伏見宮貞成親王の御所に足利義教が訪れた話
永享二年十二月二十日、足利義教が伏見宮貞成親王の元を訪ねました。
伏見宮貞成親王は後花園天皇の父親です。しかし後花園天皇は院政を敷いている後小松上皇の養子ということで皇位を継承しているので、貞成親王は天皇の父親という扱いは受けていません。宮家の当主です。
当時の宮家の当主の地位は将軍家よりは下になります。いわゆる尊号一件を考えればわかりますが、あれも閑院宮家から皇位についた光格天皇が、父親の典仁親王が叔父の鷹司輔平よりも座次が下であることに不満を募らせ、父親に太上天皇号を与えようとして幕府と対立した事件です。貞成親王もそういう意味では将軍の御成を迎えるのは最高の栄誉と考えていたとしても不思議はありません。
この時は非常に盛況で、勧修寺経成が泥酔して室礼の屏風に「及当座之会〈広橋屏風ニ飯吐突、懸広橋可濯之由一興也〉」ということもありました。これを現代語訳すると食事中の方には申し訳ないのでこのままでいきます。
足利義教が帰るときに事件が起こります。
義教が人々にお酌をすると席を立ちます。貞成親王も縁側に出ます。義教が沓脱を降りたとき、貞成も庭に降りてしまいます。義教が恐縮した様子で礼をしたので、貞成はあわてて堂上に上ります。貞成親王は武家伝奏の広橋親光(のちに広橋兼郷と改名)と勧修寺経成とあらかじめ庭に降りないことで話ができていました。それは当然足利義教の意向が強く働いていたのでしょう。逆に言えば、貞成親王が庭に降りることはそれほど不自然なことではなかったのです。
しかし義教からは経成を通じて「退出時に庭にお降りになりましたが、その礼節はよろしくありません。今後はなさらないように」と注意がありました。
なぜ義教はそこまで神経質になったのでしょうか。
桜井英治氏は「秩序や身分が安定してくると人は相手を立てることを覚える」として、成熟した社会における将軍の抑制された姿勢を強調しています(『贈与の歴史学』中公新書)。
贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ (中公新書) [ 桜井英治 ]
私はむしろそこに貞成親王の位置付けをめぐる綱引きがあった、と考えています。
周知の通り、後花園天皇は貞成親王の実子で、崇光院流皇統に連なります。しかし後小松上皇の意志は、あくまでも後光厳流皇統を継承させることにしたいわけです。後小松上皇及びそれを支えた足利義持を否定したい義教としては、貞成親王を後花園天皇の父親と位置付けたい、と考えたとしても不思議ではありません。義教のこの意志は後小松院崩御後の諒闇をめぐる議論で露骨に現れます。このとき貞成親王と義教は固くタッグを組んで後小松院の諒闇を否定する動きを見せます。しかしその動きは一条兼良や万里小路時房、三宝院満済らに阻止されます。満済の死後、義教は後小松院の仙洞御所を、院の遺言に背いて貞成親王に進上してしまいます。
このことから考えると、義教と貞成親王は、後光厳流皇統を断絶するために連携して動いていたことがわかります。しかもその動きを先に仕掛けたのは義教のようです。貞成親王が天皇の父親という立場を強く意識しだすのはこのあとと考えられるからです。
貞成親王を足利義教の上に位置付ける動きを、義教が強く要請していたという事実は少なくともこの動きから見て取れます。貞成親王がややこしい立場でないならば、「相手を立てる」という単純な説明でも十分でしょうが、貞成親王の置かれた立場は、そのような単純なものではありません。彼を天皇の父と位置付けるのは後光厳流皇統の断絶に繋がるのです。何よりも後小松院自身がその危険性に敏感で、遺言で貞成親王に天皇の父親待遇を与えないことを強く要請し、それが守られないと後光厳流皇統が断絶すると訴えているのは、貞成親王の立場が持つ複雑な意味合いをはっきりと示しています。
堂上から室町殿足利義教を傲然と見下ろして見送る貞成親王という図は、貞成親王が義教の上に立つ、という図式を可視化します。貞成親王が義教を見下ろせるのは、貞成親王が天皇の父親であるからです。義教は「秩序や身分が安定して」きたから貞成親王を立てたのではありません。皇統を付け替えるプロジェクトだったのです。