常盤井宮恒興王への親王宣下
宝徳元年十月二十三日、『康富記』には次のような記載があります。
彼は諱を恒興といい、1431年に直明王の第二王子として生まれ、1509年に遷化しています。常盤井宮家は亀山天皇の末子の恒明親王の子孫です。恒明親王は亀山院が寵愛した皇子で、亀山院は後宇多院に後二条天皇の子である邦良親王ではなく恒明親王を後二条天皇の皇太子にするように命じますが、そのような無茶がいつまでも通るわけはありませんでした。大覚寺統の分裂を招きかねない亀山院の動きに後宇多院への反感を持っていた持明院統の伏見院も乗っかりましたが、幕府は流石に大覚寺統の分裂がより混迷を招くと見て同意せず、尊治親王(後醍醐天皇)が立太子し、恒明親王の登極への夢は絶たれます。
常盤井宮家はその後も順調に推移しますが、当時の宮家は世襲が前提ではないために、それなりの苦労をします。三代目の満仁親王は自らの愛妾を足利義満に差し出してなんとか親王宣下を勝ち取ります。この辺の世襲親王家の問題も掘り下げればいろいろ面白そうです。ちなみに『研究論集 歴史と文化』第3号所収の曽我部愛氏の「鎌倉期王家における皇統の断絶と在俗皇子について」は必読でしょう。
sites.google.com直明王はさらに悲しい人生です。彼は越前の所領をめぐる裁判で一条家に敗北します。ところが世の中には優しい将軍様がいらっしゃって、敗訴して土地を取り戻せなかった失意の直明王に北海道の鮭・昆布の京都における専売権を献上します。ちなみに現在の貨幣価値に換算すれば年間5000万円相当です。太っ腹です。しかしその優しい将軍様の皇室愛あふれる処遇に不満を述べたて、さすがに優しく心の広大な将軍様もキレてその専売権(年間5000万円相当)を取り戻し、それを伏見宮家の与えてしまいます。ちなみにこの心の広大で優しい将軍様はこの人です(下図)。
この尊皇心あふれるやさしい将軍様はどこからこの専売権を持ってきたのでしょうか。答えは先年崩御した後小松院の典侍であった国母の光範門院です。尊皇心が急速に薄れているような気がしますが、まあいいでしょう。ちなみにキレていろんな人を殺すのはやさしくない気もしますが、まあ大目に見ましょう。ちなみに後花園天皇が鮭に関して好き嫌いを言ったので後花園天皇には鮭を贈らなくなり、昆布だけになっています。好き嫌いを言うのはよくありませんね。
直明王はその後困窮の極みに陥りますが、心優しく尊皇心あふれる将軍であらせられる足利義教様の癇に障った人を援助したりすれば、いかに心が広大な将軍様であっても許してくれそうにないので、誰も援助しなかったのでしょう。
義教様が赤松満祐に殺されてしまってからは直明王の皇子たちが貞成親王の庇護下に入ったようで、全明親王や今回の恒興王(恒弘法親王)を養子に迎えています。室町時代の大覚寺統を保護した天皇家についても調べてみたいと思っています。