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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座二月第四回「蝦夷地・琉球と室町幕府」3

ニッチな分野を講座にするという無謀なことをやらかしています。聞きたい、という人、果たしているんだろうか?ということでビビっています。

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これもオンライン日本史講座の醍醐味です。普通の講演会ならばこんなニッチなテーマで開いて誰も来なければ大損害なので、開催する勇気が出ません。しかしZoomを使ったオンライン講座ならば、会場費なし、移動費なし、諸経費ほぼなし、ということで客0人でも問題ありません。事実客が0人ということもあります(笑)

 

琉球室町幕府です。

 

以前にも琉球については少し述べたことがあります。詳しくはこちらをご覧ください。

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

琉球と中世日本との関係といえば島津氏が思い出されるところでしょうが、意外なことに15世紀の段階では島津氏の影は薄いです。それが濃く見えるのは足利義教のせいです。

 

足利義教のイメージといえば「冷酷」「独裁」「権力拡大」というイメージが先行していますが、それが昂じて北海道から沖縄まで室町殿の権威と権力を伸長したスーパーマンのような扱いを受けていることが多いように思います。

 

北海道では『満済准后日記』において南部氏に敗れて北海道に没落した津軽安藤氏の要請に応じて南部氏を説得し、津軽北海道地域に平和を取り戻した将軍という言い方をよく見ます。というより通説です。これが誤っていることは私は『研究論集 歴史と文化』第三号で主張しています。

 

琉球では「嘉吉附庸説」というのがあります。義教と将軍職を選ぶくじ引きの対象だった大覚寺門跡義昭が日向にまで逃亡し、島津氏がそれを討ち取ったので、その褒美に義教から琉球を拝領した、というデタラメです。専門の研究者でそれを信じる人はあり得ませんが、ネットではそれがまだ真実だと信じている人も散見されます。島津氏が作ったデタラメです。

 

室町将軍→琉球国王への文書が御内書であることを以って琉球が日本とみなされていた、という見方も根強く存在します。しかしそういうことを言う人がどの程度御内書を読んでいるのか、疑問です。御内書を数多く目を通していれば、琉球国王宛の文書は御内書には見えません。学会でも近年では「国書」というようになっています。

 


琉球王国と戦国大名: 島津侵入までの半世紀 (歴史文化ライブラリー)

 

 

例を挙げます。

 

尚巴志宛の足利義教国書です。

文くハしく見申候。しん上の物たしか

にうけとり候ぬ。めてたく候

  永享十一年三月七日  御印判

     りうきう国のよのぬしへ

これは断じて御内書ではありません。印判を捺した義教の御内書は存在しません。要するに国内向けの「御内書」には印判を捺しません。将軍家の花押です。印判を捺すのは明・朝鮮・琉球です。

 

仮名書きの御内書は琉球国宛と洞松院宛だけです。洞松院は赤松政則妻で細川勝元娘です。彼女は夫の死後に赤松家の権力を掌握し、女性守護大名となったので、彼女宛には仮名書きの御内書を発給したのです。

 

琉球宛の国書が「御内書」とされているのには、伊勢家の責任もあります。御内書を集積した伊勢氏は「御内書引付」を多数残します。それは大館氏にも残されます。この「御内書引付」の中に琉球国王宛の国書が混じり込んでいるのです。これは琉球国宛の文書が鹿苑院の担当ではなく、伊勢氏の担当だったことを暗示しています。そして大館氏も足利義晴の代には御内書に関わるようになるので、御内書引付を作成します。この時に琉球国王宛の国書がやはり入り込むのです。

 

要するに琉球は日本とみなされていた、という議論は「琉球国宛の文書が御内書引付に入っている」→「琉球国王宛の文書も御内書だ」→「御内書は大名宛の文書である」→「琉球国王は大名と同じ扱いであったから日本の国内だ」という思い込みが元になっています。しかし御内書引付に入っているから御内書というのも短絡的です。印判を捺す、仮名書きである、と言う二点を無視してこれを御内書と定義するのは乱暴です。

 

なぜ仮名書きなのでしょうか。これは三条西実隆にも責任があります。実隆は琉球国宛の国書が仮名書きである理由を「女房が書いていたから」と書いていますが、因果関係を転倒させた見解です。

 

琉球では自らの言語の書記化にひらがなを利用しました。室町将軍からの国書は琉球国の言語で書かれている、と見るべきです。日本の公文書は基本的に和風漢文です。ちなみに琉球国王からの国書は和風漢文で書かれています。つまり室町殿と琉球国王のやりとりはお互いに相手の言語でやり取りしていたのです。同種同文意識どころか、徹頭徹尾異文化同士のやり取りであるわけです。

 

仮名書きで文書を作成するプロといえば女房です。だから室町幕府は当初女房に作成させたのではないでしょうか。実隆の議論はそこを逆転させてしまっていると考えます。

 

琉球国王と室町殿の間には上下関係があったことは否めません。琉球国王から室町殿への文書は「御奉行所」に充てられています。しかしそのことと琉球を日本とみなしていることとはイコールではありません。

 

「世の主」称号についても同じことがいえます。「国王」ではないから外国との関係ではないのだ、ということですが、朝鮮と日本の関係も多くは「日本国源」の肩書で「国王」ではありません。

 

琉球と日本との関係は明の冊封体制とは別の秩序で行われていた、というべきです。

 

もう少し詳しく実際の御内書引付なども見ながらお話が出来れば、と思っております。

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