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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

文正元年の政情不安について

後花園院政が開始されてしばらくすると世情不安が訪れます。

文正元年(1466年)には近衛家では累代の記録類を岩倉に避難させています。これが結果的に当たり、近衛家は記録類を消失させずに現代にまで貴重な記録類を伝えてくれたのです。

 

一条家では一条教房大和国興福寺疎開しています。弟の興福寺大乗院門跡の尋尊を頼ったのです。ちなみに、のちに父親の一条兼良がやってきたため、教房は土佐国に行き、土佐一条氏の祖となります。

 

このように文正元年にはすでに応仁の乱の兆しが現れていたのですが、その後の経過を知っている我々はどうしても細川勝元山名宗全を対立的に描き出したくなりますし、そこを震源地としたくもなります。しかし研究の現段階では、細川勝元山名宗全の対立は乱の勃発の直前であるとされていますし、まして日野富子が自らの生んだ足利義尚を将軍につけたくて山名宗全を頼った、という『応仁記』に由来する話は今日ではほぼ否定されていると言っていいでしょう。

 

したがってこの段階で政家らが心配していたのは将軍家の後継者争いや細川vs山名という対立関係ではありません。彼らの目に映っていた未来の可能性とはどのようなものだったのでしょうか。

 

『後法興院記』にはこのころ、「武衛」という記述が出てきます。「武衛」というのは斯波氏のことです。この直前に「筑紫武衛」が「武衛」を継承したという記述が見られ、そこから世情不安が加速していくような書き方をしています。

 

「筑紫武衛」とは斯波義敏のことであり、義敏が当時武衛家の当主であった斯波義廉に代わって武衛家当主についたことが震源だったようです。

 

これは足利義政の主導ですが、義政の背後には伊勢貞親がいました。そもそも武衛家は20年以上不安定な状況でした。

 

ここで武衛家と呼ばれた斯波本家について少し述べておかなければならないでしょう。

 

斯波氏の祖の家氏は鎌倉時代足利泰氏の嫡子でしたが、母親が名越北条氏の出であったために、得宗家の女性を母に持つ頼氏に家督を替えられました。

 

四代目の足利高経は建武の新政越前国守護になり、足利尊氏の離反に伴って彼も南朝と戦い、新田義貞を討ち取る戦功を挙げています。尊氏の死後には若い義詮を助けて幕政を掌握します。細川清氏の失脚に伴い執事に就任して幕政を左右した高経ですが、「執事になることは我が家の疵である」と言い放ったと言われています。結局幼少の義将を執事に据えてその後見をするという形で幕政に参画します。

 

五代目の義将(よしゆき)の時に足利の名乗りをやめて「斯波」という名乗りに変えています。高経失脚後台頭した細川家との対立を経て六代目の義重までは幕政に重きをなしていましたが、七代目の義淳の代に関東公方をめぐる問題で足利義教と対立し、また斯波家の領国が越前・遠江尾張と関東方面に偏っていたこともあって、幕府内の地位を下降させていきます。しかもこのころには大名の長老であった畠山満家・山名時熙・三宝満済による合議が力を持っており、彼らに比べて若かった義淳にはついぞ機会が訪れることはありませんでした。

 

義淳は嫡子に先立たれ、弟の持有を後継者に指名していましたが、義淳の死後、義教は「器量ではない」として僧籍に入っていた弟を還俗させ、義郷とします。これは武衛家への介入とされますが、私は疑っています。というのは持有は義教のお気に入りだったわけであり、義郷が継承した後も持有は活躍しています。私の見立てはこうです。

 

義淳「私の死後は持有に・・・」_(:3 」∠)_

義教(え〜、あいつ、確かにおもろいヤツやけど、武衛家を統率できるような人間的な重みというもんがなぁ)

義教「器量の仁にあらず。というわけで斯波家を継承するのは相国寺の瑞鳳な」

 

しかし義郷は事故死して息子の義健が継ぎます。持有が後見役として活躍しますが、持有も若くして死に、その後継として分家の大野斯波氏の持種が後見役になります。持種の嫡子が義敏です。義健も早死にして義敏が武衛家を継承します。

 

斯波武衛家の動向だけで随分長くなりましたので続きは分けます。