記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

伏見宮家に伝わった鮭昆布公事について−『青森県史資料編中世4』の誤ち

追記:引用文中「直明王」が「直明ラオウ」になっていましたので訂正しました。「直明ラオウ」ってんなんだよ。直明王は義教に所領没収された時に「我が人生に一片の悔いなし」と叫んだことからそう呼ばれている(嘘松

 

青森県史』は個人的には非常に素晴らしい自治体史だと思います。青森県の歴史を研究したい場合だけでなく、北海道史の研究にも大きく寄与しているはずです。特に史料が少なく、研究が停滞している観のある北海道中世史の研究に大きく寄与するでしょう。

 

青森県史』の特徴として、北海道・東北地域に関わる史料を広く集めているため、例えば室町殿御内書引付や中世貴族の日記なども収められており、非常に有益です。

 

表題の『青森県史資料編中世4』には『看聞日記』の「鮭昆布公事」関係記事が載せられました。完全に北海道史の案件であると思われるのですが、なぜだか取り上げられてくることのなかった史料です。

 

これが取り上げられたことの価値は非常に大きいのですが、一つ気になる記述があります。引用します。(p833)

本号資料は越前国足羽荘の公事として「干鮭公事」「昆布公事」が記されていることから採録した。(中略)

足利義教代に常盤井宮明王伏見宮貞成親王王子)が足羽荘の返付を求め、「干鮭昆布公事」のみの回復に成功した。常盤井宮明王はさらに足羽荘そのものの返付を求めたが、かえって足利義教の不興を買い、足利義教常盤井宮の所領を一部没収し、「干鮭昆布公事」も常盤井宮から没収して、その父伏見宮貞成親王に与えた。

 このブログの読者の方々はツッコミどころはお分かりいただけると思います。貞成親王の皇子は後花園天皇と貞常親王しかいません。猶子になった宮はいますが、直明王ではありません。直明王の王子の全明親王は弟の恒弘法親王後花園天皇の猶子となったことで彼自身親王宣下を受けることができました。貞成親王の猶子は木寺宮邦康王です。

 

「足羽荘の公事」として「干鮭公事」「昆布公事」というのも間違いです。「足羽荘の公事」と「干鮭公事」「昆布公事」は別のものです。

 

足羽荘は色々伝領されましたが、室町時代初頭には常盤井宮家のものであったようです。しかし義持時代に常盤井宮家から一条家に動きます。義教に代替わりがあって、義持時代の判決がひっくり返ることがあったことから、そこに期待をかけて常盤井宮明王も訴え出たのでしょう。しかし義教もそれほど極端な人間ではありません。あくまでも義持時代の恣意的なものの変更にとどまり、道理にかなったものは義持時代の処分を変更しませんでした。

 

ただ常盤井宮はその皇子を義教の猶子にするなど義教のお気に入りであったことも事実です。義教は贔屓にしている直明王のために足羽荘の代わりの権益を持ってきました。それが「鮭昆布公事」だったわけです。

 

ではその鮭昆布公事はどこから出てきたのでしょう。これははっきり『看聞日記』にも書いてあります。光範門院のことを義教は兼ねてからよく思っておらず、なんの落ち度もない光範門院の収入源であった鮭昆布公事を取り上げて直明王に進上したのです。

 

明王はものすごく優遇されたわけです。光範門院は称光天皇の生母です。つまり後小松院が自分の死後のために妻に残した遺領を没収して贔屓の直明王のために渡したのです。

 

明王はそこで義教に感謝感激していればよかったのです。しかし彼は義教の決断がいかにすごいものであったのかを理解する想像力に欠けていました。彼はなおも足羽荘の返付を求めて義教に訴え続けるのです。これではガンジーでも助走をつけて殴るレベルです。もしくは笠子地蔵に集団でボコられるレベルです。まして義教ならば(以下ry)

 

首と胴が離れても不思議ではなかったのですが、そこは助かりました。所領を没収され、その所領が常盤井宮とはほぼ関係のなかった貞成親王のところにやってきたのです。

 

この「鮭昆布公事」が光範門院以前はどのように伝領されていたのかについては詳しくは分かっていません。

 

「鮭昆布公事」はまず持明院統の所領目録には全く姿を現しません。光範門院以前には天皇家のものではなかったことを示します。光範門院は後小松以外からこの「鮭昆布公事」を入手しているはずです。

 

その辺のことは以下のエントリで説明しています。あとはそちらをご覧ください。

sengokukomonjo.hatenablog.com

北方史(北海道・北東北の歴史)を研究していると、しばしば史料の読みの雑さに気付かされます。そして鎌倉や京都の歴史を研究している研究者がその雑な史料の読みをそのまま無批判に受け継ぐので、間違えた歴史解釈がまかり通ることはしばしば目にします。その辺をどうしていくか、というのが私の課題である、と思っております。