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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座四月第二回「南北朝の動乱」4

4月11日のオンライン日本史講座で出された論点の整理です。

 

正中の変はなかった、のか。

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後醍醐天皇 清浄光寺

 

これに関しては河内祥輔氏、亀田俊和氏、呉座勇一氏によって後醍醐が倒幕に舵を切ったのは1330年ごろであって、正中の変は後醍醐を陥れるための陰謀ではなかったか、と主張していて、私もそれに同意していますが、金子哲氏は呪詛が存在したことは事実であり、正中の変がなかった、というのは危ない、と主張しています。

 

その呪詛が幕府なのか、邦良親王なのか、量仁親王なのか、わからない、と私は考え、正中の変はなかった、という説を改めて主張しましたが、終わって風呂に入りながら考えていると、そもそも呪詛をした段階で後醍醐が何かをやっていることは事実で、「正中の変はなかった」というのは言い過ぎかも、と思いました。

 

で、改めて先行研究を見直してみると「正中の変はなかった」というのではなく、「後醍醐の倒幕計画はなかった」とあるので、正中の変はなかった、というのは私の言い過ぎです、はい。

 

ということで、私は河内、亀田、呉座説の「後醍醐の倒幕計画は一回」という考えに賛同します、と言い換えるべきでした。

 

少なくとも後醍醐の倒幕の志をいつから抱いていたのか、という問題に関してはかなり幅があるな、という印象です。

 

次に大覚寺統後宇多法皇の問題です。

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宇多院 天子摂関御影

宇多院花園天皇の皇太子に尊治親王を据え、尊治践祚後醍醐天皇)後は後二条天皇の皇子の邦良親王を皇太子に据えて大覚寺統に皇統を統一しようとしている、という点ですが、大覚寺統を強く考えすぎではないか、という意見が金子氏より出されました。

 

この点に関しては私は金沢貞顕を介して考える必要があるのではないか、と考えていますが、大覚寺統がなぜ一時的に持明院統を一見圧倒できるような、天皇と皇太子の独占ができたのか、ということについては慎重に考えていく必要があると考えています。

 

私見を少し述べるならば、1315年の「関東御免津軽船」をめぐる裁判の経過というのは非常に興味深く、これはずっと論文にしたいと思いながら見送り続けている案件ですが、何度目かの正直といきたいものです。

 

津軽船が抑留されたのは越前国三国湊です。ここは興福寺大乗院門跡の所領で、守護不入の地です。そこに「関東御免」の船が入ってきたことで、「寄船」と言いがかりをつけて荷物を奪い取る事件がありました。

 

これは船の持ち主の本阿が勝訴し続けるのですが埒が明きません。結局守護不入の地であり、ここに判決を実行させるには大乗院が動かなければどうしようもないのです。しかもこの時の越前国知行国主は後宇多院でした。つまり後宇多院を動かせばあるいは大乗院も動く可能性が出てきます。

 

折しもそのころ鎌倉では金沢貞顕連署に就任します。貞顕といえば後宇多のために室町院領を花園から取り上げて「貞顕張行」と花園をブチギレさせています。その見返りに後宇多がこの解決をはかった、とみるのはいかがでしょうか。

 

と、ここまで書いてきて「これって史料的裏付けとれてないよな」と思いました。で、「取れる可能性あるのか?」とも思いました。そこでいつも挫折しては報告ではお茶を濁し、論文にはできないんですな。反省してます。

 

何か考えんと、というわけで実はラボール京都の講演会で「大覚寺大覚寺統」という題と、「兼好法師吉田兼好はいなかった」という題でそれぞれ講演します。後者は小川剛生氏の悪くいえばパクリ、よく言って劣化コピーにしかならない、目指すところは小川説の詳細な紹介、というところなのですが、私自身金沢貞顕書状に出てくる「兼好」ってどうみてもあの兼好法師だよなぁ、と思っていたので小川説はものすごくしっくりきます。これは兼好法師よりもその主であった金沢貞顕にスポットを当てる、羊頭狗肉という私の得意技です。

 

後宇多の話にもどしますと、後宇多はなぜ院政を停止したのか、という問題があります。金子氏はそれについては病気だったのではないか、ということで、私もそういう気がします。

 

後宇多が院政を停止し、後醍醐親政がはじまるのですが、これは後宇多が自発的に院政を停止したのか、後醍醐が強制的に院政を停止したのか、ということが議論になりますが、後醍醐が院政を停止することがそもそもできるのか、と考えると後宇多の方に主体性がありそうな気がしますが、後宇多がそもそもなぜ後醍醐に治天の君の地位を譲るのか、を考えれば病気説は非常にわかりやすいという気がします。実際後宇多は後醍醐に治天の君の地位を移譲してからほどなく亡くなります。

 

他にもいろいろ興味深い話が出ましたので動画がアップされ次第みてくださればと思います。動画がアップされ次第ここでお知らせいたします。