承久の乱と後鳥羽上皇
昨日のオンライン日本史講座の動画です。
二時間の動画と20分前後の切り取りの動画があります。
承久の乱はいわば北条義時の決断が全てだった、という気がしています。
当初義時はかなりぐずってました。それは当然です。今まで真正面から天皇家の権威に立ち向かって勝った例はないのです。義時は天皇を真正面から戦い、叩き潰すしか彼自身が生き残る道はなかったのです。しかしそれができるのか。逡巡するのは当然です。
義時は当初箱根付近に防衛ラインを敷いて抗戦する道を選ぼうとしていました。これならば天皇と真正面から戦う道を選ばずに済みます。向こうが攻撃してきたから止むを得ず防戦するという、いわば自衛の問題で済みます。しかしこちらから京都に攻めのぼる、となると天皇の権威を真っ向から叩き潰す道を選ぶことになります。
逡巡する義時を批判し、直ちに出撃して天皇に立ち向かうべきことを説いたのは、京都の貴族出身の大江広元でした。彼は追討使が派遣されるまでは時間がかかること、それ以前に立ち向かい、叩き潰せば天皇といえど勝者に後付けで権威を与えることを熟知していました。
一旦はそれで決まりかけましたが、それでもグズグズしています。思うように人数が集まらなかったのではないか、と考えられます。
再度広元はこちらから京都を攻撃することを主張します。義時は老衰のために隠遁していた三善康信を呼んで諮問します。康信は義時を叱りつけます。「今まで何をグズグズしていたのか。なぜ直ちに出撃しない」と。
北条政子が最終的な決断を下します。「広元と康信が一致した以上、朝廷を正面から叩き潰しなさい」と。
北条泰時がわずかな人数で出撃します。あっというまに人数は膨れ上がり、一方巡撫の整わない朝廷サイドは出遅れ、防御線を突破されてあっという間に勝負は決着しました。
後鳥羽サイドには計算違いがあったのではないか、と思います。
義時を討て、という院宣などを出せば鎌倉幕府は自壊すると考えていたとしても不思議ではありません。
さらに後鳥羽の致命的なミスは三浦胤義に命じて三浦義村に義時打倒を呼びかけたことです。義村は和田義盛の乱から一貫して義時をサポートし続けた人物です。彼に呼びかければ当然義時には筒抜けです。さらに胤義の使者と行動していた関東全体に院宣を回す役割をしていた使者も鎌倉で捕縛され、院宣は関東に出回らなくなりました。
一方義時は自らは逡巡して敗北の道を歩むかに思われましたが、広元、康信らの意見を取り入れ、乾坤一擲の決断をすることで勝利をものにしただけではなく、日本史を大きく塗り替えることに成功したのです。
入京した泰時は後鳥羽に対して流罪という処分を下します。これぞ後鳥羽上皇像という下の画像は、隠岐国に流罪が決定し、そのために身柄を洛南の鳥羽殿に移された際に、似絵の名手の藤原信実に命じて描かせた像と言われています。出家する直前の己の姿を書き残させたのです。