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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

足利義教と後花園天皇のどちらが上だったのか

久しぶりの歴史雑記帳です。令和改元便乗企画である後花園天皇改元が終わりましたので、平常運転で「後花園天皇ノート」をはじめとした「歴史雑記帳」をお送りいたします。

 

表題の「足利義教後花園天皇のどちらが上だったのか」という問題ですが、一言ではなかなか言い表せません。

 

いきなりこんなことを言っていますが、これは要するに堀新氏の『織豊期王権論』における「公武結合王権」のシェーマから触発されたものです。

 


織豊期王権論 (歴史科学叢書)

 

 

「え?天皇が上に決まってんじゃん」とか「はぁ?実力では室町殿でしょ?」とか色々言えます。義教の場合、征夷大将軍を辞官しないまま死亡しましたので、明らかに征夷大将軍という、天皇から任命される官職にいました。その意味では天皇の臣下であり続けた、と言えましょう。

 

では足利義持はどうでしょうか。義持は内大臣征夷大将軍を辞官して出家し、その後も義量の早逝もあって室町殿として幕府の頂点にたち続けていました。彼は天皇の臣下ではなくなったのでしょうか。そうではないでしょう。義持は後小松院政の重要な担い手であり、その枠組みを彼自身踏み出そうとはしていません。

 

足利義満はどうでしょうか。義満は太政大臣征夷大将軍を辞官して出家し、室町殿あるいは北山殿として頂点に立ち続けました。彼の場合、まだ若かった後小松天皇の後見役として、早くに亡くなった後円融院の代行として後小松の保護者としてたちあらわれました。しかしだからと言って彼が天皇の上に明示的に立ったわけではありません。あくまでも義満は後小松天皇を立てていたことは、後小松の北山殿行幸からも伺えます。

 

では天皇はやはり室町殿の上なのでしょうか。

 

実は歴代室町殿の中で、一番天皇家に家長づらして引っ掻き回したのは足利義教ではないか、と思います。

 

室町時代天皇持明院統であることは論を俟ちませんが、持明院統天皇家領を構成する主要な荘園群は長講堂領、室町院領、法金剛院領、播磨国国衙領、熱田社領ですが、持明院統観応の擾乱の結果、崇光皇統と後光厳皇統に分裂します。ここで注目すべきなのは、どうも今あげた荘園群はいずれも崇光院に伝領されたと思えます。というのは崇光院の亡くなったのちに後小松がこれらの全てを取り上げているからです。後小松が崇光没後に取り上げた荘園群と、光厳院置文に記載された荘園群がほぼ一致する、ということは、後光厳皇統にはほぼ所領が伝領されなかった、と考えるほかはありません。

 

崇光の没後に所領をほぼ失った崇光皇統ですが、かろうじて伏見荘と花園天皇の皇子で崇光の皇太子にもなっていた直仁親王が伝領してきた室町院領が崇光皇統に付けられ、他に播磨国衙領別名も付けられます。こうして崇光皇統は伏見宮家として存続するのですが、後光厳皇統が称光天皇の代で途絶えると、伏見宮家から後花園天皇が後小松の養子として継承します。

 

後小松の没後、義教が後小松遺領の処分を行いますが、義教はまず熱田社領天皇家家督の地位を継承した後花園天皇から取り上げ、これを伏見宮家領とします。

 

 

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 その代わりに理永女王(後小松の皇女、称光・小川宮の同母妹)と光範門院の所領を取り上げ、禁裏御料に編入しています。やりたい放題です。

 

さらに義教は光範門院から鮭・昆布公事を取り上げ、それをお気に入りの常盤井宮に与えてしまいます。ただ空気を読まずに義教の処分に不満を言い続けて義教の機嫌を損ねた常盤井宮からその土地は取り上げられ、伏見宮家に与えられています。

 

 

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こう考えると天皇家領を左右する天皇家家督の地位は完全に義教であったことがわかります。

 

さらに後花園天皇にどういう学問をするべきか、という問題も義教が全面的に差配しています。例えば楽器ですが、後光厳皇統は一貫して笙を演奏していましたが、これは実は足利家の家の楽器でした。崇光皇統は琵琶で、大覚寺統は笛が基本でした。

 


天皇の音楽史: 古代・中世の帝王学 (歴史文化ライブラリー)

 

 また後花園は義教との和歌の贈答で義教のことを「君」と呼びかけたことがあります。

 

 

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 このように義教が天皇の上の立場である天皇家家督として振舞っている事例はいくらでも出てくるのですが、ではそれは明示的に天皇を義教の下に位置付けていたのか、というとそうではありません。義教は常に天皇の臣下として振舞っていました。

 

興味深い事例があります。

 

義教が後花園の父貞成親王の御所を訪ねた時のことです。義教が帰るときに貞成は庭に降りるという、丁寧な見送り方をしたところ、後日義教からこってり絞られる羽目にあいました。何がまずかったのか、と言えば義教を丁寧に見送りすぎたのです。あくまでも義教は貞成を自らよりも上位者として扱おうとしていました。これは義教にとって役にたつからです。

 

 

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 何が言いたいかと言いますと、義教のころにはすでに公武統一政権、公武結合政権においては義教が天皇の上として振る舞うことはあった、ということです。

 

この淵源は私はやはり観応の擾乱で後光厳皇統が幕府の都合で無理やり作り出されたところにあるのではないか、と考えています。

 

勅撰集でも京極派の短歌を駆使していた花園院や光厳院が自ら作り出せた時代から、後光厳の時代には足利尊氏好みの二条派、さらにはその分派の飛鳥井家になっていく過程は、和歌一つとっても足利家がリードしています。

 

要するに武家上位の公武結合王権は後光厳皇統成立以後、恒常的に見られた、と考えられます。問題はどういうときに武家上位となるのか、あるいは常に武家上位だったのか、武家と公家の力関係は変動するのか、とか、いろいろ考えなければならない問題があります。

 

義教の死後、後花園天皇による治罰綸旨の発給を通じて公武のバランスが逆転し、公家上位の公武関係が続く、とされていますが、その辺をもう少し詰めて考える必要もあります。

 

ただ現在のところ、私は武家上位の公武結合王権という形は後光厳皇統成立以来基本的には変わらず、後花園による天皇権威復活というのも幕府の権威が低下した時に、朝廷の権威を上昇させるためのものではなく、あくまでも幕府を支えるものであったこと、その体制は後花園が主体的に関わっていったこと、その背景には後花園自身が幕府の権威をバックに自らの権威を構築していったこと、などがあると思います。

 

武家の権威が低下した時に天皇の権威が高まる、ということは実はないわけであって、この視角は織田信長豊臣秀吉天皇を考える際にも必要だと思います。ということを最近必要があって織豊期の天皇の研究を見てよく学びました。織豊期の天皇研究についての私なりの学びはまた機会がありましたら触れたいと思います。織豊期天皇制研究の成果には学ぶところ大でした。