昔の改元の時の候補とその出典を見てみよう3−嘉吉から文安へ−
平成から令和への改元に便乗した企画、後花園天皇の時期の改元の出典を見ようという企画です。一体どのような改元案が、どのような出典に基づいて出されていったのか、ということを見ることで、間も無くとなった改元がより身近に感じられると思います。
この年は甲子の年に当たっており、甲子は辛酉の四年後で徳のある人物に天命が下る革令の年なので変乱が起こりやすく、それを回避するために改元を行います。甲子の年に改元を行わなかったのは永禄7年の例だけです。これは足利義輝と三好長慶が対立している中で改元を強行すると本当の戦乱が起こりかねない、と危惧したからだと言われています。
長い年号の一つのポイントは辛酉・甲子の年に当たらないことであることがわかります。
それでは見ていきましょう。
徳寿(『漢書』「尭舜行徳則民仁寿」)
安永(『文選』「寿安永寧」、『唐紀』「保安社稷永可奉宗祧」)
寧和(『文選』「区寓又寧、思和求中」)
長禄(『韓非子』其建生也、長特(ママ)禄也永」)
万和(『文選』「万邦協和施徳百蛮、而粛慎致貢」)
権中納言藤原兼郷(広橋家)
承慶(『晋書』「順祖宗下念臣吏万邦承慶」)
正二位行式部大輔菅原在直(唐橋家)
文安(『尚書』「欽明文思而安安」)
平和(『尚書』注、「九族而平和章明」)
左大弁三位菅原益長(東坊城)
寛永(『毛詩』「考槃在澗碩人之寛独寝寤言永矣」『弗⬜︎(言に爰)注』「碩大寛広永長」)
建正(『周礼』「乃施法于官府而建其正」)
洪徳(『文選』「皇恩溥洪徳施」)
東坊城益長は前回に引き続いて「洪徳」を出しています。むかし足利義満が応永改元の時に出してポシャったやつです。
あとメンツでは烏丸資任が気になります。彼は永享の乱の時に出された治罰綸旨の奉者を務め、また足利義政の養い親でもあった人物です。後花園上皇が出家する時にお付き合いで出家した人物でもあります。一方で足利義教に補任された山国荘の代官の時に後土御門天皇と対立し、後土御門は昔の飲み友達で不倫の噂まで建てられるほど親しい日野富子に介入を依頼しましたが、無理、と言われた人物です。富子の威光でも義教が決定したことはそう簡単には覆らないことを示していると思います。
高辻継長は後花園崩御時に「後花園」と「後文徳」を候補として提出した人物で、なおかつ後花園の侍読を務めました。
広橋兼郷は『兼宣卿記』で有名な広橋兼宣の息子で、姉は大納言典侍として後花園の女官のトップを務めています。数ヶ月前の禁闕の変では三種の神器を持ち出そうとして賊に奪われてしまいます。また兼郷自身は後花園の避難場所になりました。裏辻持季の屋敷から近衛房嗣の屋敷に逃げる途中、後花園は兼郷の屋敷に立ち寄っています。
にも関わらず貞成親王を誣告した罪で洛中から追放処分になり、ほどなく死去します。貞成親王が太上天皇の尊号宣下を受ける少し前の話で、後花園の弟の貞常王の親王宣下が延期される事件が起こり、その責任を背負わされたようです。