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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座三月第三回「後白河院政」

最近はユーチューブでの動画配信にも勤しんでいます。

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Zoomライブの入り口はこちらから。歴史学のみならずZoomに関心のある方にも参考になるかと思います。

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後白河院政です。

 

保元の乱を勝ち抜いた後白河陣営ですが、基本的に後白河は二条天皇への中継ぎでしかありませんでした。美福門院は早々に後白河から二条への譲位を求め、信西がそれを了承したことで二条が即位しましたが、後白河は院政を実施します。それに不満を覚えた二条の外戚の大炊御門経宗は信西への反感を強めていきます。後白河院政でも側近の藤原信頼信西への不満を強めていきます。この両者が二条派と後白河派の垣根を超えて反信西で結合したことで平治の乱が勃発します。

 

平治の乱はしばしば源平合戦の始まりのように説かれますが、これは鎌倉時代における『平治物語』の叙述に引きずられているところが大きく、決して武士の争いに公家が巻き込まれたというものではありません。そもそも源義朝平清盛には争う動機はありません。

 

平治の乱は十二月九日事件と十二月二十五日事件の総称と見るべきです。十二月九日事件は信西殺害事件です。藤原信頼の指揮下に源義朝が後白河の御所であった東三条殿を襲撃し、信西を殺害しようと図りますが信西は間一髪脱出に成功するものの、執拗な追跡に自害に追い込まれる事件です。信西は家来に命じて自らを生き埋めにしましたが、生き絶える前に首を刎ねられ、その首は謀反人として都大路に晒されました。

 

この首謀者については諸説あります。旧来の説では信西が信頼の右大将任官に反対したことを逆恨みした信頼と、清盛に対抗する義朝が仕掛けたクーデターとみなされてきましたが、近年では大炊御門経宗の存在に注目することが多くなっています。つまり二条親政派が後白河院政の中核の信西を排除したのが平治の乱の本質である、というのです。また河内祥輔氏は黒幕を後白河本人としています。

 


保元の乱・平治の乱

 


天皇と中世の武家 (天皇の歴史)

 

実は無用の混乱を避けるためか、最大の軍事貴族である伊勢平氏の棟梁平清盛が熊野詣でのために都を空けている時に決行されています。乱を聞いて清盛はかなり動揺したといいますが、情勢を分析した清盛はとりあえず信頼と気脈を通じ、清盛を頼って逃げてきた信西の息子を信頼に引き渡しています。

 

この十二月九日事件の最大の勝者は信頼と義朝でした。武力を背景に強引に情勢をリードしたのです。信頼がリードした除目で義朝は播磨守に、義朝の嫡子の頼朝は右兵衛佐にそれぞれ任官します。

 

いわば信頼・義朝の一人勝ちともいうべき状態にそれ以外の陣営の不満が高まります。これを見て信西と親しかった閑院流三条公教は反信頼クーデターを仕掛けます。これが平治の乱の第二幕である十二月二十五日事件の本質です。

 

公教は清盛に切り崩しをかけます。河内源氏の急速な台頭に警戒感を持ち始めた清盛に公教の誘いは魅力的に映ったでしょう。清盛は公教の誘いに乗ります。さらに公教は経宗の切り崩しに成功します。経宗も信頼の急速な台頭に不満を抱き始めていました。

 

経宗が二条天皇を清盛のもとに連れ出し、後白河は御室に逃亡しました。

 

これで事件は終了した、はずでした。これまでの常識であれば信頼は降伏し、義朝も罪に伏して終了です。しかしここで破天荒な行動に出た人物がいました。義朝です。義朝は天皇の滞在する清盛の屋敷に武力攻撃を実施します。しかし源頼政らが離反し、義朝は東国に活路を求めますが、途中で殺されます。子供たちもあるいは処刑され、あるいは捕縛されました。

 

信頼は後白河の元に逃亡しますが公教は全ての責を信頼に背負わせたのでしょう。清盛に引き渡された信頼は「私が悪いんじゃない」と抗弁しますが「なんということを」と清盛にはねつけられ、その場で首を刎ねられました。信頼は従三位中納言という高位高官にありながら処刑されるという異例の事態となりました。これについては信頼の引き起こした事件が洛中での大量殺戮に繋がったことを重視したとする説や、信頼は武門として処理されたという説もありますが、そもそも正式の裁判も経ずにいきなり清盛に処刑させているところを見ると公教が信頼に全ての罪を背負わせ、口封じに処刑したと見るのが妥当かと思います。

