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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第3回「江戸後期の天皇」予告3尊皇攘夷思想の前提

5月23日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座の予告編です。

 

今週は光格天皇を取り上げます。光格天皇は傍系の閑院宮家から皇位を継承した天皇という意味では後花園天皇と共通するところがあります。ただ後花園天皇が父親に太上天皇号宣下を行うことに禁欲的であったのに対し、光格天皇は前のめりに過ぎて朝幕間の緊張をもたらしたことは事実です。

 

松平定信は大政委任論に基づき、朝廷にも強い姿勢で臨みます。この大政委任論については藤田覚氏はその前提となる「皇国」意識の背景として天明の飢饉をはじめとする社会不安と、ロシアの南下に代表される対外的な危機意識の存在を指摘しています。

 


天皇の歴史6 江戸時代の天皇 (講談社学術文庫)

 

 定信の時代の対外危機について、私の関心と重なるところを見ておきます。

 

この時期、ロシアの南下によってクリル諸島(千島列島)はウルップ島までロシアの勢力圏に入ります。エトロフ島とクナシリ島は日本の勢力圏に入りますが、その頃の日本の北の窓口は甚だ頼りない状況でした。

 

江戸時代の四つの口は高校教科書でも触れられる程度には普及しています。

 

有名なのは長崎口で、出島のオランダ商館と唐人屋敷の清との通商関係が展開していました。薩摩口は琉球を介して清との通商関係が結ばれていました。この便宜上、琉球は独立国として置かれていました。対馬口は江戸時代唯一の国交関係が結ばれていた朝鮮との窓口でした。

 

そして今回のテーマの松前口です。松前口は松前藩が担当していましたが、他の三口と比べると松前藩の石高はわずかに一万石格と頼りないものでした。軍役も小さく、アイヌとの間に軍事的衝突があれば非常に危ないレベルの軍備しか実はなかったのです。ロシアと武力衝突になればまず勝ち目はありません。

 

となれば当然外交交渉など様々な工夫が必要なのですが、その点でも松前藩は失格でした。藩主の夭逝が続き、家老の勢力争いが続いて幕府からは「仕置よろしからず」と注意を受ける始末、おまけに縁戚の大名からは取り潰すべきではないか、という意見まで出される始末。

 

悪いことに借財がかさんだ松前藩は商人にアイヌとの交易拠点の運営を商人に請け負わせます。これが債務の返済の形態でした。

 

いきおい商人はその与えられた「場所」から莫大な利益をあげないことには損益がマイナスとなります。商人はアイヌと交易して利益を上げるよりも、資本を投下して大規模な開発をし、そこから利益をあげる方向に進みます。場所請負制といいます。

 

ここで和人(アイヌを除く日本人のこと)とアイヌの関係をおさらいしておきますと、当初アイヌが和人の城下に来て交易を行う「城下交易体制」でした。松前以外には秋田・弘前・南部などと交易を持っていたと言われています。

 

いわゆる日本型海禁秩序が完成してくると松前を除く和人大名はアイヌとの交易を禁止され、アイヌの交易相手は松前藩一択となります。松前藩アイヌの居住地域に交易拠点を構築し、そこでの利益を藩士の禄とします。これを「商場知行制」といいます。

 

そして商業資本が入ってきて商業拠点であった「商場」を、開発の場である「場所」とし、その開発・運営を商人に請け負わせ、上納金を取り立てる方式を「場所請負制」と言います。この段階ではそれぞれの「商場」=「場所」を藩士が持つ「商場知行制」をベースにしつつ、商人が開発する「場所請負制」が展開しています。これを「商場知行制下の場所請負制」ということもあります。

 

ここでクナシリ場所を請け負ったのが飛騨国下呂の飛騨屋久兵衛でした。飛騨屋は松前藩への莫大な債権をクナシリ場所などの請負という形で獲得しました。いきおい過重な収奪が行われ、アイヌの憤懣が高まっていきます。それを抑えていたクナシリの脇長人であったツキノエやアッケシの惣長人であったイコトイらが留守の間にツキノエの嫡男セツハヤフらが蜂起します。これをクナシリ・メナシの戦いといいます。

 

松前藩は慌てて部隊を派遣しますが、到着した時にはツキノエ・イコトイやメナシの惣長人ションコらの働きによって鎮圧されていました。

 

当然幕府の覚えはめでたくないです。そもそも幕府はションコやツキノエから松前藩の腐敗ぶりを聞き取りしています。まあシャクシャイン戦争の時も松前藩のグダグダぶりとその強欲ぶりについては、イシカリやヨイチの長人から石田三成の孫の杉山吉成に報告が上がっています。

 

幕府の取り調べに飛騨屋と松前藩はお互いに責任転嫁を繰り広げるばかりで、さらに飛騨屋はアイヌにも責任をなすりつけようとしますが、幕府の裁定はアイヌへの収奪の責任をとって飛騨屋を改易とします。

 

幕府が松前藩を残したのは、当時の老中松平定信蝦夷地を緩衝地としてロシアと直接対峙することを避けようとしたからだと言われています。定信にとっては蝦夷地=アイヌモシリが日本でないことが重要だったのです。

 

松前藩は改易あるいは転封の危機に際して、松前藩に味方した「御味方蝦夷」の画像を画家で家老であった蠣崎波響に描かせます。「夷酋列像」です。「夷酋列像」は二部作成されたようで、蠣崎波響はその一部を京都に持って行って光格天皇の叡覧に浴します。

 

夷酋列像の原本は今日函館市中央図書館に一部が、フランスのブザンソン美術考古博物館に大部分が残存しています。その中でも有名なのがツキノエ像とイコトイ像ですが、実は彼らは松前に行っていないので、蠣崎波響は彼らを実見しておらず、想像の産物です。

 

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左からイコトイ・ツキノエ・ションコ

画像は以下より

www.minpaku.ac.jp

実際の講座ではこの辺はさらりと流す予定です。もちろん詳しく話してほしい、という声があればその限りではありません。もっともこの辺はまた別の企画を立てることにします。