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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇は鮭がお嫌いのようです

追記

この記事については論文にしています。『研究論集 歴史と文化』第4号、2019年6月刊です。図書館に入れるようにお願いしたら却下されましたので、図書館にはありません( ;∀;)

下記で入手できます。

historyandculture.jimdofree.com

 

後花園天皇の実父の伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』(『看聞御記』という言い方でも知られる)の永享十年五月二十二日条に次のように書いてあります。

廿二日、晴、公方鮭百、昆布五十把、上様鮭五十、昆布五十進之。(中略)内裏昆布五十把進之。鮭ハ供御ニ不備者云々。仍不進之。

二年前の永享八年五月二十八日には次のように書いてあります。

内裏へ鮭三十、昆布廿把進之。

つまり永享八年には鮭と昆布を贈っていたのが、永享十年には「供御不備」ということで贈らなくなっていることです。宮中が鮭を忌避していたわけではなく、単に後花園天皇の口に合わなかった、ということでしょう。ちなみにこのネタをシンポジウムで発表したところ、佐々木史郎先生がものすごくウケて下さいまして、非常にやり甲斐を感じたものです。

 

この鮭はいわゆる塩引ではなく、干鮭と思われます。北海道産の昆布とセットであることからして、北海道産、それも瀬川拓郎先生の議論に従うならば石狩川流域で大量に漁獲され、加工されていた鮭であろうと考えられます。

 

それが伏見宮家の家産にどのように入ってきたのか、ということですが、まず『看聞日記』に明記されている経緯を辿りますと、後小松院の典侍(すけ、女官のトップで後小松の配偶者)であり、称光天皇の生母であった日野西資子(光範門院) が保有していたものですが、後小松院の崩御後、後小松院と関係の良くなかった足利義教によって没収され、常磐井宮明王に引き渡されました。常磐井宮家は亀山院の子孫です。亀山院−恒明親王−全仁親王−満仁親王−直明王と続いてきています。満仁親王天皇の曾孫という非常に遠い関係になったために本来親王にはなれないはずでしたが、愛妾を義満に差し出す事で親王宣下を受けています。義満の出家に無理やり付き合わされて出家と相成りました。義満のお気に入りだったのですが、その反動で足利義持からは無視され、直明王親王宣下を受けられません(まあ天皇の玄孫ともなればほぼ他人です)。

 

明王一条兼良越前国足羽の領有をめぐって争っていましたが、最終的な裁決は兼良が勝訴しました。これはどう考えても理が一条家側にあったからです。しかし判決を下した義教は大岡裁きを見せ、敗訴した直明王のために鮭と昆布の専売権を与えます。それが光範門院の所有していたものでした。光範門院は義教の大岡裁きの犠牲になったわけです。

 

しかし義教の折角の行為も直明王には通じません。あくまでも一条家の足羽にこだわった直明王は義教の機嫌を損ね、その権益は没収されます。それが伏見宮家に回ってきたわけです。

 

ちなみにこの鮭と昆布の専売権(金額に換算すると5000万円以上)は、持明院統の土地リストには載っていません。どこからもたらされたものでしょう。

 

これについて、ある程度推測できる記事が『建内記』正長元年六月十二日条、十三日条にあります。これによれば、西園寺公名と勧修寺経成の娘の婚姻に激怒した称光天皇が、勧修寺経成の土地を取り上げ、母親の光範門院に引き渡した、ということです。それが義持在世中のことで、義持の死後、経成は義教に土地の返還を訴え出て、それが受け入れられたのですが、義教は光範門院に経成に返却するべき土地の替地を献上しています。これが鮭昆布の専売権ではなかったか、と私は睨んでいます。

 

あと目につくのが昆布一把と干鮭一が等価値ということです。後花園天皇には当初は鮭三十、昆布二十がのちには昆布五十把となっていることから伺えます。昆布はいわゆる「宇賀昆布」で渡島半島で生産されるものだと思われます。もちろん日高の昆布が入っている可能性も否定できません。この点も調べていかないと、とは思っています。

 

以上、後花園天皇からうかがえる北海道の歴史です。後花園天皇は北海道の歴史によく顔を出す天皇です。この点は次に書きたいと思います。

アイヌ・エコシステムの考古学

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追記:ここにも鮭昆布公事について書いています。

sengokukomonjo.hatenablog.com