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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第3回「江戸中期の天皇」3−尊王思想の勃興

十九世紀に入ると尊王思想が本格的に台頭してきます。しばしば尊王思想といえば幕末の急速な台頭というイメージがありますが、寛政年間には大政委任論が出され、天皇を幕府の権威を高めるものとしてであれ、天皇の権威を向上させる考えが出されています。

 

さらにその萌芽はもっと早くに登場しており、天皇権威をめぐる思想的動向は十七世紀ごろにはかなり出てきています。これを主導したのが天照大神を中心に形成された神道思想で、これこそが惟神の道だったのです。

 

という話がしばしば学問的真実であるかのように語られますが、ここのところは爆風スランプの「リゾラバ」の最初のところの歌詞がぴったりくるでしょう。

 

中世における神道思想は基本的に仏教です。仏教教理を基にして、そこに神々を当てはめていく形で神話の体系は形作られていました。両部神道はその代表的なものです。また反本地垂迹説という形で仏教の世界観を換骨奪胎し、神を仏の上においた伊勢神道も天台本覚思想の教義を流用する形で形成されていました。そして当時朝廷に大きな影響を与えていた吉田神道伊勢神道と同じく反本地垂迹説という形で神を本とし、儒仏の教義を取り入れて形成されていました。

 

江戸時代に入って儒仏の分離が始まり、儒学は独立した一つの思想体系としての地位を獲得します。そして現れたのが儒家神道です。

 

儒家神道儒学者による日本の神々の解釈ですが、そのベースは儒学であるために易姓革命を首肯します。日本における易姓革命は実は南北朝合体である、という考えが存在しました。南朝が正統で、その正統は天皇から足利将軍に移ったのだ、と考えたのです。

 

確かに室町時代の例えば後花園天皇足利義教の関係を見ていると、完全に足利義教が主で後花園天皇が従です。義教の突然の死去によって後花園天皇が朝廷で義教が果たしていた役割を引き継ぎ、さらに空白となっていた室町殿権力の一部を代行するようになるのは、それ以前の段階で朝幕が幕府を主とする形で一体化していたからです。

 

それに対し朱子学者の山崎闇斎垂加神道を唱えます。そこでは皇祖神天照大神に対する信仰が強調されます。天照大神は当時どちらかといえば皇祖神というよりは農業神であったのですが、皇祖神としての側面を重視し、天照大神への信仰こそが神道である、と考えます。

 

山崎闇斎の最大の特徴は易姓革命を認めないことです。天照大神の子孫である天皇が日本を統治するべきであり、天皇こそが日本の君主である、というわけです。

 

この思想は天皇の権威を幕府が利用する限りにおいては例えば松平定信のような大政委任論という形で朝廷のみならず幕府にもよい影響を及ぼします。したがってこれがそのまま尊王倒幕には繋がらないのですが、尊王攘夷を媒介とすることで倒幕論にまで行き着いてしまいます。

 

闇斎の門人に連なる竹内式部という人がいます。彼は徳大寺家に仕え、徳大寺公城らに神道儒学を講義します。

 

それだけであれば何の問題も起こりようもなかったはずです。尊王論は倒幕論とはこの段階では結びつきません。

 

しかし当時の摂関家の状況がこの竹内式部の講義をまずい方向に持って行ってしまいます。当時摂関家は混迷の最中にあったのです。摂関家は当時の朝廷の政務運営の執行機関です。そしてそれ以外の公家は政務に関与することはできませんでした。

 

例えば九条家では1743年に九条稙基が19歳で死去したため、出家していた叔父の九条尚実が還俗して継承しています。

 

鷹司家では鷹司基輝が17歳で急死し、急遽閑院宮家から養子を迎え、輔平としています。

 

近衛家近衛内前は1728年生まれでまだ若く、一番経験豊富な一条道香が1737年から摂関の地位にありました。

 

当時の天皇はこれもまた若い1741年生まれの桃園天皇です。桜町天皇の譲位を受けて即位していますが、まだ6歳で桜町上皇院政が敷かれていました。

 

桜町上皇は在位中に数々の朝儀を復興し、天皇の権威を高めた天皇です。しかし彼は院政を敷いてわずか3年で崩御します。残された若き桃園天皇には父桜町上皇の存在が大きくのしかかっていました。

 

桃園天皇のもとへの竹内式部の進講が実現し、『日本書紀』を講義することになりました。式部は『日本書紀』を垂加神道に即して解釈し、それが摂関や女院(桃園母)の反発を買ったもののようです。

 

これが摂関家を刺戟します。一条道香天皇の近習七名を追放し、公家の武芸稽古を京都所司代に訴え出ます。これに激怒した天皇と摂関の足並みの乱れが見られますが、摂関の支持を失った天皇はもはや何ともしようがありません。しかも桃園天皇はまだ18歳です。センチメンタルジャーニーではありませんが、「18だ〜から〜」です。

 

ちなみにこの時に幕府を転覆する動きがあった、ということも言われていますが、実際のこの処分を行ったのが摂関家で、幕府に相談せずに行われ、幕府から抗議が来るほどだったので、幕府を説得するための捏造ではないか、と思われます。

 

結局式部は公家に講義をしたこと、しかもそれが四書五経だけではなく、浅見絅斎の『靖献遺言』を講義したこと、というほぼ言いがかりのような形で京都所司代によって関東や畿内への立ち入りを禁止されたものです。これも摂関家が強く要請し、その結果所司代が無理矢理に罪状をくっつけたものです。

 

桃園天皇は22歳で崩御し、一条道香の妹の富子の産んだ英仁親王が遺されましたが、まだ若いため、桃園天皇は遺詔で姉の智子内親王が後継者に定まりました。実際には桃園と摂関との対立の中で桃園の遺詔という形で、血縁的に近く、政治的にも中立であった智子内親王に白羽の矢を立てたようなことがウィキペディアには書かれています。桃園天皇は6歳で即位し、幼少時から周囲を囲繞した側近が摂関と対立し、宝暦事件を引き起こした反省から、摂関家天皇をしっかり管理するために幼少時から天皇につけない、というために智子内親王が選ばれたということのようです。

 

ja.wikipedia.org

 

こうしてみるとこの段階では尊王論はいまだ幕府への脅威とはなり得ていないし、また尊王論自体も倒幕を視野に入れるものではない、ということが言えるでしょう。

 

しかもこの段階では短命な天皇が続き、天皇家の権威も揺らいでいることが伺えます。後水尾や霊元が長寿を全うし、江戸時代における天皇というシステムを完成させたのに対し、桃園天皇に至って動揺し始めています。そもそも桜町天皇が31歳で崩御したのが大きかったのでしょう。