足利義政袖判御教書(『朽木家古文書』国立公文書館)
前回お休みをいただいた古文書講座です。
YouTubeでこれを配信することも考えてはいますが、かなり恥ずかしいので考え込んでいます。期待せずにお待ちください。
とりあえず写真です。
朽木家古文書26号文書です。
釈文行きます。
(花押)
近江国朽木庄事、為料所
百貫文致其⬜︎(沙)汰、於下地者、佐々木
朽木信濃⬜︎⬜︎(守貞)高領掌不可有
相違之状如件
長禄四年十二月十四日
読む下しです。
近江国朽木庄の事、料所として百貫文、其の沙汰を致し、地下に於いては佐々木朽木信濃守貞高の領掌相違あるべからずの状件の如し。
朽木荘が室町殿御料所に編入され、朽木氏は百貫文の負担を命じられてしまいました。
その代わりと言っては何ですが、現地の支配については朽木貞高が引き続き保証されています。
この御料所編入とその下地支配の保証というのは、いわば荘園における寄進のようなもので、朽木氏にとっては痛し痒しといったところでしょうか。ポイントは朽木氏の領主権の強さにあるわけで、朽木氏が強力な支配を確立できていれば御料所編入は一方的な損害です。しかし朽木氏の支配が弱体化していれば、百貫文を払って将軍家御料所の代官として安定した支配を貫徹できれば、幕府とwin-winの関係を結べます。この場合どちらだったのか、私は詳しくは知りませんが、後者の可能性が高いのではないかと考えます。
長禄四年は十二月二十一日に寛正と改元されます。飢饉による改元で、この飢饉は猖獗を極め、洛中で八万人を超す餓死者が出たと言われています。
しかもこのころには幕府と鎌倉府の関係が悪化し、義政は成氏討伐を本格化させます。義政にとっては金はいくらあっても足りません。
一方朽木貞高の事情です。
これを見る限り、これをきっかけに朽木貞高は京都との関係を深めています。貞高は後土御門天皇の大嘗会にも足利義政の帯刀として参加しています。義政はこの時の大嘗会では左大臣として大嘗会にも積極的に参加しており、貞高もさぞかし面目を施したことと思われます。
結局応仁元年には戦功によって返却されたようで、これも含めて朽木氏にとっては非常に大きな意味があった、ということは言えそうです。