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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座三月第二回「院政の開始と展開」予告1

どうも、ユーチューバー兼歴史学研究者です。

 

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摂関家外戚に持たない後三条天皇の息子の白河天皇が、摂関政治に引導を渡した、というイメージで捉えられがちです。

 

しかし細かく見ると白河天皇道長の息子能信の養女茂子を母に持つため、摂関家との関わりは深い方です。後三条の本命は源基子を母に持つ実仁親王です。ちなみに基子の祖父は道長に無理やり皇太子を引きずり降ろされた敦明親王です。従って白河天皇はあくまでも中継ぎでしかありません。白河天皇の即位とともに実仁親王が皇太子になり、冷泉皇統と円融皇統を統一した後三条による政治が続くはずでした。後三条が長寿を全うすれば後三条院政が始まっただろうと言われています。

 

しかし後三条上皇は譲位後程なく病に倒れます。結果白河天皇にチャンスが巡ってきます。

 

白河天皇についてはさしあたり初の評伝となる美川圭氏の次の本を読むことをお勧めします。

 


白河法皇 中世をひらいた帝王 (角川ソフィア文庫) [ 美川 圭 ]

 

白河天皇藤原頼通の息子の師実の養女の賢子をこよなく愛していた、といいます。しかし彼女は善仁親王を遺して死去します。白河は何としても善仁親王の即位を目指します。しかしそこに立ちはだかるのが亡父の後三条の決定です。

 

白河に天運が巡ってきます。皇太子実仁親王が急死します。その虚をついて白河は善仁親王への譲位を強行します。これがいわゆる院政の始まりですが、白河本人にはそのような思いはなかったでしょう。彼はただ愛する賢子の面影を残す善仁親王皇位を無事引き渡したかっただけですから。

 

この白河の決定は摂関家にとっても渡りに船でした。師実の養女の所生の皇子ということは新たな天皇堀河天皇は師実の外孫になります。摂関政治は完全に復活したのです。

 

師実の息子で新帝堀河天皇の外伯父の藤原師通は堀河の関白となり、摂関政治は今まで通り存続していくかに見えました。実の娘がいなくても養女でも十分なのです。

 

芸道に優れ、多くの人に慕われる誠実な人柄であったと伝わる堀河天皇と、剛毅果断で謹厳実直な師通はよいコンビでした。この二人がいる限り引退した白河上皇に政務に関与する余地はなかったでしょう。

 

比叡山の強訴に対しても師通は毅然とした対応で臨みます。強訴に屈しなかったのですが、その四年後、彼は病死します。38歳の若さでした。これがその後の歴史を大きく変えてしまいます。

 

師通が死去した時、後継者の忠実は22歳、官職も権大納言で、地位、経験とも大幅に不足していました。

 

誰が堀河天皇の後見をするのか。一人しかいません。父の白河法皇です。また摂関家でもまだ若い忠実を庇護するのは引退してしまった師実と親しい白河法皇しかいません。本人の好むと好まざるとに関わらず白河法皇天皇家藤原氏の双方から必要とされたのです。

 

師通の死後は堀河天皇もそのプレゼンスを急速に低下させ、彼も師通の死後八年後に死去します。ここで敦明親王の血を引く輔仁親王の登極の可能性も取りざたされたのですが、白河は堀河の遺児で皇太子だった宗仁親王の即位を強行します。5歳の幼帝である鳥羽天皇を補佐するのはもはや摂関ではなく直系尊属白河法皇しかいませんでした。

 

1113年には鳥羽天皇呪詛事件が起こり、輔仁親王は失脚します。白河院政はここに確立することになります。

 

白河院政の力の源泉は天皇直系尊属として人事権に介入することができたことでした。それをテコに自らの側近を受領に押し込みます。受領は得たその利益を院に寄進し、結果として白河は大きな経済的利益を手にします。また白河はいわゆる軍事貴族と言われる河内源氏伊勢平氏も登用し、受領に抜擢していきます。

 

こうした院近臣と呼ばれる人々が院政を支えたのです。

 

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