オンライン日本史講座5月第1回「天下人と天皇」2
5月2日のオンライン日本史講座「中世・近世の皇位継承」「天下人と天皇」のお知らせです。
正親町天皇と信長の関係について、ここでは譲位をめぐる議論を取り上げたいと思います。
織田信長は数度にわたって正親町天皇に譲位を要請しています。しかしそれは延び延びになって、信長の死後に譲位が行われます。しかしその直前に儲君の誠仁親王は薨去し、結局皇孫の和仁親王(後陽成天皇)が践祚、即位することになります。
これに関しては信長を革命者として捉えると信長が譲位を迫る、というイメージが強くなります。そしてそのイメージを強めるのが正親町天皇の父も祖父も曽祖父も、三代百年にわたって皇位継承は天皇の崩御を持って行われてきた、という「伝統」に基づくものと考えられてきました。
しかしもっと視点を広げて考えれば、譲位して院政を敷く、というのが本来の姿であって、天皇の崩御によって皇位の継承が行われる、というのはむしろイレギュラーなものだったのです。
しかし応仁の乱によって室町幕府の基盤が崩壊すると譲位のための費用を出し渋るようになります。後土御門天皇が譲位をほのめかしながらもついに譲位できなかった事情は先に見た通りです。
譲位するためには意外と金がかかります。
まず新しい天皇の即位礼の費用です。天皇が崩御して不可抗力であればその費用もなんとかしようとします。実際にはそれも滞るのは後柏原天皇や後奈良天皇の例を見える通りですが。
次に仙洞と禁裏は別にしなければなりません。そのために仙洞御所の造営費用がかかります。これは意外と大きく、造営して終わり、ではなくその維持管理、さらには仙洞御所に仕える人々の費用などかなりかかります。したがって譲位したくてもできなかった、と見るべきです。
したがって「譲位してください」というのは「譲位のための費用は御任せください」という意味であって、その費用は実はハンパないものであった、ということを理解すれば、譲位は信長が強要したものである、という見方はやはり成り立たない、と見るべきでしょう。
馬揃えも正親町天皇への軍事的圧力である、という見方も存在しましたが、現在の研究ではむしろ正親町天皇の要請で、正親町天皇の典侍で誠仁親王の生母の万里小路房子の死去後の忌明けのイベントであると見られています。
改暦問題も信長が三島暦をごり押しした、と見られていますが、暦が複数存在する状態が望ましくなく、暦を統合しようとしたものであり、必ずしも信長は宣明暦を強硬に排除しようとしたわけでもなく、まして信長が朝廷をないがしろにしていたわけではない、という見方がなされています。
基本的に信長は朝廷を支えこそすれ、敵対するつもりはなかったと考えられています。ただ単に無条件に朝廷を尊崇していた勤王家であったか、というとそれも違うようで、信長は「天下」を構成する重要なパーツとして朝廷を扱い、したがって「天下静謐」に違反するような場合は朝廷にもおそれず叱責、諫言を加える、という立場であって、場合によっては朝廷に対しても強い態度で出ることもあったようです。
ここまで見てきて考えるのは足利将軍家と朝廷の関係です。足利義満・義持・義教というのはそのアプローチする相手もそのアプローチする方法も違えど、朝廷を重要な政務運営のパートナーとしており、そのためには朝廷に対しても強く指導し、時には天皇であっても院であっても叱責を加えることをやっていました。
信長が室町幕府を叩き潰したというよりは、室町幕府を「天下静謐」を担いうるような形にしようと悪戦苦闘していたことは近年明らかになりつつある、と考えますが、室町幕府と朝廷と信長の関係はそれぞれきりなはして考えるのではなく、連関させて考えていく視点が必要でしょう。
最近織田信長と朝廷・室町幕府との関係について勉強する機会を与えられましたので、この辺の勉強にも励みたいと思っています。
実を言えば織田信長とか豊臣秀吉というのはメジャーすぎて今まで食指が動かない、というか、食わず嫌いなところがあったのですが、いい機会に恵まれ、新たな分野に向けて励んでいます。勉学の成果をお見せできるように励みたいと思います。
追記(2019年5月2日)
暦のところに早とちりがあったので少し訂正しました。