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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー嘉楽門院

後花園天皇をめぐる人々、本日は嘉楽門院藤原信子です。

 

ざっくり言うと後花園天皇の愛妻です。

 

出自が宮廷に上がることが考えられないほど低かったとされています。『管見記』には噂として地下の楽人の娘というのが書き留められていて、それがのちに事実である、と分かるということが書かれています(松薗斉「室町時代禁裏女房の基礎的研究」『人間文化』31)。

 

非参議和気郷成の猶子となって、一応貴族の子と言う対面は繕いましたが、最終的に清華家の大炊御門信宗の猶子となります。

 

松薗氏の見解に従えば、地下の楽人藤原孝長の娘を和気郷成の猶子として入内させ、後花園天皇との間に永享六年に第一皇女を、嘉吉二年に第一皇子を産みます。後花園天皇より八年年長で、第一皇女を産んだ時は二十四歳、後花園天皇は十六歳となります。

 

彼女の産んだ皇子女は伏見宮家で養育されます。もっとよい家柄の女房に皇子が誕生することが期待されていたからであろう、と松薗氏は指摘します。従いたいと思います。

 

実際彼女以外には日野秀光の娘の大納言典侍がいまして、皇女を一人産んでいます。大納言典侍禁闕の変の時に、伯父の日野有光に襲撃され、持ち出そうとした剣璽を奪われるという目に遭っています。日野有光の娘で後小松院の時から宮廷に使える女房であった権大納言典侍はもっと悲惨で、変後に逐電しています。

 

後花園天皇の皇子は結局一人だけで、彼が長禄元年に親王宣下がなされ、成仁(ふさひと)と名乗ることになり、事実上皇太子として扱われることになります(これを儲君、もうけのきみ、ちょくん、と言います)。そうなると和気氏の娘では箔がつかないので、この時に大炊御門家の猶子になったと松薗氏は考えています。

 

後花園天皇外戚ですが、日野家から和気氏に変えた、というような議論は成り立たないと考えます。信子の存在は、当時の朝廷ではかなり変則であり、彼女はいわゆる政治的背景では語り得ないのではないか、と考えています。私の個人的な意見というか、思いつきですが、後花園天皇の個人的な感情で、彼女は一気に国母にまで駆け上がったのではないか、と思います。外戚政策ということを一切すっ飛ばしてしまった、という感じではないでしょうか。

 

外戚政策を考えるならば、断絶した日野家の大納言典侍がずっと宮中にいたのであり、その分家である裏松家などの後押し、あるいは広橋家など日野流の名家層の貴族を押せばいい訳ですし、また三条実量の娘の三条冬子も入内していますから、こちらに皇子が生まれれば、外戚も安定します。もっとも冬子は後花園天皇より二十年以上年少で、皇子の成仁親王とタメですから、後花園天皇の皇子を産むのは意外と厳しいかもしれません。というのも、後花園天皇はあまり頑健であったようには思われないからです。

 

後花園天皇の健康状態は、健康体そのものの両親には似ないで、病気の記録が目立ちます。嘉吉以降は政治の表舞台に躍り出てストレスもたまっていたでしょうし、命をガチで狙われるという、天皇にはほとんどないストレスを背負いこんでいます。本人からすれば皇子をもっと産め、生産性を高めろ、という要求は過酷だったかもしれません。

 

ともあれ、後花園天皇が生ませた唯一の皇子が嘉楽門院の所生であったことは、後花園天皇以外の宮中の人々には想定外だったでしょう。後花園天皇の計算通りだったのではないか、と思っています。推測ですが、後花園天皇は彼女を大変愛していたのではないでしょうか。

 

後花園天皇は成仁親王に譲位します。後土御門天皇です。後土御門天皇の生母として彼女の地位は上昇します。

 

と言いたいところですが、なかなか門院号はもらえません。彼女が七十歳を過ぎて危篤に陥った時に、後土御門天皇の要請もあったのでしょう、ようやく嘉楽門院の称号を与えられました。この時彼女は門院号の甲斐あってか、快復し、七十八歳の長寿を全うします。

 

ある意味、シンデレラストーリーを歩んだ女性と言えるでしょう。