 

信西の息子はこれで赦免かと思いきや、彼らが赦免されるのは経宗の失脚後です。

 

乱後に経宗は一気に二条親政を実現しようとし、後白河の反撃を受け、失脚します。後白河は平清盛に泣きついて経宗の所業を訴え、それを受けて清盛が経宗を捕縛し、後白河の面前に引きすえて拷問を加えた末に流罪に処されます。この背景には経宗を快く思わない忠通の動きがあった、とも言われます。

 

経宗の失脚と後白河の復権は思わぬ副産物をもたらします。捕縛され、処刑を待っていた義朝の遺児の頼朝については急遽助命の上、伊豆国流罪となります。その背景には頼朝が最初に仕えた上西門院の助命嘆願があったと考えられています。上西門院は後白河の同母の姉で両者は親密な関係でした。上西門院だけでなく後白河本人の意向もあった、とも言われます。逆に池禅尼が嘆願したのは上西門院からの斡旋があったのではないか、と考えられます。

 

清盛は二条と後白河の両方に気を使いつつ自らの地位を固めていきます。

 

しかしここで清盛も巻き込まれかねない陰謀が発覚します。清盛の正室平時子の妹の建春門院は後白河との間に憲仁親王を生んでいました。建春門院と時子の兄の平時忠は憲仁親王立太子させ、二条の次の天皇にしようと考えていました。バックにいる清盛の武力を背景にした宮廷クーデターを計画していたのです。しかし清盛はそれに乗らずに時忠らを処分し、二条天皇に忠誠を誓います。

 

清盛は摂関家を中心とした朝廷による王朝政治を理想の政治と考えていた節があります。彼は忠通の嫡子の近衛基実を擁立し、基実の嫡子の基通へと続く摂関家の正嫡を守ろうという路線を堅持していきます。

 

基実の妻は信頼の妹で、基通を生んでいます。平治の乱で彼女は遠ざけられますが、代わりに清盛の娘が基通の養母として基実と婚姻関係になります。摂関家の正嫡である近衛家としても伊勢平氏と連携することで自らの基盤を強化することは歓迎でした。

 

しかし二条天皇の死去によって二条親政は瓦解します。後継者の六条天皇は若く、摂政近衛基実とそのバックにいる清盛の支持があればこそ、なんとか成立している状況でした。清盛は権大納言に昇進し、六条・基実体制を支える支柱となりますが、基実が急死したことで清盛はついに後白河と結びつかざるを得なくなります。清盛は二条にも後白河にも気を使っていましたが、基本的には後白河の人間性や能力を評価していなかったようです。

 

憲仁親王立太子と同時に内大臣に昇進します。清盛の内大臣就任は極めて異例のことでした。武士が内大臣に、というのは間違ってはいませんが、正確に言えば院近臣の受領クラスの人物が大臣に任官することが異例だったのです。というのは当時は大臣の資格は厳格に定められており、皇族か摂関家の子弟か天皇外戚か大臣の息子しかなれませんでした。その壁を清盛は突破したのです。これについては清盛が白河の落胤であった、その実否はともかくそのように認識された、という説と、武力が評価された、という説があります。

 

もっとも清盛の任大臣は引退に向けた準備でした。内大臣になった3ヶ月後には当時には名誉職となっていた太政大臣に昇進し、3ヶ月で辞任しています。大臣にいたのはわずかに6ヶ月でした。ただ清盛にとっては最終的に大臣に上り詰めたことで、子息が大臣に就任する道を開いたことに意義がありました。

 

翌年、清盛は病に倒れ、出家します。清盛に万一のことがあれば政情が不安定になると考えた後白河は六条を退位させ、憲仁親王皇位につけます。高倉天皇でした。上皇の方が年下、という異例の体制でした。六条天皇はほどなく死去します。

 

高倉天皇のもとでの後白河院政と平清盛の協調はしばらく続きました。しかし両者はもともとソリがあったわけではありません。両者のパイプを担ってきた建春門院の死去で両者の関係には暗雲が垂れ込めます。

 

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