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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座四月第三回「室町時代の皇位継承」2

4月18日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のご案内です。

 

ticket.asanojinnya.com

後光厳天皇室町幕府管領細川頼之の支持も取り付けて無事に後円融天皇に譲位することができました。

 

後円融天皇といえばやはり足利義満による王権簒奪のターゲットというイメージが強いです。この問題は古くは大正時代の田中義成『足利時代史』以降度々取り上げられてきましたが、やはりこれがよく知られるようになったのは今谷明氏の『室町の王権』が大きいでしょう。

 


足利時代史 (講談社学術文庫 341)

 


室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)

 

現在では義満による王権簒奪という考えは成り立たない、というのが多数説となっています。

 

義満と後円融の対立は、朝廷の政務をめぐる個人的な軋轢から始まり、後円融が義満を忌避するようになって朝廷が機能不全に陥り、結果義満が朝廷の後見を努めるようになってしまったと見られています。

 

後円融は当初は足利義満とは仲が良かったようなのですが、時間に厳密な義満と、きままな後円融はやがて対立するようになり、また義満が信頼した二条良基と後円融の対立もあってこの両者は決定的に対立するようになります。

 

この辺の事情については早島大祐氏の『室町幕府論』にかなり詳しく載っています。

 


室町幕府論 (講談社選書メチエ)

 

 特に後円融が後小松天皇に譲位したのちの後小松の即位式をめぐって両者は激突し、それをきっかけに後円融は政務を放棄し、義満による治天の地位の代行が始まります。

 

この辺の経緯は石原比伊呂氏の『足利将軍と室町幕府』が詳しいです。

 


足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)

 

 後円融上皇が義満の参院を拒否したため、義満は参院を遠慮することになり、それを慮った廷臣たちも参院を遠慮し、結果、後光厳院10回忌は非常に寂しいものになりました。

 

後円融の精神が追い詰められていく中、大きな事件が起こります。通陽門院殴打事件です。

 

通陽門院は後小松の生母で、三条公忠の娘でした。公忠は少し前に自分の土地の訴訟に義満を通じて案件を解決しようとしていました。それが後円融の機嫌を痛く損ねることになります。

 

通陽門院は皇女を出産後内裏に戻ってきましたが、準備不足を理由に後円融の召を断り、逆上した後円融が通陽門院のところにやってきて峰打ちします。通陽門院は重傷を負い、急を聞いて駆けつけた後円融生母の崇賢門院がなだめている間に通陽門院は脱出に成功し、ことなきを得ます。

 

しかし騒ぎは拡大し、後円融は寵愛していた女官を義満に通じていた、として追放し、義満が自分を流罪に処そうとしているという妄想に取り憑かれて自殺未遂を行い、後円融の権威は失墜します。

 

そのころ義満は伏見に隠棲していた崇光のもとをしばしば訪れ、崇光が義満の盃を受けたことの謝礼に1億円程度の献金を行なっていますが、これは崇光とその子孫が皇位継承を諦めたことへの謝礼でしょう。義満にとっては後小松をどこまでも擁護し、確立する必要があったのです。そして後光厳皇統を続かせるためならばそれの障害はできる限り取り除かなければならない。崇光皇統もそうですが、皮肉なことに後円融も後光厳皇統の永続のためにはならない、として切られた、と考えるべきでしょう。

 

後円融の死去後は義満による庇護はさらに強まり、義満があたかも上皇のように振る舞うようになります。

 

義満の出家については世俗の規範から脱し、皇位簒奪に向かうための準備という見方もありますが、桜井英治氏はそれを明確に否定します。

 


室町人の精神 日本の歴史12 (講談社学術文庫)

 

 他にも日本国王も現在では貿易の利益に着目したもので、皇位簒奪とは切り離して考えるべきである、というのが多数説です。

 

南北朝合体も義満が前のめりになって進めたものといっていいでしょう。義満は後亀山天皇太上天皇の尊号を奉呈します。北朝サイドの反発が大きかったにも関わらず、です。ましてや両統迭立の条件など義満の個人プレーであったからこそ、義満の死後には完全に破棄されてしまうのではないでしょうか。

 

私は義満はそれなりに真剣に南北朝合体を前のめりに進めたと考えています。後光厳皇統の安定のためには南朝は何としても取り込まなくてはならない。そのためには大幅な譲歩も必要だろうと考えていたのではないかと思います。

 

しかしこれは結局禍根を残すことになります。義満の死去後、足利義持後小松天皇率いる朝廷は両統迭立を無視し、後小松の皇子の躬仁親王の即位に動きます。これに後南朝は反発します。この遺恨は長く尾をひくことになります。