記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座三月第二回「院政の開始と展開」予告2

オンライン日本史講座「研究者と学ぶ日本史講座」の予告編です。

 

ticket.asanojinnya.com

www.youtube.com

過去の動画はこちらになります。

www.youtube.com

 

白河院政は孫の鳥羽天皇の即位と永久の変に伴う輔仁親王の失脚で確立します。輔仁親王は三条皇統の敦明親王の血を引く皇子で、後三条天皇の本命の皇位継承者であった実仁親王の同母の弟宮です。それだけに摂関政治をバックに持つ白河にとっては好ましからざる人物であったことは間違いがありません。

 

そのころ白河には一つの課題が出てきます。鳥羽の摂政を誰にするのか、です。鳥羽の母親は苡子です。彼女の兄の公実が摂関に、と願い出てきます。公実は兼家の兄弟の公季の子孫で、閑院流と呼ばれていました。白河の母の茂子もそこの出身です。

 

しかし実際問題として百年近くに渡って摂関の地位から離れていた閑院流を摂関にするわけにはいきませんでした。閑院流にはノウハウが伝わっていません。結局いくら白河の信頼が厚く、白河や鳥羽の外戚である閑院流でも摂関を任せるわけにはいかなかったのです。結局御堂流の忠実が鳥羽の摂政になります。ここに外戚であろうとなかろうと摂関の地位を世襲する摂関家が確立します。

 

しかし摂関家天皇家の間のパイプが弱いことは白河にとっても気がかりだったのでしょう。白河は公実の娘で自らが養育していた璋子を嫡子忠通の妻にしようとし、また忠実の娘の泰子を鳥羽に入内するように持ちかけます。しかし忠実は璋子の奔放な男性遍歴やそもそも閑院流の公実に好感を持っていなかったことで忠通と璋子の縁談を断ってしまいます。

 

白河は璋子を鳥羽の中宮とし、泰子の入内の話は流れました。さらにほどなく璋子は皇子を出産、次の皇位は顕仁親王に決まります。これで焦った忠実は泰子の入内を鳥羽に直接申し入れます。また白河の存在をある種疎ましく思っていた鳥羽もまた泰子の入内に前向きになります。そしてこれらは白河の熊野詣での最中に行われました。

 

それに激怒した白河は忠実の内覧の権限を剥奪し、翌年には関白も罷免して忠通を関白にします。忠実は宇治に十年間にわたる隠遁生活を強いられることになりました。

 

白河院政はここに盤石なものとなりました。摂関家は完全に白河の統制下に入ってしまい、白河は璋子と鳥羽の産んだ顕仁親王天皇にします。ここに白河は擬制的ではありましたが、天皇の曽祖父と外祖父(璋子の養父)、摂関の父(忠通の養父)という地位を獲得しています。

 

彼は自らの信頼する近臣を受領に送り込み、経済的にもその基盤を強めていきます。そして軍事貴族を多く北面の武士として組織し、天皇家を権門として確立することに成功します。

 

ここで一つの議論があります。この顕仁親王、即位して崇徳天皇ですが、彼は本当に白河法皇の皇子だったのでしょうか。私の見るところでは現在はそれを否定する見解の方が有力なように見えます。

 

もう一つ、白河は女性関係が奔放でした。これは摂関政治と根本的に異なる天皇のあり方です。摂関政治では皇子をどうするか、というのは決定的に重要であり、摂関政治のもとでは天皇は厳しく監視されていました。ところが白河は皇位を譲っていることもあってそこは自由奔放にあちらこちらの女性に皇子を産ませています。白河が産ませた皇子の一人に平清盛がいる、というのも現在有力な見解となっています。

 

白河は43年間に渡って院政を敷き、七十七歳の長寿を全うしました。天下三不如意は、彼の絶大な権勢を表す逸話として有名になっていますが、むしろ彼がやり残した課題であるとも言えます。

 

ではその辺も含めて木曜日の午後8時30分からお待ちしております。

ticket.asanojinnya.com

www.youtube.com