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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン歴史講座応仁の乱

ticket.asanojinnya.com第4回目は応仁の乱です。

 

応仁の乱の原因は何か、といえば色々出てきます。

 

どれが決定的か、ということは言えないのですが、現在では日野富子が悪い、という見解だけは消えつつあります。ただ富子の立場についてはまだはっきりしておりません。この点は私もきちんとした見解があるわけではないので追々検討していきたいと思っています。

 

畠山一門の内訌は極めて大きなウェイトを占めることは間違いがないでしょう。そもそも乱の発火点となったのは畠山政長が突如管領を罷免され、家督畠山義就にすげ替えられたことで面目を失って暴発したことにあります。

 

この発火点にガソリンをぶちまけたのが山名宗全による義就への加勢です。足利義政は畠山同士で決着をつけよ、と言っていたのに宗全が加勢したのに対し、加勢しなかったことで面目を失った勝元が報復のために五ヶ月後に挙兵したことで本格的な戦乱になります。宗全が加勢しなければ勝元も納得したはずで、宗全はなぜ加勢したのか、という疑問点が残ります。宗全としては完全にイニシアティブを握っていたのですから、ここで焦って自滅した、としか思えませんが、実は裏があります。そこはライブでどうぞご堪能ください。

 

一応御霊合戦について説明しておきます。

 

文正元年(1466年)12月、畠山義就が大軍を率いて上京してきます。畠山義就は長い間いとこの畠山政長と対立し、この時点まで幕府に逆らう謀反人でした。義就を謀反人という立場に追い込んだのは細川勝元山名宗全連合です。

 

応仁の乱のアウトラインしか知らないとここで「えっ!?」となるところです。細川勝元山名宗全は仲が悪かったのではないか?と。実は両者は姻戚関係にあり、二十年間共同歩調をとっている、極めて強固な同盟関係を結んでいます。宗全の養女(一門で嘉吉の乱で横死した山名熙貴の娘)を細川勝元に嫁がせ、間に聡明丸(のちの政元)を産ませてます。つまり宗全は細川京兆家外戚だったわけです。

 

この両者の連携の背景にあるのが嘉吉の乱後の畠山持国による幕政掌握でした。持国に対抗するために細川京兆家と山名家は手を組んだのです。畠山持国の後継者争いに政長を押して介入し、ついに持国が押していた義就を追放することに成功します。

 

つまり義就の上洛はこれまでの細川勝元の動きを全否定するものだった、と言えるわけです。それを主導したのが山名宗全ということは、文正元年十二月に両者の連携が失われたことを意味します。その直前の六月の文正の政変では両者は一致団結して動いていました。この文正の政変のアウトラインは明日お話しします。

 

ともあれ、義就の上洛で政長との対立が深まり、さらに山名宗全が軍事的イニシアティブを掌握するに至って義政が義就を畠山家督に選び、政長は失脚します。

 

失脚した側は普通京都から没落するのが通例でしたが、政長は御霊社に陣を敷きます。軍事的緊張が高まる中、義政は両者への介入を禁止します。勝元は義政の指示を守って静観しますが、宗全は義就を支援します。政長は敗北し、没落していきますが、勝元は面目を失い、応仁の乱は泥沼化していくのです。

 

なぜ宗全は軍事行動に及んだのか。意外な人が絡んでいます。今日はここまで。