オンライン日本史講座三月第四回「後鳥羽院政」3
3月28日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。
ticket.asanojinnya.comここの「鎌倉幕府と天皇家の分裂」のところからお越しください。テーマが変更になっております。
源実朝が甥の公暁によって殺害され、公暁も討たれたことで源頼朝の子孫はほぼ断絶します。「ほぼ」というのは貞暁という人物は存命でした。政子の腹ではない子です。そのため実朝の生まれる直前に上京して出家しています。仁和寺から高野山に移り、修行に打ち込んで僧としての道を歩んでいました。
困ったのは後鳥羽上皇です。実朝との関係が後鳥羽の対鎌倉幕府政策の多くを占めていました。それが断たれたのです。
幕府の使者の二階堂行光が上洛しました。実朝が亡くなったため、後継の親王東下を実現するためです。当初後鳥羽は東下させるが時期を見て、とします。それに対して幕府は直ちに東下させるように求めます。『吾妻鏡』が当初後鳥羽が容認したが手のひらを返した、というようになっていて、当初から拒否の『愚管抄』と違いを見せているのは、後鳥羽のいけずを見抜けなかったから、ということかもしれません。
後鳥羽は最終的に全面拒否をしますが、それと同時に摂津国長江荘と倉橋荘の地頭職の改替を要求します。ここは後鳥羽の愛妾の亀菊の土地だったのですが、そういう問題だけではなく、実際にはここは交通の要衝であったようです。後鳥羽は神崎川と猪名川の合流地点で、京都と瀬戸内を結ぶ拠点であるこの荘園の地頭職を手放すように圧力をかけて幕府をコントロール下に置こうとしたのです。
その動きと並行して実朝亡き後の幕府をどうするか、という問題についての交渉も行わなければなりません。
幕府は北条時房に千騎の軍勢をつけて上洛させ、後鳥羽に圧力をかけます。結局地頭職の改替は実現しませんでしたが、親王下向も拒否しました。さらなる交渉の結果、九条道家の息子の頼経を後継者として下向することが決定しました。
この段階では後鳥羽はまだ幕府と敵対する予定はなかったようです。そもそもこの段階で幕府と敵対するつもりであれば頼経の下向も拒否するでしょう。頼経下向が実現した、ということはこの段階で後鳥羽と幕府の間に妥結が成立したことを意味します。
源頼茂が討たれたのも、倒幕の企みが頼茂に漏れたから、ではなく、逆で幕府からの頼茂追討に協力した、という方が正しいでしょう。頼経擁立を確実にするため、将軍職に野望を持つ源氏は滅ぼされなければならなかったのです。
坂井孝一氏は大内裏造営が一つのポイントになった、としています。頼茂追討の中で大内裏が焼失し、その再建に乗り出すことになりますが、費用負担を巡って反対の意見が多く出され、頓挫していきます。その中で後鳥羽は自らの意のままにならない幕府を自分のコントロール下に置こうとして幕府の中心である北条義時を追討し、自らのコントロール下に置こうとした、ということです。
河内祥輔氏は頼経の鎌倉殿就任で源氏将軍の関係者と頼経の関係者の間の亀裂が入り、それを解消するために頼経の鎌倉殿就任を阻止しようとしたが受け入れられず義時を討つことを決めた、としています。
何れにせよ、現在の主流は後鳥羽は幕府体制を否定しようとしたのではなく、幕府の内実を自分のコントロール下に置こうと考えた、というものです。
それに対し本郷和人氏は当時の幕府は北条義時がそのまま幕府を代表するものだったから、義時追討はそのまま倒幕と評価すべきだ、という議論を主張しています。
この辺の議論はまた講座本番の方で少し話になるでしょう。
後鳥羽の敗因については、色々言われていますが、鎌倉幕府サイドが後鳥羽をはるかに上回る兵を集めた、言い換えれば後鳥羽は幕府を完全に切り崩すことができなかったことに尽きるでしょう。この辺は講座をお楽しみに。
最後のポイントとしては乱後の処理です。幕府は後鳥羽らを流罪に処し、後鳥羽の兄を治天の君に、その子の茂仁王を皇位につけます。
この乱が朝幕関係の大きなターニングポイントであったことはおそらく一致しているものと思われます。
相次いで承久の乱関係の新書が出されていますが、もっと詳しく掘り下げたい方はさしあたりこれなどいかがでしょうか。出たてのほやほやで最新の成果も盛り込まれています。
承久の乱の構造と展開-転換する朝廷と幕府の権力 (戎光祥中世史論集8)
それでは講座をよろしくお願いします。
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