後花園天皇宸翰消息
後花園天皇の宸翰消息です。宸翰とは天皇の直筆のことです。後花園天皇の宸翰消息は散らし書きという特殊な書き方で書かれています。
しかし読みたい現物は宮内庁の所蔵で、国文研のサイトに載せられていますが、思いっきり「禁無断転載」とあります。こんな糞ブログに載せるために宮内庁の手を煩わせるのも申し訳ないので、リンクだけ貼っておきます。
内容を見ておきます。
まことに仙洞の御事、大かたは御心くるしく、きゝまいらせ候ながら、さりともとおほえ候つるに、ふとしたる御事にて御あやなさもたよりなさも一方ならぬ心の中、御をしはかり候へく候よし、よく御心え候へく候。猶々あさましさ中々申ハかりなく候。かしく
後小松院の崩御を伏見宮貞成親王に告げた消息です。永享五年十月二十日のことでした。七月ごろから病んでいたようで、九月二十七日には重体に陥りました。「さりともとおほえ候つるに」というのは、崩御も不可避と考えていた、ということでしょう。
意味は次のようになりましょうか。
まことに仙洞の御事、大方は心苦しく思いましたが、そうだろうともおもっておりましたが、ふとしたことで心もみだれ、頼りなさも普通ではない心の中を推し量りくださいませ。よく心得くださいませ。なおなおいたましさは申すこともできません。
後小松院の崩御を悼んでいるのはわかりますが、その心の中を推し量ってくれ、と注文を付けているような感じが気になります。
この消息については貞成親王の『看聞日記』に出てきます。二十二日条です。
内裏有勅報。天下諒闇事、未定。御荼毘来二十七日也。供奉人等何事も未定云々。
でこの後花園天皇の少しばかり貞成親王への不快感すらにじませる説教口調の消息のなぞは前日の貞成親王の記述を見ればわかります。
後光厳院以来、御子孫四代御治世不交他流如叡慮也。而御子孫断絶。不思議事也。
つまり、後光厳以来子孫四代を天皇の意のままに後光厳院流だけで継承してきたが、子孫が断絶した、思いもよらないことである、と述べています。これについて横井清氏は『看聞日記』(そしえて、1979年)の中で「如何ようにその死を嘆いては見せても、後光厳院流が途絶して吾が崇光院流の世が到来したことへの喜びは、行間に溢れ出す」(272ページ)と述べています。
後小松院も伏見宮のこの反応をあらかじめ予想していたかのごとき遺詔を残します。後小松院の側近で武家伝奏を務めていた万里小路時房の日記『建内記』文安四年三月二十三日条です。
要するに、伏見宮は実父として太上天皇号を宣下してはならない、もし宣下したならば、天下の異変の原因となるだろう。もしそうなれば後光厳院流は断絶するだろう。だから遺詔を出したのだ、ということです。
後小松院は実子の称光天皇と小川宮に先立たれ、残った皇子と言われる一休宗純は早くに皇族から離脱していたため、皇位継承者がいなくなっていました。崇光流の伏見宮貞成親王の第一皇子の彦仁王を急遽即位させたわけですが、その時に後小松院の猶子(財産相続を伴わない養子)として後光厳院流を継承させるという形式をとりました。
後小松院の崩御に際して問題になったのが後小松院の継承者として後花園天皇を扱うべきか否か、という問題です。「諒闇」のことが決まっていないのは、そこの扱いが決まっていなかったからです。もし後花園天皇が後光厳流を継承するのであれば、諒闇(つまり服喪)は必要です。しかし後花園天皇が後光厳院流を継承せず、崇光院流の継承者であることになれば諒闇は不要です。足利義教は諒闇に反対でした。しかし満済が諒闇に賛成したため、最終的に義教は諒闇を受け入れます。義教と貞成親王は後小松院の遺詔に屈したわけです。
後花園天皇は諒闇問題などで暗躍する父の貞成親王のことを苦々しくみていたのではないでしょうか。それは翌年に後花園天皇に宛てた貞成親王の手紙からも伺えます。
こゝもとの事をば、いまは外人のやうに思食めされ候やらんと推量仕候。故院の御座候つる時こそ候へ、いまはしぜんの事は御扶持わたらせおはしまし候て、叡慮に懸られ候べき御事にてこそ候へ。
自分のことを外部の人間にように思っていらっしゃるのではないでしょうか、後小松院のいらっしゃったときならばともかく、いまは普通に私のことを引き立てくださるようにお考えください、
という感じで詰め寄っています。これについては一番最初のところに「可入火中者也」とあり、これが今日残っているのは、案文として貞成親王が手元に残していたからであって、これがそのまま後花園天皇に届いたかどうかは不明ですが、後花園天皇と貞成親王の親子の距離感が気になります。