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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇ノート

昔の改元の時の候補とその出典を見てみよう3−嘉吉から文安へ−

平成から令和への改元に便乗した企画、後花園天皇の時期の改元の出典を見ようという企画です。一体どのような改元案が、どのような出典に基づいて出されていったのか、ということを見ることで、間も無くとなった改元がより身近に感じられると思います。 この…

昔の改元の時の候補とその出典を見てみよう2−永享から嘉吉へ−

改元便乗企画です。今回は永享から嘉吉への改元を取り上げます。 永享十三(一四四一)年は干支が辛酉に当たりますが、辛酉の年は天命が改まる時で、革命が起こるので改元するという習わしになっていました。これを辛酉革命説といいます。神武天皇の即位の年…

後花園と後土御門の化粧

昔の偉い人の顔は化粧をしているのはご存知なことと思います。 少弐景資「竹崎季長絵詞」 これは文永の役で竹崎季長を見送る少弐景資ですが、しっかり顔に白粉を塗り、口紅をさしてお歯黒をしているのが見えると思います。ちなみにこの日景資は征東左副都元…

称光天皇の追号について

称光天皇の追号が「称徳天皇」と「光仁天皇」から一字ずつ採った、というのは基本的には疑うべくもない事実である、と言ってよいでしょう。なぜかといえば、当時学識ナンバー1と言われた一条兼良が書いているからです。しかも兼良は称光天皇の追号の決定に…

称光天皇の追号の由来

今日は称光天皇について考えてみました。 称光天皇は我らが後花園天皇の一つ前の天皇です。皇女は残せたのですが、皇子を残せなかったため、あえなく皇統が断絶してしまいました。 後小松はそこで伏見宮家から養子を迎えて皇統を存続させることを選択します…

後花園天皇宸翰消と足利義教自筆御内書2

前回見てきました後花園天皇宸翰消息および足利義教自筆御教書(熱田神宮宝物館所蔵)の解説です。 前回のエントリはこちらになります。 sengokukomonjo.hatenablog.com これについては『看聞日記』永享五年十二月十二日条にいろいろ書いてあります。 十二日…

後花園天皇宸翰消息と足利義教自筆御内書

熱田神宮所蔵の後花園天皇宸翰消息と足利義教自筆御内書を見に行ってきました! その感想について述べてみます! 現物の写真は下記のサイトで見ることができます。 www.atsutajingu.or.jp まずは後花園天皇宸翰消息から見ていきます。画像はリンク先をご覧く…

伏見宮家に伝わった鮭昆布公事について−『青森県史資料編中世4』の誤ち

追記:引用文中「直明王」が「直明ラオウ」になっていましたので訂正しました。「直明ラオウ」ってんなんだよ。直明王は義教に所領没収された時に「我が人生に一片の悔いなし」と叫んだことからそう呼ばれている(嘘松) 『青森県史』は個人的には非常に素晴…

後花園天皇と同世代の人たち

今年(2019年)は後花園天皇の生誕600年です。ごく一部の後花園天皇ファン以外にはどうでも良い情報ですが、生誕600年です。 1419年生誕ということは、応永の外寇の年です。 彼らの同時代にどういう人がいるのか、ということを調べてみました…

後花園はなぜ後花園なのか3

後花園はなぜ後花園なのか。 前回までの話をざっくり言いますと、 後花園天皇の侍読であった高辻継長が「後文徳」「後花園」を提出。 多数派が「後文徳」を推す。「文道聖徳」ということが理由。「後花園」に関しては「花園」に由緒のないこと、花園天皇の子…

後花園はなぜ後花園なのか2

(2019年2月24日追記。『親長卿記』における「以先後之佳躅可為当代之規範歟、而後醍醐院難被准吉例哉」の訳を少し変えています。) (同日追記。ウィキペディアの「諡」の欄に当エントリで紹介した『親長卿記』が取り上げられています。) 諡 - Wiki…

後花園はなぜ後花園なのか

いきなり「ロミオとジュリエット」的(適当)なタイトルですが、「後花園天皇はなぜ後花園天皇なのか」ということを考えたいと思います。 これを理解するためには、前提として諡号(しごう)と追号(ついごう)と加後号(かごごう)の違いを理解しなければな…

『看聞日記』における足利義教ディスについて5

今回は最終回の「将軍犬死」です。嘉吉元年六月二十五日条です。 これ、長いので一部だけの引用にとどめます。 所詮赤松可被討御企露顕之間、遮而討申云々。自業自得果無力事歟。将軍如此犬死、古来不聞其例事也。 これ、私なりの訳をつけるとこうなります。…

『看聞日記』における足利義教ディスについて4

永享九年十一月六日条です。そこでは「悪将軍」という表現が見えます。では前後関係を見てみましょう。 六日、晴、聞。室町殿祗候女中、東御方〈玉川殿御女〉小弁不調事露顕。両人可流罪云々。小弁者被糺問白状申。相国寺僧又行道等密通云々。仍彼等忽被勿首…

『看聞日記』における足利義教ディスについて3

今回は「履薄氷之儀恐怖千万」です。永享九年二月九日です。 原文を挙げておきましょう。 公方三条へ渡御。仍棰三荷、鯉一喉、菱食一遣之。毎度為佳例遣之。西芳寺坊主参。御茶〈廿〉献之。対面給扇。康富参。御読書如例。抑東御方三条へ御共被参。御雑談之…

