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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座四月第二回「南北朝の動乱」2

4月11日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。

ticket.asanojinnya.com

テーマ名は「戦国時代の天皇」となっている4月11日のところからお越しください。

宇多院皇位継承戦略についての話まで進みました。

 

当時は後深草院の子孫の持明院統と、亀山院の子孫の大覚寺統に分裂し、交互に天皇に即位する両統迭立が行われていました。

 

それを終わらせようと大覚寺統の後宇多院が動いたのです。

 

後二条天皇が死去した時、後二条の父親で治天だった後宇多上皇は後二条の皇太子だった富仁親王花園天皇)の皇太子に後二条天皇の皇子である邦良親王ではなく、花園天皇より十歳も年上の尊治親王を皇太子に据えます。これは先を見据えた動きで、十年後に花園天皇から尊治親王後醍醐天皇)に交代した時に、邦良親王を皇太子に押し込むことに成功しました。

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後宇多天皇 天子摂関御影

この背景には治天の君であった後伏見上皇の積極的な政治姿勢を鎌倉幕府が嫌ったことが挙げられますが、鎌倉幕府自体を一体のものとして捉えることもそもそも間違っているのではないか、と考えています。鎌倉幕府内部にも持明院統びいきと大覚寺統びいきがあったことは理解しておく必要があります。金沢貞顕持明院統に肩入れする二階堂道薀をボロクソにけなしています。また花園上皇は貞顕のことをボロクソにけなしています。

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花園法皇 長福寺蔵

後宇多の皇位継承戦略はうまく行ったと言っていいでしょう。もともとはおそらくは後宇多の父親の亀山が第14皇子の恒明親王を後継者に推そうとしていたのを尊治親王とともに阻止に動いた、ということが発端だったのでしょうが、邦良親王をあとに回すことで、後醍醐の皇太子として邦良親王をつけることに成功しました。

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後醍醐天皇 天子摂関御影

問題は後宇多が死去したのちに表面化します。

 

後醍醐はあくまでも邦良親王即位への中継ぎです。しかし邦良親王に万が一のことがあった場合に備え、後醍醐とその皇子への皇位継承は認められていたのです。邦良親王康仁親王が生まれると後醍醐の子孫に皇位が継承される可能性はほぼ途絶えました。

 

後宇多法皇が亡くなると邦良と後醍醐の関係は決裂します。

 

後醍醐は倒幕に乗り出し、正中の変を引き起こす、とされています。これに疑義を呈したのが河内祥輔氏です。

 


天皇と中世の武家 (天皇の歴史)

 

河内氏の議論では正中の変における後醍醐の倒幕計画は後醍醐を陥れるための陰謀であり、後醍醐が無実であることは鎌倉幕府も認定した、といいます。

 

 この論は呉座勇一氏も支持しました。

 


陰謀の日本中世史/呉座勇一

 

私もそれに同意します。

 

後醍醐にとって重要なのは鎌倉幕府を打倒することではなく、皇位を確実に己のもとに継承させることです。そしてそれは邦良親王も、持明院統も同じです。

 

邦良親王が死去し、後醍醐は自らの皇子の継承を幕府に求めます。もし後醍醐が倒幕に関与していたらそのようなことをそもそもできなかったでしょう。

 

しかし幕府は持明院統量仁親王を後醍醐の皇太子に、その次の皇位継承者に邦良親王の皇子の康仁親王をつけることを通達します。

 

これは持明院統大覚寺統の両者の顔を十全に立てたものであり、後醍醐は本来それを認めなければならないはずのものです。しかしここで後醍醐は自分の子孫に皇位を継承させるために倒幕という最終手段に訴えることになります。

 

鎌倉幕府は内部崩壊によってあっけなく滅びます。結局幕府が滅亡する時に運命を共にしたのは北条氏とその周辺であって、幕府を支えてきた御家人や吏僚層は丸ごと足利尊氏に引き継がれます。

 

幕府によって皇位につけられた光厳天皇と皇太子の康仁親王はその地位から引き摺り下ろされます。建武政権の樹立です。

 

後醍醐の建武政権は復古だった、いやいや宋朝風の独裁体制だった、と侃侃諤諤の議論がなされますが、現時点での最良の書籍といえば私は以下の書物をあげます。

 


南朝研究の最前線 (歴史新書y)

 

この中の亀田俊和氏の「「建武の新政」は反動的なのか、進歩的なのか?」によると、近年の研究は鎌倉幕府建武政権室町幕府は政策面において連続しており、建武政権は鎌倉期朝廷ー幕府と室町幕府の中間に位置付けようとしており、現実的・有効な改革政権として評価されている、とされています。

 

従来は後醍醐の政策があまりにも突飛で、受容されなかったために崩壊した、と捉えられてきたわけですが、近年では後醍醐の政策が突飛だった、というわけではないという評価であると理解しています。

 

尊氏の離反が決定的だったとはいえそうです。

 

尊氏は後醍醐によって廃位された光厳上皇(後醍醐は皇位を取り消したが太上天皇号を贈呈した)を擁立し、ここに南北朝の対立が引き起こされます。