後花園天皇の生涯−正長元年八月
八月
一日、八朔の儀
満済准后日記
四日、称光天皇の遺詔奏。警固・固関・廃朝三日・北野祭岩清水八幡宮放生会延引・釈奠駒牽停止等の宣下、天皇錫紵(しゃくじょ・しゃくちょ)を着す、倚盧下御の儀(倚盧殿の儀)はなし、安楽光院にて称光天皇の初七日、二七日の仏事、兵革の祈禱を行う、称光天皇の遺骨を深草法華堂に納める
薩戒記目録、正長元年八月四日御錫紵記、薩戒記、満済准后日記、続史愚抄
(按)称光天皇の初七日、二七日は四日となっているが、称光天皇の崩御は七月二十日なので初七日は七月二十六日、二七日は八月三日なのに四日になっているのは何らかの事情があったのだろう、としている。後花園天皇の践祚が七月二十八日であることを考えれば、称光天皇は七月二十八日までは生きている、ということにしたのであろう。そう考えれば、初七日が八月四日というのも筋が通る。しかし実際に崩御したのは二十日なのでそこのタイムラグが発生している。後南朝による皇位奪取の動きもある中、践祚が行われるまで称光天皇の崩御は隠さなければならず、践祚が済んでから「実は二十日に崩御してました」ということになったのだろう。桜井英治氏は「称光天皇は息を引き取ったのちも後花園天皇の践祚の日まで十日間にわたり君臨し続けたのである。それは称光天皇がその短い生涯のなかでもっとも天皇らしく振る舞った日々であった」(『室町人の精神』講談社学術文庫、128ページ)と述べている。
七日、安楽光院において公卿・殿上人頓写経
薩戒記目録、続史愚抄
八日、解陣、開関を行う
薩戒記
十日、称光天皇三七日供養
薩戒記
十一日、兵革等の祈祷結願
満済准后日記
十二日、称光天皇仏事結縁経
薩戒記
十四日、月食、祈祷
薩戒記
十六日、称光天皇の四七日供養
薩戒記
十七日、称光天皇の五七日仏事のため、安楽光院で七僧法会、結縁経供養
二十二日、称光天皇の六七日
薩戒記、
二十三日、安楽光院で尽七日仏事、曼荼羅供、この日素服の公卿殿上人に除服宣下