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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後小松上皇のお引越し

毎週水曜日の深夜の更新の歴史雑記帳です。

 

今日は後小松上皇足利義持の人間関係について考えてみたいと思います。

 

一般にはよかった、というのが多数説です。義持はしばしば後小松の仙洞御所に参院しています。この回数が非常に多く密接な関係がうかがえる、というものです。

 

それに対して桜井英治氏は「義持は後小松上皇という人間をまったく評価していなかったのだ」としています。

 


室町人の精神 日本の歴史12 (講談社学術文庫)

 

実は私も桜井氏の意見に賛同します。この二人、どう見ても仲良くなさそうです。頻繁な参院と仲の良さは別です。

 

後小松と義持の親密さ、というか、後小松が義持に甘えている構図として挙げられる後小松上皇のお引越しを見ていきたいと思います。

 

このお引越しについては石原比伊呂氏が考察しています。

 


足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)

 ここには後小松のお引越しの時に後小松がゴネたことについて「後小松もあまり聡明な人物ではなかったように思われてくるが、一方で「甘え上手」という絶対的な長所があった。義持も、そのような後小松の甘え上手っぷりにはお手上げだったらしい」と書かれています。

 

うまい表現だな、と思います。こう言われてくると義持と後小松の関係というのがいまく表現できているように思いますし「まったく評価していなかった」という評価ともそれほど矛盾しません。義持としては舌打ちしながら「仕方ないなぁ」とため息の一つも漏らしていたところでしょうか。あるいは苦笑していたでしょうか。

 

このお引越しについて少し詳しく述べてみたいと思います。

 

事の発端は応永23年(1416年)7月1日のことです。申初とありますから午後四時前後です。『看聞日記』によれば、随身下毛野武遠の下部が武遠の留守中に火を出してしまい、逐電しました。正親町烏丸から出火したといいます。

 

火は東洞院の仙洞御所を焼きました。仙洞御所は日野資教第を譲り受けた東洞院仙洞御所でした。資教はのちに禁闕の変に大きく関わる日野有光の父親です。禁闕の変が単に後南朝のものではない、という田村航氏の見解は従うべき見解と考えます。

 

内裏にも火の手は迫ります。義持と義嗣兄弟は内裏に駆けつけ、称光天皇に避難を進めると、この場から動かない、という称光天皇の言葉があり、刀を持ち、金の鞭を持って立ちはだかったので義持も諸大名に命じて数百人が清涼殿に上がり、火のついたところを切り落として事なきを得たといいます。

 

焼け出された後小松はどこに避難したのでしょうか。『満済准后日記』には「院御所御幸此坊」とありますので、満済のところに避難してきたことがわかります。ただここで後小松の避難先を醍醐寺三宝院とするのは早計です。満済法身院という里坊を持っています。現在の京都御所の範囲内です。で、『看聞日記』によれば焼亡したのは裏辻宰相中将宿所と万里小路時房第と先頭と烏丸薬師堂土蔵在家等十二町、ということですから、法身院は無事だったようです。『満済准后日記』にも法身院罹災のことは見えません。従って後小松は法身院に入ったのではないか、と思います。

 

内裏の消火に大車輪の活躍をした義持は、その日のうちに後小松を見舞っています。4日にも義持が院参しています。後小松と義持は盃を交わしています。二人とも酒飲みではあったようです。

 

五日に貞成は庭田重有を通じて後小松のお引越しについて説明を受けています。それによると広橋兼宣を通じて義持が後小松にいうには、勧修寺経興の屋敷が後円融院の先例に叶うのでそこに移動してほしい、ということでしたが、後小松が難色を示します。事情があるのでそこには行けないからしばらく満済のもとで厄介になる、ということです。内々では新しく作ってくれないのではないか怒っていたようです。

 

しかし実際問題として仙洞御所を仮のままにしておくことは考えられません。しかし後小松は義持が作ってくれない可能性を心配したのでしょうか。ゴネ出します。

 

義持は「もちろん作りますが、今はその間の御在所です」といいます。この時義持は少しばかり呆れていたとしても不思議ではありません。「そこは不断護摩行が行われているので魚食できませんよ」と忠告するとあっさり勧修寺亭で問題はないが破損しているので修理してほしい、と言っています。

 

満済准后日記』には四日に二人が面会していることが記され、翌日に後小松から松木宗量を通じて義持のもとへ勧修寺亭の荒廃のことが記されています。

 

この二つの史料を総合してみると、意思の疎通がうまく行っていなかった可能性が高いと思います。義持はあくまでも仮仙洞御所として勧修寺亭を提示したところ、仮御所であることを言わなかったので、後小松がそこに永住すると勘違いした、というのが真相ではないでしょうか。

 

それを受けて両者の直接の交渉が満済のもとで行われ、誤解が解けて五日には勧修寺亭の修理を行うことになったのでしょう。

 

その日のうちに新造事始日時が定められ、守護一国に一万疋ずつの費用の割り当てガオ行われています。

 

興味深いのは魚食不可と聞いて後小松が態度を軟化させているところです。よっぽど魚食が好きだったのでしょう。

 

7月17日に無事に勧修寺亭に渡御の儀があり、翌年6月には新造の東洞院仙洞御所にもどっています。この建物はのちに破却され、貞成親王に進上され、仙洞御所の跡地も貞成親王に進上され、伏見宮家の近臣たちが住むことになります。もちろん足利義教の後小松に対する嫌がらせです。