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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー足利義教

後花園天皇をめぐる人々、今回は足利義教です。

 

言わずとも知られた籤引き将軍。このくじ引きについてはヤラセ説も根強いですが、多数説はヤラセではないとされています。私も多数説に従いたいと思います。

 

足利義満の五男として生まれています。生母は足利義持と同じ安三宝院の坊官安芸法眼の娘の藤原慶子です。数え年十歳で青蓮院門跡に入室し、五年後に得度して義円と名乗り、門跡の地位につきます。同日に異母弟の足利義嗣が梶井門跡から取り戻され、足利義満の有力後継者となったことと関連づけられることもありますが、私は無関係であったと思います。

 

准后、天台座主、大僧正と順調に出世を遂げていますが、実は兄の義持と対立して逐電したこともあるなど、波乱含みの様相でもあります。

 

僧侶としては非常に優秀だったようで、将軍になってからも頭脳明晰であることはおそらく歴代の将軍でもトップクラスと言えましょう。それだけに訴訟にも一々介入せざるを得ず、さらに諸大名の合意形成にも一々自らイニシアティブを取ろうとするところがあり、彼の将軍職としての生活は極めて多忙であったと思われます。そのストレスが彼の精神疾患を悪化させた、とする議論もありますが、私は彼が精神疾患であったとは思っていません。人格に問題があった、とは思います。畠山満家三宝満済のような、いわば「じい」が側について抑えてくれれば、そのエキセントリックな性格もスパイスとしてうまく機能します。特に満家のように「無為」(無為無策という意味ではなく、平穏という意味)を重視し、ある意味面白みに欠ける(義教に「事始」つまり決まり切ったことしかやらない、と酷評されています)政治家が抑制してくれれば、非常にうまく回るのですが、満家の死後、ブレーキ役がいなくなり、本来ブレーキ役であるべき管領が政治経験に乏しい細川持之(当時三十代前半と若い上に、兄の急死で急遽細川京兆家を継承したため)であったため、壊れたブレーキとなって、義教を抑制することができません。それが嘉吉の乱につながっていくわけです。

 

彼は執念深くて残虐な人物として知られています。天皇家との関係で言えば、還俗当初に後小松院に受けた仕打ちを終生忘れることはなかったでしょう。自分の意に反した人間を許すことはありません。どんな権威があろうとも、自らの意にそぐわない人物は確実に排除します。この点、織田信長に似ていると言われますが、信長の実像はそんなにエキセントリックでもなければ残虐でもなかったようです。

 

後小松院が問題のある人物であることは前のエントリで説明しました。相手の足元をみる意地悪な人物ではあったようです。義教はそれを根に持ち、後小松院の全てを否定しようとします。

 

まず後花園天皇の御禊行幸に、後小松院を誘わず、貞成親王を誘います。義教にとって貞成親王は後小松院に嫌がらせをするための格好の道具でありました。ことあるごとに義教は貞成親王を持ち上げます。義教が勤皇であった、とか、礼儀を守る人物であったとかいう話ではないと思います。後小松院が嫌がることであればなんでもする、というのが義教の方針だったと考えています。

 

後小松院の死後に義教の復讐は本格化します。義教にとってノーサイドというような爽やかな感情は無縁です。後小松院本人の名誉と残された関係者を徹底的にいたぶらなければ義教の気持ちはスッキリしません。

 

まずターゲットになったのは、後小松院の院執権であった日野有光とその一門です。日野家は重子を除くとパージされます。重子が残った理由はわかりません。後小松院の典侍称光天皇の生母であった光範門院日野西資子は所領を没収されます。理由は義教が光範門院のことを「不快」と感じたからです。その所領である鮭昆布公事は最終的に伏見宮家に進上されます。光範門院の薨去に際してはもはや諒闇とはなりませんでした。

 

後小松院の遺言は踏みにじられます。後小松院は貞成親王が自らの仙洞御所に入居することを認めない旨、言い残していました。しかし義教は建物を移築して貞成親王を入居させた上で、仙洞御所の敷地を伏見宮家に進上してしまいます。これは想像でしかありませんが、義教のターゲットは貞成親王への太上天皇号だったのではないでしょうか。最終的な義教のゴールは、後光厳皇統をつぶして崇光皇統を「正統」(しょうとう)とすることだったのでしょう。結局肝心の後花園天皇が後光厳皇統を「正統」とみなしたために義教の復讐は完成することはありませんでした。もっとも現在の皇統譜を見る限りでは崇光皇統が現在まで続いています。これは貞成親王に養育され、元服の時にも一字を貰い受けて「成仁」(ふさひと)と名乗った後土御門天皇の存在が大きいのではないか、と現時点では予想しています。全く検討していないので、数分後には考えが変わる可能性があります。

 

足利義教はほとんど全ての人間から怖がられていました。貞成親王も、自分をやたら立ててくれる義教には感謝していましたが、義教の意向を非常に気にしていました。義教から定期的に贈り物があるのですが、それが途絶えるとパニックを起こして北野天満宮に祈祷するほどでした。気まぐれで酷薄で残虐で執念深い義教のことですから、いつどこで自分がやられる側になるか、天皇の実父である貞成親王でも気になるのです。義教には天皇の実母であっても一旦理不尽な恨みを抱いたら、徹底的にやらないと気が済みません。義満の側室であっても自分の意に背いたら「今度の儀超過」(今回はやりすぎたな)とキレて所領を没収した上、住居も奪っています。

 

後花園天皇だけは義教を慕っていたようです。

 

嘉吉の乱の時に、幕府の要求に応じて綸旨を発給するように積極的に動いたのみならず、自ら文章を起草するほど気合が入っていたのもその表れでしょうが、和歌の贈答でも義教のことを「君」と言ってしまって物議を醸しています。

 

一天万乗の君が、家臣に過ぎない義教のことをこともあろうに「君」と呼んでしまったわけで、貞成親王をはじめ周辺の知識人たちが協議した結果、「グレーゾーン」として処理しています。つまり間違いとは言えない、とした上で、義教に下賜された和歌は「君」をつけないように変えられています。