこそです。

「皇儲たるべき心得を示さる」とあります。

返々それの御事はすでに儲君の御事にて御みやうがも候はば践祚の一だん勿論の事にて候、よのつねの竹園などの御あてがひにはかはり候はんずるにて候、御心だてなどいかにも柔和に御慈悲ぶかく候て、人をはごくまれ候はんずるにて候、何としてもはらあしく短慮に候へば人のそしりをうけ我身も後悔し候事にて候、かまへて当時後代の謗をのこされ候はぬやうに御心をもたれ候はんずるにて候、かやうの事どもさのみ申候へばさだめて御気にちがひ候はんずれども、我身申候はではたれかけうくん申候べきぞにて候程に心中をのこさず申候 

 意味です。

返す返すそれらの事はすでに儲君(皇太子)となって冥加(神仏の助け)もございますので践祚なさることは当然のことです。世の常の宮家とは立場が異なります。心だてなどいかにも柔和に慈悲深くなさって、人を慈しまれるものです。何としても性格が悪く短慮でありますれば人の誹りを受け、自分でも後悔することになります。絶対に現代・未来の人々に謗られないように心がけなさりませ。このようなことだけ申しますればおそらく気分を悪くされるでしょうが、私が申さねば誰も教訓を伝える事はないので私の思うことを残さず申しました。

 成仁に対する厳しさも深く広い愛情があればこそ、です。後花園は成仁に立派な天皇になってほしいのです。そのためにはあえて厳しいことも言う必要があったのです。

 

これを受けて成仁、後土御門天皇がどのように感じたかはわかりません。ただ後土御門は思い通りにならない治世に煩悶した事は彼の残した和歌からも伺えます。

 

誓いありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ

 

戦乱の責任を自らの背負い、真摯に向き合う後土御門の心意気が現れた和歌です。実際には戦乱の責任はむしろ後花園が背負うべきものだと私は考えますが、後土御門はその責を一身に引き受けました。

 

一方で偉大な父親と比較される事は彼にとってプレッシャーとなったでしょう。今は後花園のことで手がいっぱいですが、後土御門とも全力をあげて向かい合わなければならないと思っています。

 

いかがでしたか?後花園天皇天皇という地位に何を求めていたのか、後花園天皇の政治思想などが少しは伺えるのではないでしょうか。おそらく最も読みにくい「いかがでしたか?ブログ」ですが、ここまで読み通した方には深くお礼を申し上げたいと思います。ここまで読んで下さりありがとうございました。

三浦の乱ー三浦の形成と乱の発生

引き続き三浦の乱について見ていきます。

 

三浦が形成されたのは15世紀初頭に倭寇対策として興利倭(倭寇が商人に転身した者)の入港先を釜山浦と薺浦に限定し、使送倭(使節として来朝する者)も同様とします。1426年には塩浦が追加され、三浦が形成されます。

 

基本的には三浦は定住を想定していない交易拠点でした。しかし実際には交易従事者の一時的な滞在のみならず、そこに定住する恒居倭が増加していきます。彼らは朝鮮に帰化せず、あくまでも対馬支配下にいる点で受職倭人とは区別されます。

 

恒居倭人の増加は朝鮮サイドからすれば朝鮮の法に従わない人々の増加であり、しかも朝鮮サイドは強硬な姿勢で臨めば彼らが倭寇化するリスクもあり、簡単には手が出せません。日本人有力者による自治が行われ、朝鮮サイドの徴税権や司法警察権(検断権)は及びません。

 

1436年、三浦の倭人対馬関係者に限定され、それまで送還に協力的だった宗氏が消極的な態度に変わります。それ以降人口は増え始め、200人ほどだった人口が30年後には3000人を超えるようになりました。

 

人口が増えると、周辺との軋轢も問題となります。恒居倭人による漁場の占拠という問題はまだ可愛い方で、朝鮮にとって無視できないのは、恒居倭と癒着する朝鮮人が出てきたことです。密貿易が活発化し、朝鮮の通交管理が空洞化します。また三浦周辺の朝鮮人は三浦の倭人と結託していわばふるさと納税的な形で朝鮮への租税を回避します。さらには朝鮮の水賊が恒居倭と結託して倭寇化する事例も報告され、水賊の活動が活発化します。

