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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

束帯姿の足利義勝と東アジア

京都の北区に等持院があります。行ったことがないよ、という方はぜひ一度行ってみてください。夢窓疎石の作庭にかかる庭があります。足利義政の茶室があります。足利尊氏の墓があります。そして霊光殿には足利歴代将軍の木像があります。江戸時代には高山彦九郎三条大橋で土下座(皇居遥拝)している人です)が「逆賊!」と罵りながら鞭打った、とか、幕末には首が持ち去られて晒された、とか、いろいろ文化財の破壊行為を受けてきた寺です。

 

今日は七代将軍足利義勝についてみてみます。

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File:Ashikaga Yoshikatsu statue.jpg - Wikimedia Commons

彼は足利義教の長子として、側室日野重子との間に生まれます。父の横死とともに後継に擁立され、赤松満祐を討ち果たして父の仇をとります。もっとも幼少のため、実質的に幕政は細川持之後花園天皇が掌握していましたが。

細川持之はやがて心労からか早世し、畠山持国管領となります。後花園天皇から義勝の名を賜り(歴代室町将軍の先例)、元服を果たします。烏帽子親は二条持基が務めました。

 

生まれつきの将軍後継者としてしっかり帝王学を身につけ、『建内記』によれば利発だったらしい義勝はしかし赤痢に倒れ、わずか十歳(満年齢では九歳)で死去します。等持院に残されたあどけない木像は、九歳の少年の精一杯の晴れ姿を示しているようです。

 

『室町将軍列伝』(戎光祥出版、2017年)の中の足利義勝の項目で榎原雅治氏が興味深い指摘をしています。それは義勝が参内した、という記録がなく、この束帯姿はいつのことだろう、というものです。榎原氏はそれを朝鮮使節を迎えた時としています。

 

この時、つまり嘉吉三年(1443)の朝鮮通信使は正使が卞孝文、副使が尹仁甫、そして書状官が申叔舟でした。申叔舟は後に『海東諸国紀』という日本と琉球に関する書物を著し、死に臨んでは時の国王成宗に「願わくは大国、日本と和を失うなかれ」と遺言したと伝えられる親日派重臣ですが、韓流ファンには「王女の男」に出てくる首陽大君のブレーンと言った方が通りがいいかもしれません。

 

この時の通信使に対する日本の処遇はよくないものでした。将軍(対外的には国王)が幼少であることを理由に入京を拒否しようとしたのです。対面が立たないからです。しかし彼らは前国王の致祭、つまりお悔やみと新国王の慶賀のために来日しているのです。それを対面が立たないからと断るのは、統治能力を疑われても仕方がありません。こういう問題で後花園天皇二条持基は完全にノータッチです。天皇は外国使節と面会できないので、外交には全く関わりません。したがって外交の責任者は管領畠山持国が勤めることになります。

 

畠山持国は有能な政治家ではあったようですが、外交音痴でもあったようです。仕方がありません。父の畠山満家は極めて有能な政治家でしたが、漢文に関する素養がなく、万里小路時房に「文字も知らない」と罵倒されています。また畠山氏は外交の経験がありません。これが斯波武衛家ならば、朝鮮使節の応接経験も豊富でノウハウも積み重ねられているのですが、畠山家にはそのようなノウハウを蓄積する機会はありませんでした。

 

卞孝文は朝鮮国王への復命で日本側の高圧な態度について報告しています。国王義勝との面会後に相国寺で行われた前国王義教の祭礼にあたり、国王は幼少のため参加せず、義勝の代理の畠山持国が対応しましたが、この時に一悶着が起きています。持国が露骨に朝鮮を格下に扱おうとし、反発した卞と論争が起きています。結局飯尾貞連が折衷案を出して収まります。この時、卞が日本と朝鮮は「均敵」つまりカウンターパートナーだと主張したのに対し、持国は「来朝」の関係、つまり格下の国が礼物を捧げて日本に来ている、と主張したのです。

 

朝鮮サイドがこの非礼な対応を、ガバナンスの崩壊と捉えたとしても仕方がありません。実際には義持から義教に変わる時にもあったようですが。これも幕府がガタガタの時ですから、ガバナンスが崩壊していたのかもしれません。少なくとも卞や申からすれば、幼少の国王のもとで右往左往し、外交儀礼もこなせないガバナンス崩壊国家とみえたことでしょう。

 

申は後に世宗・文宗が相次いで崩じ、幼少の端宗が十一歳で即位します。幼少の国王義勝が在位し、権臣持国が権力を恣にする姿を見た申からすれば、極めて危険な兆候に感じたのではないでしょうか。申が若き国王の叔父の首陽大君にかけたのは自然な成り行きでしょう。首陽大君のもとで癸酉靖難が起こり、端宗は廃位のち処刑(賜薬)され、世祖王権が成立するのです。

 

あどけない足利義勝像をみながら、いろいろな想像を膨らませてみました。

 

室町幕府将軍列伝

室町幕府将軍列伝