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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園はなぜ後花園なのか2

(2019年2月24日追記。『親長卿記』における「以先後之佳躅可為当代之規範歟、而後醍醐院難被准吉例哉」の訳を少し変えています。)

(同日追記。ウィキペディアの「諡」の欄に当エントリで紹介した『親長卿記』が取り上げられています。)

諡 - Wikipedia

 

後花園院の追号については『親長卿記』文明三年二月別記に詳しいです。

 

それをみていきます。

 

まず「旧院追号の事」について、正月二日に高辻継長が「後文徳」と「後花園」を候補として挙げます。で、「多分之儀」によって「後文徳院」と決定したと言います。しかし五日に一条兼良が「文徳というのは田邑の帝の諡で、後の字を諡号につけるのは先例にはない」とクレームをつけたため、度々議論がなされた、とあります。

 

まずは「後文徳」に決定した一番目の議論から。

 

前関白二条持通

旧院の追号については私は以前から申し入れていたように後文徳がいいと思う。

 

内大臣日野勝光

後文徳。(詳細は不明)

 

三条公敦

旧院の追号については歴史書の諡を調べてみると徳で称号を決めるという。文道再興の聖徳は著明なので、後文徳がいいと思う。

 

中院通秀

後文徳、後花園、どちらを使うべきかについては悩んだが、後文徳かな、と思う。文道聖徳という点で今までの御治世とはレベルが違うという意味である。最後は主上がお決めになる事だ。

 

甘露寺親長

後文徳と後花園があるが、ご先祖ではない(非御一流)方に後をつけて使うというのは問題があるかもしれない。しかし後花園の号は得難いもので、何の問題もない。もちろん主上のお決めになる事だ。

 

勧修寺教秀

文徳は栄えた時の主で清和天皇が継体の君であった。相応しいのではないか。花園というのは読み方は優美だが、前後の事績の評価も含めて現代の規範とするべきなのだ、(花園院の次の)後醍醐院は吉例とはならないのではないか。そもそも旧院は学問を好む心が過去に誰もいないくらいである。曜徳の聖化はあまねく広がり溢れている。文徳という言葉がもっともふさわしい。これを踏まえた上で主上が決断する事だ。

 

 

ここまでみていていかがでしょうか。みなさん「最後は主上がお決めになる事だ」といいながら自信満々で「俺の言う通りに主上は決定しろ」と言っているのがわかります。

 

第2回目の答申です。二条持通の答申は第2回目にはなく、第3回目に書かれていますが、親長自身が「この二条太閤の言い分は二度目のものじゃなかったかな。三度目は変えるな、ということをおっしゃっていたような気がする。知らんけど(不審申)」と言っていたので、ここでは持通の言い分から書きます。

二条持通

旧院の追号を変えるべきかどうか、ということについて一生懸命考えたところ、追号諡号は分けて考えてはいけない。しかし諡号に後の字を加えるのが先例がないとすればどうするべきか。ただ追号を改めた例は讃岐院を崇徳と変え、顕徳院を後鳥羽と変えたように配所であったので先例不快である。今度の議奏で決定した以上は私ごときが申し上げることではないが、話し合いの末に主上のお決めになるべきだ。

 

日野勝光

追号については、まだ決定していないのであれば、仕方がないとはいえ考えないでもないが、もう言上している。文徳は田邑の諡号であるのはわかっているが、今更変えるわけにもいかない。追号諡号に差はない。文徳でなんか問題があるのか。

 

三条公敦

追号諡号は同じく没後の儀であり、趣意も似ている。しかしそれについて論難があり、いろいろ考えてみれば少しは違いがあるか。後の字のことは同じ号に使うことについては諡号は先例がないと言っても、御代の前後を知るために後の字を加えるのは大きな問題があるとは思われない。主上の判断はなお話し合いを経てからでいいのでは。

 

中院通秀

旧院の追号を改めるべきかどうかについては重ねて下問にあずかり、いよいよ勅答に迷うものである。諡については周に始まり、はるか日本に伝来したものだろう(遠及日域者歟)。神武以来四十二代は淡海公藤原不比等、実際は淡海三船)が選んだもので、事はすでに幽合である(調べたら遊戯王関係しか出てこない。多分遥かな昔に決まっている、位の意味か)。その後のことは普段の徳をあげた諡号か、後院の場所を追号とするか、山陵の由緒か、庵号の遺詔か、一つではない。ここに徳業の諡号を挙げてそこに後の字を加えて奉ることについて駄目であると言う事で問題があるか。新しい号では使ってはならない、ということである。ということなので、すでに行いにくい。後院の称号に後の字を加えるのは後一条が最初の例で、その後連綿と続いている。いわんや子孫ではないのはだめだ、とは言っても後朱雀、後冷泉、後三條はいずれも子孫ではない。今徳を慕って奉ることについては初めてである、といっても何事の問題があろうか。もし変えられるならば柏原(桓武)・深草(仁明)・田邑(文徳)・水尾(清和)・小松(光孝)などの帝は後に桓武・光孝などの諡号に加えられたものである。いわんや顕徳を改めて後鳥羽にした、という先例ははっきりしている。聖断たるべきだ。

