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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座四月第四回「戦国時代の天皇」2

4月25日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座「戦国時代の天皇」のお知らせです。

 

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戦国時代がいつから始まるのか、ということに関してはこれはこれでいくつかありまして、よく知られた応仁の乱から、という見解の他に享徳の乱から始める、という考えと、明応の政変まで引き下げる考えがあります。

 

さしあたって応仁の乱から始めるとしますが、後花園天皇応仁の乱の関連を見る場合、やはり後花園天皇の時代に乱発された治罰綸旨について考える必要があります。

 

治罰綸旨とは「朝敵を討て」という綸旨です。南北朝時代には当然ですが乱発されます。そもそも足利尊氏光厳上皇を奉じたのも後醍醐天皇の綸旨に対抗するためです。後光厳天皇の擁立が足利義詮にとって必要なのも治罰綸旨の問題があったでしょう。

 

しかし対天皇ではなく、足利家とその家臣の戦闘では綸旨は必要ありません。明徳の乱応永の乱で治罰綸旨が使われなかったのはそういう意味があります。ちなみに明徳の乱とは山名氏の反乱で、応永の乱は大内義弘の反乱です。

 

山名時氏にせよ大内義弘にせよ、足利義満からすれば臣下であり、わざわざ天皇の命令を出す必要がないものです。あくまでも義満の責任で処理すべき問題とみなされていました。これを天皇の権威を削ぐために綸旨を発給させなかった、と見るのは違うのではないかな、と思っています。

 

南北朝合体後、上杉禅秀の乱足利義嗣の失脚という問題もありましたが、概ね応永年間は平和な時期が長く続きます。その間はそもそも治罰綸旨を出す必然性はありません。

 

永享の乱後花園天皇足利持氏治罰綸旨を出すのが室町時代における治罰綸旨の復活の始まりです。これについては昔から足利持氏を討伐するだけの権威を足利義教が持っていなかったから綸旨を奏請したとされてきましたが、近年皇統が決まらず権威の動揺する後花園天皇の権威を確立するために綸旨を出させることにした、という見方も出ています。(田村航「ゆれる後花園天皇」『日本歴史』818号、2016年)

 

嘉吉の乱においては細川持之が弱った挙句に綸旨奏請を決断すること、朝廷内部では所詮赤松満祐が足利義教の家臣であり、幕府内部で処理すべきこと、という意見があり、どちらかといえば大勢では綸旨発給には及び腰でしたが、後花園天皇が積極的に出したために綸旨が発給され、それ以降幕府に対する後花園天皇のプレゼンスが増しました。

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足利義教の時代に泥沼化した大和国の国人の争いに端を発した筒井順弘と成身院光宣の間の争いの解決のために、嘉吉の乱管領となった畠山持国は順弘治罰綸旨を奏請し、戦乱の終わりには赦免の綸旨も奏請しました。

 

これについては綸旨なくしてはもはや幕府は戦争を始めることも終わらせることもできない、綸旨依存体質になり、天皇の権威の大幅な向上が見られる、とされてきましたが、一方でそもそも後花園天皇に綸旨の発給の主体性があるのか、ということも言えます。ここは単純に天皇の権威が向上したか、しなかったか、という議論ではなく、なぜ綸旨が必要とされたのか、ということをじっくりと詰めていく必要があると考えます。

 

後花園退位後の院宣についてもいろいろ考えねばならないところがあります。退位後の日程がスッカスカなのは昨日のエントリからも明らかですが、しかし勅撰集の事業を始めるのは後花園の院宣でした。そういう意味では院政を敷いていたと評価されるわけです。

 

応仁の乱の引き金を引いた上御霊社の戦いでは後花園の院宣が山名側に出されていた、と『公卿補任』には記されています。とすれば畠山政長が山名方にボッコボコにされたのは後花園の院宣に従った結果であり、その意味では後花園の政治責任は極めて重いと言わざるを得ません。足利義政はあくまでも畠山家内部の問題として処理しようとしていたわけですから。

 

細川勝元の庇護下に入った段階で後花園の院宣が要請されましたが、日野勝光がこれに反対し、勝元からその命を狙われていますが、近衛政家は勝光が山名方に通じていたからだとしています。勝元からすれば勝元に味方しないのは山名に通じているからだと考えたとしても不思議ではなりませんが、後花園としてはどちらかに与するわけにはいかない事情もわかります。

 

しかし最終的に後花園は治罰院宣を出します。これについては和平を求める院宣を勝元が読み替えたという説もありますが、私は同意しません。勝元は後花園の院宣の意図を正しく読み取り、それを実行しているだけです。その背景には山名方に足利義視が擁立されたことと関係があります。

 

しかし山名方もさるもので、西軍から西方幕府としての地位を獲得した山名方はさらに天皇を求めて後南朝を擁立します。それに対して後花園も後南朝の討伐に全力を挙げるようになり、蜂起した後南朝の皇族の首が届けられたりしました。

 

しかしその後後花園は崩御し、応仁の乱も終息に向かうと後南朝の皇子は不要となり追放されてしまいます。

 

応仁の乱の勃発によって後花園・後土御門は室町第に居住するようになり、朝廷と幕府の間の緊張感は失われ、朝廷の独立性は失われます。また朝儀も行われなくなり、朝廷の存在意義すら失われようとしていきます。

 

後土御門天皇は毎晩のように足利義政日野富子夫妻と酒盛りに興じるようになります。時には義政が退出したのちも富子と酒を飲んでいることもあり、富子と後土御門の間には男女の関係が疑われるほどに親密さを深めていきます。

 

後花園の時期に朝幕関係は極めて接近し、後土御門の前半期にそれは頂点に到達した、と考えています。しかし後土御門の後半期は幕府と朝廷が少しずつ離れていく時代でもありました。