オンライン日本史講座四月第二回「南北朝の動乱」1
4月11日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座「研究者と学ぶ日本史」連続企画「中世・近世の皇位継承」「南北朝の動乱」のお知らせです。
南北朝の動乱を皇位継承という側面から説明するにはやはり持明院統と大覚寺統の問題から入る必要があります。
もっとも南北朝の動乱には様々な切り口があります。この時代は海域アジアレベルでも大きな変動があり、社会全体が大きく変容していく時代でありました。世界帝国であるモンゴルウルスが世界をゆるやかに統合し、「世界」が成立、その余波がモンゴル襲来という形で現れ、それに刺激されて社会の様々な矛盾が噴出する時期でした。
そのようなデリケートな時期に天皇家が分裂することもまた社会の変動に影響を与えることは間違いがありません。
前回は後嵯峨院政のもとでの天皇家分裂の問題については結局時間の問題もあって、触れませんでした。
従って下記のエントリの最後の部分を読んでいただければと思います。
かいつまんでいえば後嵯峨天皇は第二皇子の後深草天皇に譲位したものの、弟の亀山天皇に最終的に皇位を継承させたくなり、後深草から亀山に皇位を変えた上で亀山の皇子を皇太子に据えたところです。これに後深草が反発し、結果的に亀山皇子の次は後深草皇子を立てることに決定します。
結果論になりますが、これは鎌倉幕府にとって致命傷になります。我々は鎌倉時代の天皇の地位はもはや鎌倉幕府よりも劣るのではないか、政治的に何の役にも立たない、鎌倉幕府のなすがままの残骸ではないか、と錯覚しがちです。
しかしこれは正しくありません。当時の天皇家は大量の荘園群を保有する最大の荘園領主です。そしてそこには荘園群が生み出す利権構造があり、これのハンドリングを誤るとその矛盾は幕府に押し寄せます。
幕府はあえてこれに手を突っ込んだ理由として考えられている一つの考え方は天皇家を分裂させて弱体化を図ろうとした、というものです。確かにかつて後鳥羽は摂関家を九条家と近衛家の両方にイーブンにチャンスを与え、競わせることでハンドリングすることに成功した事例はあります。しかしそれはすでに近衛と九条に分裂していたからこそできた芸当であって、鎌倉幕府が挑んだ課題ははるかに危険な道でした。
更にいえば私は鎌倉幕府が天皇の権威を損なおうとして分裂させた、という見方はとりません。幕府にとって天皇の権威を傷つけてもいいことはありません。天皇の権威を十全に保った上で自分に都合よく使えるのが一番よいわけです。そして後嵯峨院政において天皇は幕府にとって理想的な形だったはずです。
私は後嵯峨が私情で火種をばら撒き、北条時宗はその火消しに入ったが、すでに遅かった、という見方をとっています。そもそも後深草を引き摺り下ろして亀山にその地位を継承させたことが無茶で、これについて遺志を残さなかった、という見方もありますが、私はこれ以上ない遺志を見せていると思います。その意志が貫徹したかどうかが問題なわけです。
結局無茶な遺志は幕府によって潰され、後深草皇統と亀山皇統が並立することになります。そして皮肉なことに幕府自身が皇統の分立に振り回されることになります。
北条時宗を支えたのはまずは外戚の安達泰盛、御内人の平頼綱、そして北条一門です。安達泰盛と平頼綱は対立関係にあり、時宗死後に両者は激突します。
時宗死直後、泰盛は弘安徳政と呼ばれる法令を出します。そこでは「鎮西九国の名主」に「御下文をなさるべき事」とあり、九州の非御家人を御家人化しようという動きが見られます。モンゴル戦争体制を継続するためには必要な事でした。
しかしそれに反発した平頼綱らにさらに北条氏一門、特に大仏宣時が頼綱に加担し、安達泰盛は滅ぼされます。
この動きの中で後宇多天皇から伏見天皇への譲位が成立し、さらに惟康親王を京都に送還して伏見天皇の弟宮の久明親王を将軍に据えます。これで鎌倉幕府は明らかに後深草皇統つまり持明院統を支持する姿勢を明白にします。
その結果、伏見天皇の次はその皇子の後伏見天皇となり、将軍と院と天皇を抑え、持明院統が完全に天皇家を掌握したかに思われました。
しかし平頼綱が粛清されます。頼綱の失脚に伴い、幕府の勢力図も塗り変わり、後伏見の次は後宇多皇子の後二条が付きます。
このころから幕府は両統迭立という形で大覚寺統と持明院統の双方から交互に天皇を出す方針になっていきます。これについては天皇の権威を減殺する目的という説と、幕府が皇位継承への介入から手を引こうとしていた、という説があります。
しかしどちらにしても幕府が無傷でいられるはずはなかったわけで、結果論になりますが、幕府のとった手はことごとく外れてしまいます。
後二条のころから幕府は金沢貞顕が連署に就任し、そのまま北条高時が14歳で執権に就任する事で貞顕の発言力が増してきます。貞顕は大覚寺統びいきでした。
それもあってか、後二条天皇没後、花園天皇が即位しますが、その皇太子に後二条皇子の邦良親王ではなく後宇多皇子の尊治親王をつけ、尊治親王即位(後醍醐天皇)後には邦良親王を皇太子につけることが決定します。
ここに幕府は大覚寺統に皇統を統一するかに見えました。
このような大きな決定が後宇多一人のスタンドプレーでできるわけはなく、私は金沢貞顕が大きく関わっているのではないか、と睨んでいます。
小心で慎重すぎる臆病な小物政治家というイメージで語られがちで、それは全く正しいと私も思いますが、同時に大覚寺統を贔屓し、花園上皇をブチギレさせているという側面もあります。もっとも小心で慎重すぎる性格と、持明院統を圧迫して花園上皇をキレさせる行動は矛盾しません。