 

このような事態は本来は対馬側にとっても不本意であるため、朝鮮当局と対馬サイドは協力しながら朝鮮の検断権を行使できるようにして海賊行為を働いた倭人を処刑するという強硬姿勢を見せ始めます。

 

そのような中済州島の貢馬運搬船襲撃事件が起こり、その主犯が三浦関係者と断定され、三浦の倭人に対する視線が厳しくなります。

 

そのような中、1510年、釣りに向かう恒居倭人倭寇と誤認して処刑する事件が起き、それへの抗議のために三浦の倭人が蜂起し三浦の乱が勃発します。

 

この事件に対馬側は宗盛親を大将とする援軍を派遣し4500人の軍勢で三浦を管理していた朝鮮の武将を襲撃し、釜山浦では李会友を討ち取り、薺浦では金世鈞を生け捕りにしました。単に恒居倭の蜂起ではなく、対馬から軍勢が入ってきた大規模な軍事侵攻でした。

 

盛親の率いる軍はさらに周辺の城の攻撃に取り掛かりますが、反撃に遭い、撤退を余儀なくされます。

 

この乱の影響は大きく、対馬は朝鮮とのパイプを失い、大きな危機に直面します。ここから対馬はどうやって朝鮮との関係を立て直していくのか、それは講座でお話しすることになろうかと思います。

 

結果として三浦の乱で崩壊した日朝関係の立て直しの両国の努力は営々と続けられ、それが近世における「善隣友好」の日朝関係につながっていくのです。もっともこの時代の日朝関係を「善隣友好」の一面のみで見ていくのも問題ではあります。

三浦の乱への道ー日朝関係の変遷

9月26日のオンライン講座のお知らせです。

 

テーマは「三浦の乱」です。読み方は?関係者は?背景は?調べてみました。

 

三浦の乱は「サンポの乱」と読みます。「みうらの乱」ではありません。

 

「三浦」とは「釜山浦」(プサン)、薺浦(チャンウォン)、塩浦(ウルサン)の三ヶ所のことです。16世紀に日朝交易の日本側の拠点として整備されました。

 

16世紀の日朝関係ですが、日本側は朝鮮に胡椒や銅、金などをもたらし、朝鮮側からは主として綿布がもたらされました。

 

日朝関係は対馬と博多を起点として日本の商人の朝鮮への進出とともに朝鮮サイドは「浦所」を指定し、そこに日本人を定住させました。朝鮮に定住する日本人を朝鮮では「恒居倭」と呼称していました。ちなみに朝鮮では「日本」という呼称はあくまでも日本の中央政府、15・16世紀には室町幕府を指す呼称でした。それ以外は「倭」です。

 

建国当初の朝鮮を悩ませたのはいわゆる「倭寇」でした。「倭寇」といえば日本人の海賊行為という側面が強調されがちですが、16世紀の「倭寇」は後期倭寇と呼ばれ、その実態は中国南部の海商でした。

 

14世紀の末の朝鮮半島を襲った「倭寇」の正体は今の所対馬・松浦・壱岐を中心とした武装勢力と考えられます。

 

朝鮮側でもその対策に腐心し、「倭人」に対し様々な特権を認め、懐柔する方針をとります。商売を認め、利益を上げさせる「興利倭人」、日本の有力者である守護(巨酋)の朝貢使節としてさまざまな特権を与える「使送倭人」、朝鮮の官職を与える「受職倭人」など、倭人に様々な特権を与え、倭寇よりも利益を与えることによって朝鮮への海賊行為を抑制しようとします。この方針によって倭寇は15世紀になると沈静化しますが、日本側の姿勢、対馬大内氏など朝鮮通交を管理した有力者の動向、朝鮮側の政治姿勢などによって二転三転します。応永の外寇による武力制圧の試み、大内教弘による対馬の朝鮮編入の申し出、世祖における朝貢の拡大など様々な動きがありましたが、土木の変以降の変動により海域アジアにおける経済的なパイは縮小していきます。

