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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

北野天満宮の動画

北野天満宮の歴史に関する動画が上がっています。

 

www.youtube.com北野天満宮は、菅原道真の怨霊を鎮めるために創設された。一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号を賜るが、明治時代の国家神道により北野神社と改名、戦後の国家神道解体によって北野天満宮に戻った。北野天満宮に縁の深い菅原氏の歴史をたどり、鎌倉時代後期に北野社の宮仕法師が引き起こした悪党訴訟を検討します。

 

www.youtube.com足利義持から義教の時期、北野天満宮は酒麹を独占した。酒麹をめぐる山門との対立が正長の土一揆の一因となる。京都の北郊に位置する北野天満は、鎌倉時代後半から室町時代にかけて、九条道家貞成親王花園上皇など政界の現状に不満を持つ人々の信仰を集めた。今は「学問の神」として賑わう北野天満宮だが、中世には未来を見通せない人や無実を晴らしたい人の神という性格を持っていた。

 

追記(12/18)

www.youtube.com菅原道真を祭る天満宮平安時代に始まりました。菅原道真と天神は一体化していきますが、イコールになったわけではありません。雑談の前半は天満と天神、アナール学。雑談の後半は、日本のお正月、雑煮・初詣など。そして、研究者と学ぶ日本史講座のテーマの選定です。

正親町天皇の生涯ー天正六年正月一日〜十二月晦日

天正六年
正月
一日、四方拝、小朝拝、元日節会
公卿補任、兼見卿記
五日、叙位を延引
続史愚抄
六日、叙位を追行
公卿補任
七日、白馬節会、出御
兼見卿記、公卿補任
八日、太元帥法
続史愚抄(正月八日・十四日)
十三日、前権大納言中山孝親を大臣に準じ、朝参せしむべきよしの宣下
公卿補任
十六日、踏歌節会
公卿補任
十九日、和歌会始
続史愚抄、言経卿記(二月十一日)
二十日、前関白前左大臣近衛前久に准三宮宣下
公卿補任
二月
二日、春日祭延引
続史愚抄
三月
二十一日、春日祭追行
公卿補任
五月
十八日、石清水八幡宮法楽楽会
公卿補任
二十一日、この日より七日間、清涼殿において不動明王法御修法を行う
公卿補任
六月
四日、延暦寺六月会を停止
続史愚抄
十四日、祇園御霊会
兼見卿記
七月
七日、七夕節、立花
兼見卿記
十二月
四日、別殿行幸
公卿補任
十三日、前左大臣九条兼孝に関白氏長者、一座牛車、随身兵仗などの宣下
公卿補任

明智光秀・中川重政・丹羽長秀・木下秀吉連署状

今日は明智光秀中川重政丹羽長秀・木下秀吉連署状を読みます。禁裏御料であった丹波国山国荘の関係です。山国荘は光厳院が常照皇寺に入り、修行したところであり、光厳天皇後花園天皇の山国陵と後山国陵があります。

 

藤田達生福島克彦編『明智光秀 史料で読む戦国史3』(八木書店)の「明智光秀文書集成」4号、7号文書です。


明智光秀: 史料で読む戦国史

 

4号文書です。

 禁裏御料所山国庄之事、数年宇津右近大夫押領仕候、今度信長遂糺明宇津ニ可停止違乱之由申付候、両御代官へ信長以朱印申渉候、如前々為御直務可被仰付候由、御収納不可有相違候、宇津かたへも堅申遣候、此等之旨可有御披露候、恐々謹言

  四月十六日   木下藤吉郎 秀吉(花押)

          丹羽五郎左衛門尉 長秀(花押)

          中川八郎右衛門尉 重政(花押)

          明智十兵衛尉 光秀(花押)

   立入左京亮殿

 

 奥野高広『織田信長文書の研究』165号です。


OD>織田信長文書の研究 上巻

 

読み下しです。

禁裏御料所山国庄の事、数年宇津右近大夫(頼重)押領仕り候、今度信長糺明を遂げ、宇津に違乱を停止すべきの由申し付け候、両御代官(庭田重保・高倉永家)へ信長朱印を以って申し渡し候、前々の如く御直務として仰せ付けらるべき候の由、御収納相違あるべからず候、宇津かたへも堅く申し遣わし候、此等の旨御披露あるべく候、恐々謹言 

 禁裏御料所(天皇の所領)で丹波国の国人の宇津頼重が収めるべき年貢を納めていなかったので、困っていたのが禁裏御倉職(みくらしき)の立入(たてり)宗継でした。御倉職は朝廷御用達の金融業者です。つまり禁裏の財政を掌握していたのは金融業で、ある意味民営化ですね。

