小倉宮からの献上品
永享七年八月二十五日のことです。
『看聞日記』に次のような記載があります。
以上の短い文言ですが、「南朝小倉殿」とは、後亀山天皇の孫の小倉宮聖承です。後花園天皇の践祚の前後に伊勢に出奔し、北畠満雅の乱に加わったのち、帰洛して、王子を義教の猶子に入れ、義教の一字を拝領して教尊と名乗らせ、勧修寺に入室させます。この段階で小倉宮家は断絶が決定していたので、彼らは永享六年に決定した南朝の子孫の断絶策の影響は被っていません。ただ生活には困窮していたようで、この時には本人も海門承朝(長慶天皇皇子で南禅寺133世、相国寺30世)を戒師として出家していました。ただそれでも生活は厳しかったのか、家宝を足利義教を通じて後花園天皇に寄贈することで、その返礼を狙ったのでしょう。
このような状況は南朝の皇胤に限ったことではありませんでした。伏見宮家でも家に代々伝わる柯亭という笛を後小松院に献上して何とか宮家の存続を図っています。小倉宮家の場合はとっくの昔に断絶は内定していましたから、宮家の存続ではなく、当面の宮家の財政を支えるための工面でしょう。
この日は後花園天皇の笙初の日であり、故後小松院の仙洞御所の取り壊しが始まった日でもあります。後小松院は仙洞御所に崩御後に貞成親王を入れることはまかりならん、と遺詔を残していました。義教はその遺詔に明確には違反しないために、仙洞御所を取り壊してその建物を貞成親王に献上して伏見宮家の御所を造営した上で、仙洞御所の跡地を貞成親王にこれも献上してしまいます。後小松院の遺詔は完膚なきまでに踏みにじられたわけです。義教の後小松院への意趣返しでしょう。