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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座三月第一回「摂関政治と天皇」3

毎週木曜日午後8時30分からお送りしていますオンライン日本史講座、今回は5月に予定されている代替わりに向けて、日本における皇位継承の歴史を見ていこうという代替わり便乗企画です。

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摂関政治について、摂政と関白の地位が確立するところまで見てきました。

いよいよ本命の藤原道長の出番です。

 

藤原道長、といえば、その日記『御堂関白記』が有名です。

この本が個人的にはお勧めです。

 


近衞家名宝からたどる宮廷文化史: 陽明文庫が伝える千年のみやび

 

あるいは藤原道長に関心にある方はここから入るのもいいでしょう。

 


藤原道長「御堂関白記」を読む (講談社選書メチエ)

 

ところで藤原道長は摂関に何年間在籍していたか、ご存知でしょうか。

 

 

 

答えは・・・

 

 

関白0年、摂政2年です。

 

 

えっ⁉️

 

 

「世界の記憶」にも指定された「御堂関白記」は?

摂関政治の最盛期を築いた藤原道長なのに?」

 

 

そうなんです。

 

では彼はどういう肩書きで摂関政治の最盛期を築いたのでしょうか。

 

 

それは木曜日のお楽しみ、ということで。

 

 

もう一つ、藤原道長、といえば「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌で有名です。

 

この歌に関してはここに大変面白い解説があります。一読をお勧めします。

mag.japaaan.com

これは後一条天皇中宮に娘を立てることに成功し、一条天皇三条天皇後一条天皇と一家三后太皇太后・皇太后・皇后)を実現した時の道長の得意を表した和歌です。

 

道長の課題は円融皇統と冷泉皇統に分裂した皇統の再統合でした。

 

道長は冷泉皇統の三条天皇を引き摺り下ろし、さらに後一条の皇太子となっていた三条天皇皇子の敦明親王を皇太子の辞退に追い込んで皇統を再統一します。

 

しかしそれは皮肉にも摂関政治を終わらせることにつながっていきます。

 

そもそも摂関政治というシステムが非常に脆弱なシステムだったとしか言いようがありません。

 

摂関政治とは何か、といえば、天皇ミウチによる政治、と言うことができます。つまりあくまでも政治の主体は天皇とその周辺です。制度としての天皇を抜きにして成立しません。つまり摂関政治が続くためには女子を継続的に天皇家に入れ、そこから皇子が継続的に生まれる必要があるわけです。たまたま皇子が生まれなければこのシステムは容易に破綻します。

 

皇統が分裂していれば、どちらかの皇統では失敗してももう一つの皇統から出るかもしれません。また摂関を出す家も必ずしも親子相承ではなく、兄弟で受け継がれたりして一定の広がりを持っていました。その中での競争があったわけですが、道長の代に皇統も摂関の家も固定化していきます。

 

道長の息子の頼通と教通の娘はいずれも後冷泉天皇と結婚しますが、ここから皇子は生まれませんでした。

 

後冷泉の皇太子には後朱雀天皇と禎子内親王に間に生まれた尊仁親王が選ばれます。この尊仁親王を庇護したのは皮肉にも道長の四男の能信でした。

 

この尊仁親王後三条天皇は実は父系では円融皇統ですが、母系では冷泉皇統を引いており、母の禎子内親王道長の娘の姸子の所生でした。父系でも父後朱雀天皇の母は彰子です。

 

後三条天皇はそういう意味では曽祖父に道長がいることや、実際に頼通の存在を無視はできません。さらに道長の四男の能信の養女である茂子を妻にしていますから、頼通と協調する必要は出てきます。さらに茂子所生の貞仁親王を皇太子に擁立している以上は、摂関政治は完全に終わっているわけではありません。

 

しかし後三条天皇は茂子所生の貞仁親王よりも基子所生の実仁親王に期待をかけるようになります。基子は道長に皇太子辞退に追い込まれた敦明親王の孫に当たります。彼女も一応道長の玄孫に当たりますが、むしろ敦明親王のイメージの方が強いでしょう。後三条天皇は貞仁親王に譲位し、実仁親王を皇太子に据えます。摂関家との関係の強い貞仁親王はあくまでも中継ぎで、本命は実仁親王です。

 

この後三条天皇のプランが実行されれば院政はより早く到来したのではないか、という見解もあります。しかし実際には後三条天皇は譲位後ほどなく死去したため、後三条天皇がいわゆる院政を目指したかどうかについては議論があるところです。