 

この辺は渡邊大門『明智光秀本能寺の変』(ちくま新書、2019年)に詳述されています。

 


明智光秀と本能寺の変 (ちくま新書)

 

 

現代語訳です。

禁裏御料所の山国荘のこと、この数年宇津右近大夫が押領しております。今度信長が糺明を行って、宇津に違反行為をやめるように申し付けました。二人のお代官様には信長が朱印状で申し渡します。以前からのように朝廷の直務(朝廷が直接支配すること) として仰せつけられるようにとのこと、年貢の収納について違反があってはなりません。宇津方へもしかと申し遣わしました。これらの点を披露なさってください。

 

当然山国荘の年貢を横取りしている宇津頼重へも信長の命令は伝達されます。これが7号文書です。これは写真版がありますので、改行を写真版の通りにします。「明智光秀文書集成」をお持ちの方は33ページをご覧ください。

 

此中申旧候

禁裏御料所

山国庄〈枝郷所々、小野・細川〉如

先規、自

禁中可被仰付之

旨、信長以朱印

被申渉候、聊不可

有御違乱候、此旨

各より可申旨候、恐々

謹言

   丹羽五郎左衛門尉

 四月十八日 長秀(花押)

   木下藤吉郎

       秀吉(花押)

   中川八郎右衛門尉

       重政(花押)

   明智十兵衛尉

       光秀(花押)

 

 宇津右近大夫殿

   御宿所

 

読み下しです。

奥野高広『織田信長文書の研究』166号です。

此の中(うち)申し旧(ふ)り候禁裏御料所山国庄〈枝郷所々、小野・細川〉、先規の如く、禁中より仰せつけられ候べきの旨、信長朱印を以って申し渡され候、聊かも御違乱あるべからず候、此の旨各(おのおの)より申すべき旨に候、恐々謹言

 

現代語訳です。

この中でずっと申しております禁裏御料所の山国荘〈枝郷があちらこちらにあり、小野・ 細川〉は、先例のように禁中より仰せつけられる(禁裏の直接支配にする)べきであることを、信長の朱印状によって申し渡しました。一切違反してはいけません。この旨を我々から申すべきである、ということです。

 

織田信長文書の研究』の解説によると、宇津氏の押領は天文9(1540)年から継続しており、弘治2(1556)年には松永長頼(内藤宗勝)の攻撃を受けたこともあります。ちなみに松永長頼は丹波国守護代で、松永久秀の弟です。

 

織田信長も手を焼き、最終的に明智光秀が宇津頼重を滅ぼすまで解決しませんでした。

ja.wikipedia.org

妙心寺と花園天皇と瓢鮎図の動画

12月5日のオンライン講座の動画です。

テーマは妙心寺花園天皇です。他に瓢鮎図や快川紹喜についても話しています。

 

https://www.youtube.com/channel/UCmRA_sH2-28A6u0CGso6cZA

 

www.youtube.com

1335年、花園上皇は花園御所(離宮萩原殿)を臨済宗の禅寺(妙心寺)とした。花園天皇両統迭立時代の持明院統天皇で、皇太子は大覚寺統後醍醐天皇である。花園天皇後醍醐天皇と同様に繋ぎの天皇と位置付けられており、院政を行うことはなかった。持明院統の次期天皇は甥の量仁親王崇光天皇)に決まっており、花園天皇は譲位した後、量仁親王のために「誡太子書」を書いた。今上天皇は皇太子時代「誡太子書」に感銘を受けたという。

 


花園天皇 (人物叢書)

 


乱世の王権と美術戦略: 室町・戦国時代

 

www.youtube.com

禅の公案を描いた瓢鯰図は、妙心寺塔頭・退蔵院の所蔵。室町幕府の四代将軍足利義持の命によって如拙が描いた。妙心寺応仁の乱で伽藍を焼失するが、六祖雪江宗深の尽力により復興、三十五世太原崇孚(雪斎)は弟子栴岳承芳今川義元)の軍師として活躍した。戦国時代には武将の信仰を集め、江戸時代に大いに栄えた。

 

 


「瓢鮎図」の謎―国宝再読ひょうたんなまずをめぐって (ウェッジ選書)

 


足利義持:累葉の武将を継ぎ、一朝の重臣たり (ミネルヴァ日本評伝選)

 

www.youtube.com

 