 

甘露寺親長

旧院の追号の後文徳は田村の御門の諡号に後の一字を加えており、諡号院号に用いている。追号に改めるべきかどうか、と言うことについて、後文徳のことをとりあえず横に置くならば、仕方がない、ということになるだろう。ただし後の一字を加える先例は管見の限りでは知らない。顕徳院を後鳥羽に改めた先例はある。ということなので、他の号に定め直すのは何の問題があろうか。これ以上のことは主上のご決定によるべきだ。

 

勧修寺教秀

旧院の追号の後文徳は田邑帝の諡であるので、使うべきではない、と言う事は私ごときの考えの及ぶところではないが、為長卿の書く通りでは、元明天皇の勅命で国や郡を諡号としていることははっきりしている。これについて、山陵や御所もまた諡号に準じ、あるいは徳を持って諡号を送るのも、あるいは在所によって号するのも違いがあるだろうけれども、皆準拠しているのであれば、後文徳で問題があるのだろうか。今度あれこれの皇徳をこの院の号に選んだのであれば後の字を加えることについては決定している。今更変えるべきではない。なお皆さんで話し合おうではないか。

 ここでの議論を見る限り、

おバカな調子乗りの貴族「文徳天皇にちなんで後文徳にしようぜ」

流されるその他大勢のバカ貴族「おお、いいねぇ」

賢者一条兼良登場。

「文徳という諡号に後の字を付けるという先例などない(キリッ」

というものではなさそうです。

 

むしろ多くの人は「諡号追号ってほぼ同じじゃん。そこうるさく言うのどうなのよ。それよっか一度決めたものをひっくり返す方が、崇徳と後鳥羽の先例でまずくね?」と考えていたことがわかります。

 

ところが興味深いことに第3回目の話し合いでは一転「後文徳」「後花園」に加えて「後近衛」「後土御門」という候補が新たに加わり、変えることが前提のような空気になります。何があったのでしょうか。これはおそらく出席者が「時宜」「時儀」「聖断」という言葉で表されている、後土御門天皇の意向を尋ねた結果、天皇が「変えろ」と命じたに違いありません。

 

二条持通

改めてはいけない。

 

前回は未エントリの久我通尚

旧院の追号の御文徳院を改めようということで、後近衛・後土御門・後花園などいずれを用いられるべきか、ということだが、後近衛をこい願うか、後花園がよろしいか、まだ問題があれば後土御門も何か大きな問題があるのか、多数決に従うだけだ。

 

同じく前回未エントリの今出川教季

旧院の追号の後文徳を改めようということで、後近衛・後土御門・後花園のいずれを用いられるべきか、ということだが、どれもこれも由緒がないが、後花園院がいいんじゃないか。

 

日野勝光

旧院の追号が後文徳はダメで、変えることが決定しているならば後土御門がいいと思う。

 

三条公敦

旧院の追号が後文徳がダメということで、変えることが決定した以上は、後土御門がいいのではないかと思うが、もっと話し合おうぜ。

 

中院通秀

旧院の追号を変えるようにはからえ、と言う仰せにとりあえず愚案をめぐらすと、土御門は近来の皇居の地で憚りがある、後近衛院がいいんじゃないか、と思うが話し合いが必要だ。

 

甘露寺親長

旧院の追号を後近衛・後土御門・後花園に変えるべき点についての私の考えは二度の勅問の時にすでにお答えした通り。ただ、後土御門は有名無実といえども、現在の皇居の名前である。そこで以前言上した通り後花園で問題ない。

 

勧修寺教秀

旧院の追号の後文徳を改めることについて、後近衛・後土御門・後花園のうちどれを使うべきか、ということについて、土御門は皇居であり、天下静謐の後は還幸のことがあるだろう。ということで使いづらい。後花園は以前に申し上げた通り。近衛院は直接のご先祖ではないし、関係もない。どれもピンとこないが(旁雖不庶幾)、ぴったりの追号がないので、お任せします。

 

一条兼良

後花園院がいい。後近衛・後土御門はどうかと思う。

 結局十五日に後花園と変えることが決まりました。

 

3回目の議論を見ていると、後文徳を強く推した人々は急速にやる気をなくしているのがわかります。勧修寺教秀など、そこまであからさまにやる気なくさんでもいいやん、と思います。勝光の投げやりな感じも後文徳がひっくり返ったことが面白くないことが伺えます。

 

自分らで一生懸命考えたのが天皇の一存でひっくり返ったのですから、貴族層がしらけるのは道理です。最初から後花園を一貫して推していた甘露寺親長だけは得意満面でしょうが。

 

ではなぜ甘露寺親長は「後花園」を推したのでしょうか。次回はこれについて述べます。