烏丸資任について
烏丸資任(1417〜1483)という人物について、少し考えて見ました。
京都の人は「からすま すけとう」と読みたくなるかもしれませんが、人名としては「からすまる すけとう」と読むようです。「烏丸」を「からすまる」と読むのは京都人の何かが邪魔をするかもしれませんが、まあそういうものです。「からすま」と読んでいる本も多いですが、少しずつ正しい「からすまる」になりつつあります。
烏丸資任といえば「三魔」として有名です。今参局、烏丸資任、有馬元家の三人に「ま」がつくことから、世の人々は「三魔」と読んで忌み嫌ったとされています。というか、出典は瑞渓周鳳の日記のようです。
今参局は足利義政の乳母、烏丸資任は義政の幼少期の育ての親、有馬元家は奉公衆です。義政が幼少期に関わった人々が中心です。
しかし実際に政治的な実権を握っていたのはむしろ管領の畠山持国であり、義政の母親の日野重子であり、室町殿の代行として戦争の最高司令官を担当していた後花園天皇でした。
今参局はやがて義政の取り巻きが政治に介入することを嫌う畠山持国や細川勝元、日野重子らに憎まれ、最後は非業の死を遂げます。元家は最後は足利義視についたことから義政に憎まれ、赤松政則によって殺害されます。
彼らに比べると資任はおだやかな人生を歩みます。『応仁の乱人物データファイル120』(講談社、2017年)によれば、「さしたる悪評もなければ目立つ功績もない、公家の見本のような人生」とまとめられています。「三魔」という悪評があくまでも瑞渓周鳳から憎まれただけであるならば、このまとめは正しいでしょう。
実は彼は永享の乱の時の足利持氏治罰綸旨の奉者となっています。そして後花園上皇が出家を強行(自ら髻を切りはなったと伝えられる)した時に資任と万里小路冬房がともに出家しています。後花園上皇が大変信頼した側近であり、後花園上皇への傾倒もひとかたならぬものがあったのでしょう。
冬房は補陀落渡海に出てしまいます。
資任の場合、後花園の側近で、将軍継承の可能性が低かった(将軍足利義勝の同母弟)足利義政の育ての親ということで、義政と後花園は昔からなんらかの関係を有していた可能性はあります。ここのところ、少し掘り下げられればと思っています。