オンライン日本史講座二月第三回「朝鮮使節の見た室町日本」予告
自分で作成した更新スケジュールを間違えて日曜日にアップする予定の「後花園天皇の生涯」をアップしてしまいました。というわけで深夜に書いています。
ticket.asanojinnya.com2月21日のオンライン日本史講座「朝鮮使節の見た室町日本」の予告編です。
朝鮮半島と日本列島にそれぞれ成立した国は長い間交流を続けてきました。今回はそれについて見ていきます。
室町時代は特に両者の間が密接な時代でした。とは言っても必ずしも友好関係一色ではありません。
江戸時代の朝鮮通信使研究は1990年代にブームになりました。日朝友好の歴史として把握すること自体、間違いとは言えませんが、朝鮮通信使を友好一色で塗りつぶすのも、現実から目を背ける面がないとは言えないでしょう。朝鮮通信使がもたらす文物に人々は関心を寄せ、先進文化を受容する場であったことは事実です。しかし一方で自文化が一番と考える意識も存在し、そこに摩擦が起こっていたことも見なければならないでしょう。
江戸時代には朝鮮から通信使が来るのみでしたが、室町時代には相互に通信使を出し合っていました。
朝鮮王朝は非常に手続きに厳密です。これはおそらく儒学と関係があると思います。やってくるのは通信使、通信使への返事は回礼使、拉致された人々の送還を担当するのが刷還使というように、その役割に応じて名前が付けられていました。
室町時代には何回か来日していますが、詳細な記録が残っているのが一四二〇年に来日した日本回礼使の宋希璟(ソン・ギヒョン)の時と、一四四三年に来日した日本通信使卞孝文(ピョン・ヒョムン)の時です。
宋希璟の時は通信使本人の宋希璟が『老松堂日本行録』を、卞孝文の時には書状官として来日した申叔舟(シン・スクチュ)による『海東諸国紀』です。いずれも岩波文庫に入っています。
こちらは宋希璟の書いた『老松堂日本行録』です。応永の外寇の後処理に来た宋希璟の紀行文です。足利義持との困難な交渉や、宋希璟の見た当時の日本社会が生々しく描かれています。解説は村井章介氏です。
こちらは申叔舟の『海東諸国紀』です。この本自体は1471年に書かれていますが、彼は1443年に来日しています。足利義教のお悔やみと足利義勝の就位のお祝いです。しかし彼らが滞在中に足利義勝が病死し、義勝のお悔やみになってしまいます。
この使節については以前述べました。
申叔舟は首陽大君(スヤンテグン)の書状官として北京にも行っています。首陽大君は後に甥の端宗から王位を簒奪しています(癸酉靖難)。おかげで世祖とその側近であった申叔舟は悪役になります。
この書は「日本国紀」(!)「琉球国紀」などから成っています。
「日本国紀」では「天皇代序」「国王代序」と地理の記載がなされています。日本・朝鮮が朝鮮王朝からどのように理解され、応接されてきたかが記されており、当時の日本社会を知る上でも貴重な所見を提供しています。
これらについての研究として真っ先に上げておくべきなのは関周一氏の本でしょう。
朝鮮人のみた中世日本 (歴史文化ライブラリー) [ 関周一 ]
この著作では『老松堂日本行録』と『海東諸国紀』を中心に、朝鮮人漂流人の記録も使って、当時の日本の姿を「旅人の視点」から見直しています。
朝鮮使節による記録の特徴は、日本側には当たり前すぎて記されていなかった日本の姿が描かれていることにあります。いわゆるエトランゼの視点となります。エトランゼの特徴は、その文化にどっぷり浸かってしまっている人々が自明のこととして特に気にもとめていないその文化の特質をするどくえぐり出して見せるところにあります。例えば日本の男女の人口比は1:2で、圧倒的に女性が多いことを宋希璟は書き残しています。
宋希璟についてはこちらの清水克行氏の著作にも触れられています。
この著書は基本的には応永の飢饉について述べていますが、飢饉の直前に起こった応永の外寇やその交渉のために来日した宋希璟についても少し触れられています。宋希璟と散々もめていた足利義持がなぜ態度を翻して友好的になったのか、の理由について興味深い視点が提示されています。
ちなみに、そういう室町日本の特徴について、清水克行氏と高野秀行氏の対談の本があります。これは室町日本に関心のある人および現代のアジア・アフリカの「辺境」とされる地域に関心のある人におすすめです。とりあえず歴史学に関心のある人にはお勧めできます。
【中古】 世界の辺境とハードボイルド室町時代 /高野秀行(著者),清水克行(著者) 【中古】afb