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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

文正元年の政情不安について2

応仁の乱の直前に起きた政情不安についてですが、震源地が斯波武衛家であるらしいことは前回少し書きました。

 

若くて当主が次々と死んでいった斯波武衛家ですが、若い当主の後見として一門の大野斯波家から斯波持種がやってきますが、もう一人後見していたのが重臣の甲斐将久(ゆきひさ)です。当時は出家していて常治(じょうち)と名乗っていまして、こちらの名前の方が有名です。

 

この両者の対立が色々な問題を引き起こします。

 

まず一つ目が足利義政の寺社領不知行地還付政策をめぐる争いです。こういう長い漢字が続く言葉を覚えさせられたトラウマが歴史嫌いを作るのはよく理解しています。わかりやすく言えば、守護領国にある寺社領の中で寺社が支配できなくなってしまっている土地における寺社の権益を保護せよ、という命令です。これで不利益を被るのは、寺社領を実効支配していた国人です。この問題では甲斐常治は義政の政策を推進する立場にあり、この政策で不利益を被った国人は常治と対立する義敏を頼り、両者の亀裂は深まります。義敏は義政に常治の驕慢を訴えますが、そもそも義政の命令をがん無視している義敏の訴えが取り上げられる可能性はなく、逆に義敏は義政の恨みを買って失脚します。

 

このころ関東公方足利成氏が義政と対立します。享徳の乱と言います。これで義政はとりあえず斯波義敏と甲斐常治に出陣を命じますが、義敏は何を血迷ったか、常治を攻撃します。ブチギレた義政は義敏を追放します。

 

義政はいいことを思いつきました。成氏に代えて自分の兄弟を関東公方にすればいいのです。出家していた庶兄を還俗させ、政知と名乗らせて関東公方にします。堀越公方といいます。後見には渋川義鏡(よしかね)がつきました。

 

問題があります。渋川義鏡は守護ではないため、軍事力に不安があります。そこで義政はまたいいことを思いつきました。義政はおそらく「オレ、天才的だな」と思っていたのではないでしょうか。彼は義鏡の子どもの義廉を斯波武衛家の当主にすることを思いついたのです。これで斯波武衛家の武力を効率的に関東に振り向けることができます。

 

しかし義政の思いつきはうまく行きませんでした。京都からやってきた関東公方に上杉氏などが反発、さらに古河に逃れた成氏との戦いは泥沼化し、義政は義鏡や義廉を遠ざけるようになります。義廉は思ったのではないでしょうか。「あれ、これオレが悪いのか?」と。

 

義敏はこれを狙って伊勢貞親らに復帰工作を仕掛けます。これが功を奏して義政は義廉を引き摺り下ろし、義敏を武衛家家督に復帰させます。これは山名宗全細川勝元連合と結びついた斯波義廉に代えて義敏を引き立て、斯波家を山名ー細川連合から引き剥がす意図があったと考えられています。

 

しかしこれには山名ー細川連合の反発が当然予想されます。ここでの対立軸は将軍側近派と細川ー山名連合となります。近衛政家一条教房が恐れたのは、山名宗全細川勝元の対立などではなく、ましてや足利義尚を推す日野富子山名宗全が、足利義視を推す細川勝元と対立する未来像でもありません。特に後者は『応仁記』において富子を悪者にしたい意図で作り上げられた虚像とされています。彼らが恐れたのは、将軍およびその側近と、細川ー山名連合が正面衝突する事態だったのではないでしょうか。

 

彼らの恐れは荒唐無稽ではありません。山名宗全足利義政を排して足利義視を擁立する構想があったと言われています。播磨国をめぐって競合するリスクのある赤松政則による赤松家再興を認めた義政および側近集団に対して宗全の不信は頂点に達していました。

 

ただここで宗全は義廉と連携を強めたことで、勝元との関係が微妙なものになって行きます。義廉は畠山義就(よしひろ)と連携していましたが、宗全と義廉の連携は、畠山義就と対立する畠山政長と連携する勝元との連携を犠牲にしかねないリスクを背負っています。細川ー山名連合の弛緩と、将軍側近勢力の勃興、そして両者の対立、これが当時の不安定要因であり、それが露骨に現れ、政治的危機にまで高まったのが、斯波義敏家督復帰と斯波義廉の失脚だったのでしょう。

 

この結末はあっけないものでした。

 

将軍側近勢力はここで勝負に出ます。足利義尚を養育している伊勢貞親をリーダーとする側近勢力は、足利義視の排斥に乗り出します。貞親は義視が謀反を企んでいる、と義政に告げ、殺害することを求めます。義視は勝元を頼り、勝元は宗全と組んで義視を弁護し、将軍側近の伊勢貞親と季瓊真蘂の追放を要求し、合わせて斯波義敏赤松政則ら貞親と季瓊真蘂によって登用された人々も失脚します。これを文正の政変と言います。

 

一旦は義視が将軍代行になって細川勝元山名宗全による後見のもと、幕政を執る体制が作られますが、急激な変化をよしとしない勝元は義政と講和して義政の幕政復帰という形をとります。

 

おそらくここで事態は落ち着いた、とみられたはずです。これまで延期されていた後土御門天皇の大嘗会はこの年の十二月十八日に挙行されます。

 

結果的にはこれが中世最後の大嘗会となります。

 

花園上皇後土御門天皇の大嘗会を挙行してホッとしていたであろうまさにその時、大きく歴史が動きます。

 

宗全が畠山義就の支持に動きます。これは二十年以上続いた細川勝元との連携を解消することを意味していました。勝元との連携を維持することで宗全は幕府のナンバーツーの地位を確保することはできますが、所詮は勝元の後塵を拝することになります。安定を求めるタイプの人物ならばそれでもよかったのでしょうが、宗全は自らがトップに躍り出る方を選びました。

 

義就は義政の許可を得ずに上洛し、義政は当初激怒しながらも、宗全・義就らによる軍事的圧力に負けて政長を罷免し、義就を支持します。いわば軍事力による政権奪取です。政長は武力で抵抗する道を選び、政長と義就が対決する御霊合戦が行われます。これで義政は介入を禁じ、勝った方を支持する姿勢を見せますが、これに正直に従った勝元に対し、宗全らは義就に加担し、政長は没落して勝元に匿われることになります。

 

ここで『公卿補任』には後花園上皇の治罰院宣が義就に下された、という記述があります。『後法興院記』にはみられないので少し慎重に扱う必要はあるかな、とは思いますが、もし本当だとすれば大失敗です。これについては少し検討してみます。