 

いわば経済移民が大量に朝鮮に入国し、そこに倭人のコロニーを作り始めたのです。その倭人コロニーの中は完全に日本であり、日本国内の法が適用され、朝鮮から見れば治外法権の地が出来上がっていました。

 

このコロニーとしての三浦を拠点に日朝貿易が行われましたが、当時の対馬はその経済をほぼ朝鮮に頼っていましたので、いかにして朝鮮から多くの物資を引っ張って来られるかということに焦点が当たります。

 

基本的な流れとして日朝貿易は15世紀における日本の経済のV字回復により後衛量は増大します。しかし朝鮮側は様々な特権を日本側に付していましたので交易量の増大は朝鮮の国家財政の悪化に繋がります。したがってこのころの日朝関係は交易拡大を目指す日本側と、交易を抑制したい朝鮮側という図式となります。

 

1443年の嘉吉約条に伴い、対馬からの使送船の上限が50隻となります。

 

その対策として対馬から様々な使節が派遣されますが、これらの多くは実際の実態とは異なる「偽使」でした。

 

対馬のすごいのは琉球国王から朝鮮への使節も請け負っていたことです。琉球には朝鮮からの下賜品を送ればよいので、琉球から依頼がなくても定期的に送っていた、と言われます。

 

これだけでは足りなくなったのか、夷千島王なる使節まで作って朝鮮に送っています。

 

1488年に綿布と銅などの交易レートが引き上げられ、金や銅のこう貿易も禁止されました。対馬には銅の在庫が余り始め、対馬サイドの不満は蓄積していきます。

平顕盛譲状(『朽木家古文書』134 国立公文書館)

古文書入門です。

 

国立公文書館蔵『朽木家古文書』134号文書(史料纂集『朽木文書』では133)です。

www.digital.archives.go.jp

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平顕盛譲状 朽木家古文書 国立公文書館

変体仮名が大量に使われています。一行ずつ解説を加えながら翻刻します。

ゆつりわたす しそくまんしゆ丸所

 二つめの「つ」は「徒」、「り」は「里」、「た」は「多」、「し」は「志」、「そ」は「所」をそれぞれ字母としています。「譲り渡す、子息万寿丸の所」となります。

 たんこの國くらはしのかうの内よほろ

 「た」は「堂」、「の」は「能」、「は」は「者」、「ほ」は「本」をそれぞれ字母としています。あとは現在我々が使っている仮名です。「丹後国倉橋郷の内、与保呂」ということです。

の村のちとうしきの事

 「の」は現在の字母と同じ「乃」ですが、原型をとどめています。一行前の「の」はすべて「能」が字母ですが、この行の「の」は両方とも「乃」です。

かまくらあまなハ魚町東頭地一圓事

 ここは現行の仮名の字母と一致しています。「魚」が下の四つの点ではなく「大」であることと、縦線が一本省略されていることに注意が必要です。「頭」は実際には「頰」であって、「東頰」(ひがしつら)だそうです。「東頰」とは東側という意味です。漢字を入れますと「鎌倉甘縄魚町東頰地」となります。

むさしの国ひきのこをりの内いしさか

の村事

最後の「か」が「可」を字母としていますが、他は現行の字母です。「武蔵国比企郡の内石坂の村事」です。

あはの國くすわらの村事

 「は」が「者」、「の」が「能」です。「安房国葛原の村事」です。

ちうたいの大刀うち刀の事

 「重代の太刀・打ち刀の事」となります。

 

本文は一気に説明します。

右所領とも并屋地・大刀・うち刀、代々

御下文・てつ(徒)きせうもんあいそゑてまんしゆ丸

やうした(多)るあいた(多)ゆつ(徒)り(里)わた(多)す物也

ゑいたいさうてんとしてこれをちき

やうすへし、仍状如件

元徳貳年九月廿二日 平顕盛(花押)

