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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座二月第四回「蝦夷地・琉球と室町幕府」ニュース

この木曜日のオンライン日本史講座の内容をお知らせするこのエントリの名前が決まりません。

 

プロジェクションマッピングのいらないオンライン日本史講座の内容をお知らせする時間です。

 

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今日はニッチなテーマでした。このテーマで二時間みっちり議論する講座は多分ないと思います。「蝦夷地と室町幕府」です。いくら室町幕府がブームだからと言って室町幕府アイヌを結び付けようという暴挙に出るのは私だけである、と自負しています。最近ではアイヌ史と後花園天皇を結び付けようというさらなる暴挙を考えています。

 

室町幕府の場合は津軽安藤氏が一つのポイントです。

 

津軽安藤氏は蝦夷系譜から、津軽土着というのを疑う議論はなかったように思いますが、私は疑っています。「なぜ『地蔵菩薩霊験記』を無視する」と思っています。どんな話かと言いますと、鎌倉で武勇で知られた安藤五郎がアイヌを統制するために津軽に下り、苦労しながら地蔵菩薩の霊験によってアイヌ統制に成功する、という話です。

 

この安藤五郎と日蓮遺文に紹介されている「頸をばゑそにとられ」た安藤五郎は別人でしょうか。「蝦夷管領」となった「安藤五郎」はどうでしょうか。鎌倉幕府最末期に争った安藤季久と安藤季長の共通の祖の「安藤五郎」はどうでしょうか。彼らは別人なのか、同一人物なのか。全く別人の鎌倉幕府御内人の安藤五郎と、蝦夷系譜を持つ安藤五郎がほぼ同じ時期にたまたま二人ともアイヌと関わったのでしょうか。その可能性は極めて少ないと思います。同一人物と考えるのが普通でしょう。

 

室町時代に安藤康季が南部氏によって十三湊から没落し、帰ってきたが再び敗北した、という話が荒唐無稽としか言いようがないというのはここでも、『歴史と文化』第三号でも書きましたのでここでは省略します。

 

三守護体制の話が俎上に登りました。参加してくださっている金子哲先生は「三守護なんて嘘だ」とおっしゃっていて、「一守護も嘘だ」とおっしゃっていて、この辺を私としてはもう少し話をお聞きしたかったのですが、時間切れでした。

 

ここで一つ考えねばならないのは昆布の問題であると金子先生から指摘がありました。函館より少し東にいった宇賀で取れる昆布の利権をめぐる争いが、当時の道南の情勢に大きく絡んでいるのではないか、ということです。

 

ここは実は我らが後花園天皇にも大きく関わってきます。

 

以前にもネタにしましたが、伏見宮家は「鮭昆布公事」を足利義教より与えられます。伏見宮家に来る前は常盤井宮家が保持していました。常盤井宮明王は義教と尹子のお気に入りで、直明王は子供のいなかった尹子の猶子に自らの王子を出しています。三歳の可愛い盛りで亡くなるのですが。

 

その後も良好な関係は続き、訴訟に敗訴した常盤井宮家のために義教はとびきりの代替の利権をプレゼントします。後小松院の典侍称光天皇の生母であった光範門院の所領を没収して常盤井宮家にプレゼントします。それが実は「鮭・昆布公事」だったのです。

 

この「鮭・昆布公事」は持明院統の所領目録には見えません。ということはこれは代々天皇家に受け継がれたものではなく、室町時代に入ってしばらく経ってから天皇家のものとなった、と考えなければなりません。

 

それを類推させる事件が、足利義持末期に起きた勧修寺経成と称光天皇のトラブルです。この事件周辺についてはこちらで詳しく述べています。

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これで経成は己の所領を一ヶ所光範門院に引き渡すことになるのですが、義教に代替わり後、義持の裁定をひっくり返そうとします。結局経成に土地を返却する代わりに替地を義教は光範門院に献上します。これが「鮭昆布公事」と考えれば辻褄はあいます。

 

私はどちらかと言えば鮭に興味がある(アクアリストなんで)のですが、昆布についても調べてみないとな、と思いました。余談ですが後花園天皇は鮭が口に合わなかった、というネタをここでも披露しました。

 

当時はその昆布の産地に近い函館の方が栄えていたらしいこと、函館と松前の関係を考える必要があることなど、いろいろな議論が出ました。

 

鮭は知内川ではないか、と金子先生はおっしゃっていましたが、ここは私は瀬川拓郎先生の説の通りに石狩川で、現地で干鮭に加工されたものが都に運ばれていって後花園天皇の元にも献上され、口に合わなかったのではないかな、と考えています。義教と尹子には毎年規則正しく献上されていること、義教死後には日野重子(義勝・義政生母)には献上されるが、尹子には昆布だけになる(尹子は義教の横死直後に出家しているので、当然と言えば当然)のも興味深いです。その辺しっかり考えて献上されているのだな、と思いました。

 

この鮭昆布公事の話は近いうちに活字になる予定です。お楽しみに(誰が?)。

 

道南の館主の配置などは見直す必要がありそうです。『新羅之記録』に引っ張られますと上ノ国松前茂辺地になるのですが、茂辺地に隣接する矢不来の発掘調査を見る限りではコシャマイン戦争以後のようなので、函館近辺よりは新しく作られたもので、実際は函館と松前の二拠点だった、ということを考えないといけないのではないか、ということが議論となりました。

 

琉球に関しては私も全くど素人なので、題名を出してから激しく後悔したのですが、琉球について触れないと羊頭狗肉のそしりを免れないので、無理して出しました。北海道の議論が長引いたので時間がなかったのが幸いしました。

 

琉球国王(代主)宛の国書が仮名書きであることについて、琉球では実際に仮名書きだったのか、という議論が出されました。まあ私は仮名書きだったんだろうなとは思うわけですが、三条西実隆は女房が作り始めたから仮名書きだ、というような適当なことを言っていますが、永享八年付の足利義教の国書は執筆者が飯尾大和守です。講座中では山門騒動に関わったのではないか、とうろ覚えで発言しましたが、間違っていました。山門騒動に関わったのは飯尾為種で、備中守でした。飯尾大和守は貞連でした。飯尾貞連様にはお詫びいたします。為種は山門奉行、貞連様は唐船奉行でした。

 

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