後花園天皇宸翰消と足利義教自筆御内書2
前回見てきました後花園天皇宸翰消息および足利義教自筆御教書(熱田神宮宝物館所蔵)の解説です。
前回のエントリはこちらになります。
これについては『看聞日記』永享五年十二月十二日条にいろいろ書いてあります。
十二日。晴。三条宰相中将参。室町殿為御使。則対面。禁裏勅書並室町殿御内書賜之。熱田社領可知行云々。祝着喜悦千万也。旧好異于他御領之間事更自愛無極。勅書御内書御返事則申。三条御剣一持参。殊更又練貫一重、杉原十帖給之。一献畢退出。禁裏へ長講堂領、法金剛院領、丹州山国庄灰形、濃州多芸御月宛、出雲国横田庄等被進云々。入江殿へ高掠郷被進之。旧院御譲状ニ女院へ水金役〈月宛三十貫〉、大性院御比丘尼御所へ出雲横田庄被進之。雖然室町殿不被計申、禁裏へ被進云々。
なかなか色々な情報が入っています。
まず「三条宰相中将」というのは三条実雅です。義教の正室の尹子に兄で義教の側近中の側近です。彼は伏見宮と義教の連絡役をこなしていました。
文中の「禁裏勅書並室町殿御内書」というのが今日熱田神宮に伝わる文書です。
これはこの年の十月二十日に崩御した後小松法皇の遺領の処分で、義教が担当していますが、最後のところが大変興味深いです。
後小松院は「女院」つまり光範門院に水金役を残していたのですが、義教はそれをガン無視して後花園天皇に献上してしまったわけです。端っから後小松院の遺詔を守る気は永遠にゼロです。
「大性院御比丘尼」は「大聖寺門跡」のことで、後小松院の皇女の理永女王です。彼女にも出雲国横田庄を残していましたが、義教はもちろん無視して後花園天皇に引き渡します。後小松院の遺詔を守る気はここでも永遠にゼロです。なぜかといえば彼女も光範門院所生だったからでしょう。更にいえば後小松の皇子はほぼ光範門院の所生で、土岐家出身の小兵衛局所生の皇女と南朝遺臣所生と伝わる一休が例外です。皇女はそもそも死没年がわからない、ということで早世していたかもしれません。一休にはそもそも遺領配分などありません。従って義教は基本的に後小松関係者に遺領を残さない、という方針だったようです。
それでも光範門院には鮭昆布公事がありました。月四十二貫という計算になります。しかしそれも翌年には「不快」というよく分からない理由で取り上げられ、お気に入りの常盤井宮にあっさり与えられてしまいます。
その辺の事情は
sengokukomonjo.hatenablog.comとか
sengokukomonjo.hatenablog.comで述べたとおりです。