『看聞日記』における足利義教ディスについて2

『看聞日記』には足利義教の暴政が数多く残されています。貞成親王は義教には散々お世話になっているはずですが、しっかり書かれています。 今日はそのうち「万人恐怖」を取り上げたいと思います。 この言葉が発せられたのは永享七年二月八日条です。原文を…

『看聞日記』における足利義教ディスについて1

意外と人気の高い『看聞日記』。荒ぶる足利義教をしっかりと描いているので義教ファンにとって最高の書物です。満済の『満済准后日記』もあるのですが、なんせ義教は満済の前ではおとなしいですから。また満済もオブラートに包む名人で、なかなか本音を出し…

後花園天皇をめぐる人々ー貞常親王

後花園天皇の弟宮です。 貞成親王と後花園天皇の親子関係というのはかなり複雑だったと思います。『椿葉記』で「実の父母を大事にしなさい」ということを著書一冊丸々使って述べています。しかし後小松院が存命中にそんなことができるはずもなく、そもそも『…

相応院新宮のこと

『看聞日記』に「相応院新宮」という皇族が出てきます。「南方上野宮御子」と割注がついています。永享五年十二月二十日条です。 相応院新宮〈南方上野宮御子〉、自公方侍所ニ被仰付搦申。門主ハ御室ヘ被入申。其間ニ侍所門跡ヘ参取申懸縄云々。御形儀悪物之…

称光天皇の重病に際しての後小松上皇と足利義教の交渉

称光天皇が重病に陥ったのは正長元年七月六日の夕方です。万が一のこともある、と典薬頭の丹波幸基(『満済准后日記』では「行基」)が報告しています。八日には小倉宮(後亀山天皇皇孫)が逐電しました。十一日には管領畠山満家が義教の意向を満済の下に持…

後花園天皇をめぐる人々ー一休宗純

いわずとしれた一休さんです。♪「好き好き好き好き好き好き」の一休さんです。テレビアニメが懐かしいです。 一休が後小松天皇の落胤である、というのはどの程度信ぴょう性があるのか、と言う問題ですが、島津氏のご先祖が源頼朝の落胤である、というよりは…

後白河天皇聖忌の意味

宝徳三年三月十三日は後白河天皇聖忌ということで長講堂で御経供養が行われ、後花園天皇の側近の坊城俊秀(嘉吉の乱の綸旨の奉者)が派遣されています。 どの天皇の記念日を取り上げるか、というのは極めて政治的な意味合いを含みます。そもそも全ての天皇の…

常盤井宮恒興王への親王宣下

宝徳元年十月二十三日、『康富記』には次のような記載があります。 今夜法親王宣下也。勧修寺宮令蒙此宣給。太上法皇之御養子也。実者常磐井宮御子也。元令任大僧都給云々 彼は諱を恒興といい、1431年に直明王の第二王子として生まれ、1509年に遷化…

後花園天皇、やってしまいかける

永享十年のことです。 足利義教が桜の枝を後花園天皇に献上しました。 後花園天皇はそれに対して「御製」(天皇自作の和歌)を贈ります。 すゑとおき 八百万代の 春かけて 共にかざしの はなをみるかな それに対して義教からは次の二首が返ってきました。 す…

嘉楽門院の父親

嘉楽門院は後花園天皇の下臈で、後土御門天皇の生母です。彼女は室町時代のシンデレラです。 藤原孝長という地下の家の娘として生まれた彼女は和気郷成、後にその子の保家の猶子となり、さらに大炊御門信宗の猶子となって後花園天皇に召され、寵愛を受けます…

敷政門院の病

『看聞日記』(かんもんにっき)と言えば、室町時代に関心のある人ならば必ずどこかで関わっているはずの日記です。このブログでもしばしば言及していますが、もう一度復習しておきますと、後花園天皇の実父である伏見宮貞成親王の日記です。しばしば「看聞…

穢について

この年の後花園天皇の生涯については穢(けがれ)の問題が二回出てきます。 閏二月二十七日、軒廊御卜(こんろうのみうら)が行われます。これは吉田社が「五体不具穢」となったためです。 これはネット上ではまた間違いが散見されるのですが、意味は身体の…

後花園天皇をめぐる人々ー足利義政3

足利義政と後花園天皇の関係について、です。 義政が無能だったのはほぼ争うところがないのですが、廷臣としては有能だった、という意見もあります。実際、彼は後花園院政における院執権を務めていたのでその見解は正しいでしょう。 ただ、寛正の飢饉の時に…

後花園天皇をめぐる人々−足利義政2

足利義政に対するイメージって、どんなものでしょう。 無能、無気力、趣味に生きた人、人に抑圧されて自分のやりたいことをできなかった人、文化・芸術を大成した人。 なんとなく義政は政治に関心がなかったようなイメージがあります。 しかしそれは「全部嘘…

後花園天皇をめぐる人々−足利義政

後花園天皇といえばこの人を外すわけにはいかないでしょう。足利義政です。 しばしば無能ぶりが注目される人物です。私は以前その見方はおかしいのではないか、と疑問を持ち、いろいろ調べたことがあります。 結果は・・・ 無能としか言いようがありませんで…