『満済准后日記』永享五年十月二十三日条現代語訳
廿三日、晴。出京せよと仰せなので目の不調を押して出京した。室町殿に参った。対面。いろいろ仰せの詳細である。
義教「旧院(後小松法皇)のことについては諒闇が当然であろう。旧院の遺勅の勅書を拝見したところ涙が出てきた(棒)。勅書の中身は、後光厳院皇統が断絶しないようによくよく努力してほしい、ということであった。諒闇については実行してほしいというのが本意で、全く頼みにしている、ということであった。もう一つの勅書には追号は後小松院とせよとのことであった。以上二つである。そうである以上、従うしかないとは言い条、後光厳院皇統が永遠に皇位を継承するべきであるが、子孫は不慮の出来事で王子がいないため伏見宮(当今のこと)を猶子として皇位を継承した。ということであれば無理矢理に旧院の後遺勅の通りに後光厳院皇統にしたとしても、当今(後花園天皇)の御ためには神慮に背くことにならないだろうか。どうだろう。」
満済「仰せの条、誠にいわれがないことではありません。しかし当今は旧院の猶子として今の通りになっております。国譲りの恩から見ても、猶子であるという点から見ても、遺勅は非常に重要なものです。諒闇の点はやるよりほかはないでしょう。かつ室町殿様の御ためにも何よりそうあるべきだと思います。というのは、観応年間に光厳院・光明院・時の国主(崇光院)の三人が南朝に連れ去られ、長くその子孫は皇位の望みを立つように誓いの書類を出されました。その後幕府の計らいで後光厳院が安居院にいらっしゃるのを聞き出して皇位につけたのでございます。それ以来公武の契約は特別なものとなりました。そこで鹿苑院(義満)の御代に(崇光院の子孫の)伏見宮家に伝わった文書はことごとく引き取られて旧院に進上されたのです。この計らいもひとえに後光厳流皇統を引き立てるための御計略でした。ことに旧院は執念を燃やされて御遺勅を出されたので、万一違反すれば亡魂の恨みも恐れがないわけではないことを申し上げましたところ、将軍も同意なされました。そうであればどうして後光厳院皇統が崇光院流に対して神慮に対して遠慮するところがありましょうか。仰せの通り、関白(二条持基)と前摂政(一条兼良)に考えを申すように意見を申し遣わすべきでしょう。」