正親町天皇の生涯ー天正五年正月一日〜十二月晦日

天正五年
正月
一日、四方拝を行う、小朝拝、元日節会を停止
御湯殿上日記、公卿補任続史愚抄
五日、叙位を停止
続史愚抄
この日、看経あり、のち数このことあり
御湯殿上日記(正月五日・二月二日・七日・十日・十一日・十二日)
七日、白馬節会停止
続史愚抄
八日、太元帥法
御湯殿上日記(正月八日・十四日)、続史愚抄(正月八日・十四日)
十五日、三毬打
御湯殿上日記
十六日、踏歌節会停止
続史愚抄
十八日、御湯殿上日記
この日、織田信長に剣、薫物などを賜う、信長、剣、馬などを献上
御湯殿上日記(正月十八日・十九日)
二十日、和歌会始
御湯殿上日記(正月十九日・二十日)、言経卿記(二月十一日)
二十一日、貝合
御湯殿上日記
二月
二日、春日祭延引
続史愚抄
十四日、織田信長出陣祈祷のため、内侍所法楽楽会
公卿補任、御湯殿上日記(二月十二日・十四日)
十六日、楽会延引
御湯殿上日記
二十一日、この日より三日間、内侍所御神楽
御湯殿上日記(二月二十一日・二十二日・二十三日)、公卿補任
二十二日、水無瀬宮法楽和歌会
御湯殿上日記
二十五日、北野社崩落当座和歌会
御湯殿上日記(二月二十三日・二十五日)
二十六日、春日祭追行
公卿補任
三月
三日、闘鶏
御湯殿上日記
十一日、月次会の題を出題
御湯殿上日記
十二日、この日より禁裏築地の修理
御湯殿上日記(三月十二日〜十九日・二十九日、四月六日〜九日・十四日〜二十一日・二十四日)、兼見卿記
十九日、織田信長の祈祷のために内侍所で御千渡
御湯殿上日記(三月十七日・十九日)
四月
十七日、獅子舞を叡覧、後また女房舞を叡覧
御湯殿上日記(四月十三日・十七日・二十六日・二十七日・二十八日)
九月
十六日、禁庭の菊御覧
兼見卿記
十月
五日、彗星祈祷を伊勢神宮並びに賀茂上下社に仰せ付ける
続史愚抄、兼見卿記(九月二十九日・十月一日・十一日)、公卿補任、多聞院日記(九月二十九日)
八日、この日より二日間、石清水八幡宮法楽楽会
公卿補任
十六日、この日より清涼殿において仁応経百座を行う
公卿補任
十一月
七日、春日祭延引
続史愚抄
十八日、織田信長、参内
兼見卿記
十九日、左大臣九条兼孝に内覧宣下
公卿補任
二十日、右大臣一条内基左大臣に、内大臣織田信長を右大臣に、権大納言二条昭実内大臣に任ず
公卿補任、兼見卿記(十一月二十一日)
十二月
二日、春日祭追行
公卿補任

大覚寺の動画

大覚寺の動画です。

前半

www.youtube.com平安時代嵯峨天皇離宮嵯峨院を建立した。桓武天皇両統迭立をめざし、嵯峨天皇桓武の構想を受け継いで、嵯峨・淳和の二皇統を迭立させようとする。しかし、842年、嵯峨上皇崩御すると承和の変が起こり、皇太子の恒貞親王は廃止される。876年、淳和天皇の皇后正子内親王は出家して嵯峨院大覚寺とし、恒貞親王(恒寂入道親王)が開山(初代住職)となった。鎌倉時代後宇多上皇大覚寺を嵯峨御所として院政を行ったことから、大覚寺統の名が生まれた。

 

www.youtube.com大覚寺義昭は四代将軍義持の後継者を異母兄の青蓮院門跡義円とクジで争うが、六代将軍足利義教となった義円に追い込まれて生命を落とした。江戸時代になると大覚寺近衛家からの門跡を多く迎える。

 

等持院の動画のおまけ

www.youtube.com

ざっくり言うと「室町時代って今人気あるよね」という話です。

私が大学生だったころはむしろ鎌倉時代とかの方が研究が進んでいて室町時代はほとんど惣村とかそういう社会経済史、社会史とかの方が進んでいる印象がありました。今は明らかに中世後期が人気なようです。

 

中世後期といっても織田信長をはじめとする戦国時代関係は昔から人気はあったので、ここでいっているのは室町時代です。

 

もっとも戦国時代の研究も私が学生の頃はそれほど活発ではなかったようなイメージがあります。