 「てつきせうもん」は「手継證文」、「ゑいたいさうてん」は「永代相伝」、「ちきやう」は「知行」です。

したがって適宜漢字を補うと次のようになります。

右所領ども并屋地・大刀・打刀、代々御下文・手継證文相添えて万寿丸養子たる間、譲り渡す物也。永代相伝としてこれを知行すべし

 次の行からは譲状の効力を幕府が保証した下知状になります。これを「安堵の外題」といいます。嘉元元年(一三〇三年)以降、鎌倉幕府は譲与安堵には申請者の提出した譲状の余白に安堵の旨を書き込む、という形をとります。

任此状可令領掌之由依仰下知

如件

元徳三年六月廿日 右馬権頭(花押)

         相模守(花押)

 読み下しは次の通りです。

此の状に任せて領掌せしむべきの由、仰せによって下知件の如し

 人名ですが、万寿丸は朽木氏経で、池顕盛の養子となって池氏の所領を継承します。これを保証した幕府の担当者ですが、「右馬権頭」は連署の北条茂時、「相模守」は十六代執権の赤橋守時です。

正親町天皇の生涯ー永禄九年正月一日〜十二月晦日

永禄九年
正月
一日、四方拝を行う、小朝拝、元日節会は停止
言継卿記、公卿補任続史愚抄
五日、千秋万歳
言継卿記
この日、叙位を停止
続史愚抄
六日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
七日、白馬節会
続史愚抄
八日、太元帥法
御湯殿上日記(八日・十四日)
十三日、楊弓、のち数このことあり
御湯殿上日記(正月十三日・五月十八日・二十日)、言継卿記(正月十三日・四月五日・五月十六日・十八日・十九日・二十日)
十六日、神宮奏事始
御湯殿上日記
この日、踏歌節会を停止
続史愚抄
十八日、三毬打
御湯殿上日記、言継卿記
十九日、和歌会始
御湯殿上日記(正月九日・十九日)、言継卿記(正月十四日・十九日)
この日、厄神に代官詣
御湯殿上日記
二十一日、貝合
御湯殿上日記(正月二十一日・二月三日・三月四日・十九日・五月十四日)、言継卿記
二十七日、庚申待
御湯殿上日記、言継卿記
二月
十二日、不予
御湯殿上日記(二月十二日、十五日、三月一日、六日)、言継卿記
十七日、山科言継、近江国甲賀の望月三尉に禁裏修理料を促す
言継卿記
この日、足利義秋還俗により銀剣、馬代を献ず
御湯殿上日記
二十日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
二十二日、水無瀬宮法楽和歌会
言継卿記
二十五日、北野社法楽五十首当座和歌会
御湯殿上日記(二月二十一日・二十五日)、言継卿記
この日、月次和歌会
御湯殿上日記(二月二十一日)、言継卿記(二月二十三日・二十五日)
この日、北野社に近侍の代官詣、のち数このことあり
御湯殿上日記(二月二十五日。四月十二日・十三日・二十一日)
二十六日、御霊社、清荒神並びに因幡堂などに宮女の代官詣、のち数このことあり
御湯殿上日記(二月二十六日・二十九日・三月一日・二十八日・四月十七日・二十一日・五月十一日・十二日)
三月
三日、闘鶏
御湯殿上日記、言継卿記
この日、着到和歌会を始める
御湯殿上日記(三月三日・二十二日・二十三日)
十日、禁裏御料所に常陸国中郡進献の儀により兵部大輔結城政村を伊勢守に、男政久を兵部大輔に任ず
言継卿記
十九日、伊勢神宮造替山口祭日時定
御湯殿上日記(三月十一日・十三日・十八日・十九日)、言継卿記
二十八日、庚申待
御湯殿上日記、言継卿記
二十九日、三月昼当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
四月
二日、不予
御湯殿上日記(四月二日・七日・八日・二十五日・二十六日)
この日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
十一日、織田信長、物を献上、これを廷臣に分かち賜う
