後花園天皇、綸旨を取り消される
「綸言、汗の如し」という言葉があります。綸言とは天皇の言葉、汗の如し、というのは汗のように一旦出たら取り消したり訂正したりできないもの、という意味です。
為政者が自分の言った言葉を簡単に翻して、全く恥じなければ、為政者の言葉に重みがなくなり、民は拠る術を失います。だからこそ為政者は軽率な発言や、その訂正を慎まなければなりません。
で、本題です。後花園天皇が出した綸旨が、まさに取り消されてしまうということが起こりました。まあ後醍醐天皇は『太平記』では「かくばかり 垂らさせ給う 綸言の 汗のごとくに などながるらん」と皮肉られています。綸言が汗のように流れてしまう、ということです。後醍醐天皇は程なく政権の座から滑り落ちます。
しかし不思議なもので、重いはずの為政者の言葉が訂正されても、その責任を問われない無敵の人がいます。そうです。我らが後花園天皇です。取り消したのは誰か、といえば足利義政です。
あの、長禄・寛正の飢饉の時に民の苦しみも顧みず、御所の造営にかかりっきりになっていたあの無能な義政に、義政に漢詩で諷諫を加える英邁な天皇が、綸言を取り消されるとは!(『長禄寛正記』限定)あの、蠣崎蔵人を北海道に追い落とした南部政経を宮廷に読んで涙を流しながら感謝の意を述べたあの英邁な天皇が、政経の挑発にビビってしまったヘタレの義政に!(『東北太平記』限定)
問題の綸旨は東島誠氏にも「この綸旨もおかしなもの」と一刀両断にされています(『公共圏の歴史的創造』二〇〇〇年、東京大学出版会、一七七ページ)。
取り消されるのもやむを得ないかもしれません。
これは幸いに『東寺百合文書』入りしています。現物を見て見ましょう。
では例によって翻刻を挙げておきましょう。
神泉苑池外荒野二条以南
三条以北大宮以西壬生以東
〈但除池北面十丈同東面〉可令管領給之由
天気所候也、仍執達如件
長禄三年四月廿三日 左中将在判
謹上 中御門菅二位殿
読み下し文です。
神泉苑池の外の荒野二条以南、三条以北、大宮以西、壬生以東〈但し池北面の十丈・同東面を除く〉を管領せしめ給うべきのよし、天気候所なり、よって執達件の如し。
長禄三年四月廿三日 左中将(庭田雅行)在判
謹上 中御門菅二位殿(唐橋在綱)
これは唐橋在綱が、困窮を理由に神泉苑の池以外の場所の拝領を願い出て、それが許可されたものですが、「池=祈祷在所は侵害していないという理由で、結局唐橋家の主張が容れられてしまう」(東島同書p177)のです。その背景には「禁苑なのだから荒野は天皇が自由に処分できる、ということなのであろう」(東島同書p178)という考えがあるようです。
しかし「荒野」に成り果ててるとはいえ、一応「禁苑」である(あった)神泉苑をあっさりお気に入り(かどうかも定かではない)唐橋在綱に、ポンっとやってしまうのは、いささか乱暴な気がしないでもありません。この点の統治者意識の高さは後花園天皇に限ったものではなく、後円融・後小松・称光と続いている後光厳流皇統のお家芸です。後光厳流の統治者意識の高さ(ざっくりいえばウエメセ)は後光厳流の成立事情からくるコンプレックスがあり、後花園天皇の場合、崇光流のコンプレックスもあって、双方を継承する後花園天皇としては、そういう面も受け継いでいる、といえそうです。
で、神泉苑の管理者であった東寺としては「これは捨ておけん」ということで裁判に訴え出るわけです。
これはあっさり唐橋在綱が敗訴するわけですが、その結果、在綱に権利を付与していた後花園天皇綸旨はあっさり紙切れと化すわけですが、その判決文は次回。