連続講座「中世・近世の皇位継承 摂関政治と天皇」
ユーチューバーをやっております。3月7日に開かれました「中世・近世の皇位継承 摂関政治と天皇」の報告です。
これについては予習用に三つエントリをアップさせていただいています。
ベースは佐々木恵介氏の『天皇と摂政・関白』(『天皇の歴史03』講談社、二〇一一年)です。
天皇の歴史 3 天皇と摂政・関白 講談社学術文庫 / 佐々木恵介 【文庫】
摂政と関白の違いです。
永享五年、後花園天皇の元服が執り行われます。その時に摂政の二条持基は復辟上表(辞任)しています。復辟とは皇位に返り咲くという意味です。
元服前は摂政が天皇大権を代行します。天皇が元服すると摂政は天皇大権を天皇に返上し、辞任します。これが復辟上表です。そして改めて天皇から関白に任ぜられ、引き続き天皇の後見を務めますが、天皇大権を全て行うというわけではありません。
朱雀天皇の摂政だった藤原忠平ですが、平将門の乱の時に天皇大権の一部を移譲する節刀を忠平ではなく朱雀天皇が行なっている記録がありますので、生殺与奪の権は摂政が行使するのではなく、天皇から直接将軍に与えられることが伺えます。
もう一つ、摂政関白と天皇の違いは、日食の時に筵で御所を覆いますが、これをするのは天皇と鎌倉・室町将軍だけだそうです。これは王権を鎌倉将軍が保持していたことの現れとしています。これについては黒田日出男氏の次の本に詳しいです。
摂関期には皇統が分裂します。
具体的には村上天皇の後に皇位を継承したのは冷泉天皇ですが、ほどなく弟の円融天皇に譲位します。「気の病」による奇行が原因とされていますが、倉本一宏氏はそれを否定しています。
冷泉の後継者を早く決めなければならない事情はあったようです。当初は為平親王が有力視されますが、源高明が外戚となっていた関係もあって回避され、安和の変を経て円融天皇が即位することになります。
円融天皇は伊尹を摂政としますが伊尹は一年ほどで死去し、兼通が摂政となります。兼通は円融の庇護者でしたが、兼通はほどなく死去します。死去に際して兼通は弟の兼家ではなく従兄弟の頼忠(実頼の息子)に摂政の地位を譲ります。
円融は結局兼家の娘の詮子との間に懐仁親王が生まれたのみで、結局懐仁親王立太子と引き換えに花山天皇に譲ります。
花山天皇は皇太子になったのが生後10ヶ月で、これは伊尹の権勢によるものでしたが、伊尹が死去したため、その基盤は脆弱になっており、結局兼家の陰謀によって退位させられることになりました。
兼家にとっては皇太子の懐仁親王のみならず、花山天皇の弟の居貞親王も外孫であり、花山を引き摺り下ろした後はいくらでも選択肢はあったわけです。
懐仁親王即位(一条天皇)のあとは居貞親王が皇太子になり、冷泉皇統と円融皇統は並存の状態が続きます。一条天皇よりも皇太子居貞親王の方が4歳年上で、兼家が冷泉皇統シフトを敷いていたことが伺えます。
しかし兼家の死後、最終的に権力を掌握した道長は円融皇統と冷泉皇統に分裂した皇統の統一を志ざします。
一条天皇の死去によって皇太子が即位します。三条天皇です。その皇太子には道長の外孫の敦成親王が立てられ、道長は三条天皇に譲位を迫るようになります。
三条天皇には道長も姸子を入内させていましたが、そこに皇子が生まれなかったことが決定的でした。
三条は自らの皇子の敦明親王の立太子と引き換えに敦成親王への譲位を了承しますが、三条の死後にそれはひっくり返されます。
以上、昨日の講座で出された問題点に対する答えでした。
こちらが動画になります。