御湯殿上日記
二十五日、月次和歌会、のちまたこのことあり
言継卿記(四月二十四日・五月二十五日)、御湯殿上日記
二十七日、長門国国分寺より物を献上
御湯殿上日記
五月
十三日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
二十二日、山科言継をして禁裏本を書写校合せしむ
言継卿記(五月二十二日・六月五日・二十六日・閏八月八日)
三十日、庚申待
御湯殿上日記、言継卿記
六月
十四日、着到和歌会をおわる
御湯殿上日記(六月八日・十四日・閏八月十六日)
十七日、楊弓、のち数このことあり
御湯殿上日記(六月十七日・十九日・八月八日・二十八日・三十日・閏八月一日・九月十九日・十一月十四日)、言継卿記(六月十七日・十九日・十月十七日・十一月十四日)
二十二日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
二十五日、北野社法楽当座和歌会
御湯殿上日記
この日、月次和歌会を行う、のち数このことあり
言継卿記(六月二十八日・閏八月二十四日・九月二十四日・十月二十五日・十一月二十五日・十二月二十五日)、御湯殿上日記(六月二十四日・七月二十四日・八月二十四日・閏八月二十四日・九月二十四日・十月二十四日)
七月
五日、泉涌寺長老を召して受戒
御湯殿上日記
七日、七夕節、和歌会
御湯殿上日記
二十八日、清荒神に宮女の代官詣、のち数清荒神、御霊社並びに因幡堂に代官詣
御湯殿上日記(七月二十八日・八月十八日・十月十四日)
八月
二日、庚申待
御湯殿上日記、言継卿記
六日、和歌会、のち数このことあり
御湯殿上日記(八月六日・閏八月十五日・十月二十二日)、言継卿記(十月十八日・二十二日)
七日、別殿行幸
御湯殿上日記
十一日、伊勢神宮造営の綸旨を豊後、薩摩、日向、播磨の四カ国に下す
御湯殿上日記
十三日、不予
御湯殿上日記(八月十三日・十四日)
十五日、観月当座和歌会
御湯殿上日記
二十一日、北野社に近侍の代官詣、のち数このことあり
御湯殿上日記(八月二十一日・二十六日・十月十三日)
閏八月
五日、歯痛
御湯殿上日記(閏八月五日・七日)
九日、伊勢神宮の剣紛失につき下問
御湯殿上日記(閏八月九日・十一日)
十日、受戒
御湯殿上日記
この日、貝合、のちまたこのことあり
御湯殿上日記、言継卿記(八月二十四日)
十四日、禁中所々破損に就き、修理料を紀伊国根来寺に寄進せしむ
言継卿記(閏八月八日・十四日)
十八日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
二十三日、止雨祈祷を諸寺社に仰せ付ける
御湯殿上日記
二十七日、鞍馬寺に宮女の代官詣
御湯殿上日記
九月
三日、庚申待
御湯殿上日記
五日、後奈良天皇の十回忌、伏見般舟三昧院にて法事
御湯殿上日記
九日、重陽節句、和歌会
言継卿記
十二日、御霊社、北野社ならびに歓喜天に代官詣
御湯殿上日記
十三日、観月祝
御湯殿上日記
十八日、小御所において楽始、箏の所作
御湯殿上日記(九月十二日・十四日・十八日)、言継卿記(九月十八日)
三十日、九月昼和漢会
御湯殿上日記(九月二十六日・二十七日・二十八日・二十九日・三十日)、言継卿記
十月
二日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
五日、故式部卿邦輔親王王子最胤入道親王を猶子とする
御湯殿上日記、梶井円融房在住親王
十日、山城国光明寺長老に紫衣を勅許
御湯殿上日記(十月九日・十日)
十五日、十五首当座和歌会
御湯殿上日記
二十五日、囲碁
御湯殿上日記
十一月
三日、庚申待
御湯殿上日記
十三日、別殿行幸
御湯殿上日記(十一月十三日・十四日)
十二月
十七日、別殿行幸、御湯殿上日記、言継卿記(十二月十六日)
二十八日、足利義栄を左馬頭に任ず
御湯殿上日記、公卿補任、足利季世記