羽賀寺縁起に後花園天皇が出てくる理由について
中世北方史をやっている研究者にとって一番目にする天皇は後花園天皇でしょう。というよりも後花園天皇以外の天皇を目にすることはほぼないと言って過言ではありません。
『東日流外三郡誌』にも出てきます。『北部御陣日記』にも出てきます。これらは以前ネタにしました。
まじめな話をしますと『羽賀寺縁起』に出てきます。後花園天皇が十三湊の日之本将軍安倍康季に命じて若狭国小浜の羽賀寺を再建させた、というあれです。
これを証拠として十三湊還住説を唱える研究者も多いです。十三湊還住説についてはどう考えても成立しないことを近いうちに出す論文で示します。
これについては、室町幕府と南部氏の関係について、安藤氏よりも濃密な主従の関係を獲得していたために、それを補完するべく、天皇からの再建命令をとったものと解釈することができる、とする黒嶋敏氏の議論(「室町時代の境界意識」『歴史評論』767、2014年)にはいささか疑問が残ります。足利義教が少なくとも安藤氏の要請に応じて和睦に動いていることは事実ですし、義教が御内書を出すのを渋ったのは、安藤氏よりも南部氏の方により濃密な主従関係を結んでいたからではなく、南部氏にガン無視されたらメンツが立たないからです。何よりも南部氏の顔を立てるために安藤氏には天皇の命令、ということにした、というのは、なぜそこまでしなければならないか、という疑問を禁じえません。
黒嶋氏は『羽賀寺縁起』に後花園天皇が出てくる理由を説明しようとして以上のような説明を行なっているのですが、確かに後花園天皇が出てくる理由については不明確でした。
しかし今日、だらだらと『福井県史』通史編を読んでいますと「禁裏御料小浜」という話が出てきました。
実はこれ、何度も読んでいたのですが、なんとなくダラダラと読んでいたので、頭に残っていませんでしたが、小浜が禁裏御料であれば、禁裏御料の寺の修理の命令主体は室町殿であるよりは勅命による方が自然です。よしんば実際の決定権が室町殿にあろうとも、です。というより、実際の決定権は室町殿にあるのは自明ですが、名義上後花園天皇の勅命という形が自然だったわけです。
私がこれを見落としていた大きな理由は、小浜が長講堂領や室町院領といった持明院統の所領群に入っていないからです。だから小浜が禁裏御料である可能性を頭から排除していました。先入観が邪魔をしていたわけです。恥ずかしい話です。
しかし若狭国松永荘は小浜の東にあり、羽賀寺にも近いところにありますが、そこは室町院領で、伏見宮貞成親王の所領になっていました。貞成親王は鮭・昆布公事を管理しており、北海道とはつながりがあります。貞成親王が管理していた鮭は、干鮭で、瀬川拓郎氏が指摘するように、石狩川で漁獲され、現地で加工されたものでしょう。
伏見宮家の鮭・昆布公事は、私見では北条得宗家から足利家を経て、足利義持の判決をひっくり返した足利義教によって、その裁判の既得権者である光範門院に替地として献上され、後小松院崩御後に義教によって取り上げられ、常磐井宮を経て伏見宮に伝領したものですが、小浜は後小松天皇から称光天皇への譲位前後に禁裏御料に編入されたもののようです。この経緯についてはもう少し詰めたいと考えています。なにせ『小浜市史』を読み直す必要がありますが、手元にありませんので。