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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

エミシ対日本ーオンライン日本史講座「戦争の歴史」2

6月6日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座の予告編、「エミシ対日本」です。

 

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https://zoom.us/j/481363987

 

律令制による国郡制が施行されている場所が8世紀に入ると北上を始めます。708年、元明天皇の時代に越後国に出羽郡を設置し、4年後の712年には出羽郡は出羽国に昇格します。そして新たに編入された地には人民が移配され、植民者として投入されます。一方、そこの住人は俘囚としてそれまでのコミュニティやアイデンティティを破壊され、土地から切り離されて日本各地に移配され、エミシの社会は根底から破壊されつつありました。そのような強権的な日本の政策に対し、エミシ社会は武力による抵抗を始めます。

 

720年、陸奥国でエミシが蜂起し、陸奥国按察使の上毛野広人が殺害されました。

 

当時の体制は元明太上天皇元正天皇太政官の首班は大納言長屋王でした。長屋王は丹治比県守を持節征夷将軍に任命し、抵抗を抑えます。

 

しかし724年には海道のエミシが蜂起し、当時左大臣太政官首班の長屋王は時節大将軍に藤原宇合を派遣し、鎮守府を設置します。エミシとの軍事対決を担当する軍事組織が常置されるようになります。

 

729年、長屋王の変長屋王が粛清されましたが、翌年には新羅関係の緊張緩和という事態もあって防人が停止され、それで浮いたリソースを鎮守府に回す方針が出されました。

 

737年には多賀城が設置され、さらに陸奥と出羽連絡路が建設されるなど、エミシ対策は強化されますが、この年、日本を天然痘が襲います。中央政府ではポスト長屋王の首班であった藤原武智麻呂藤原四兄弟が相次いで死去し、長屋王の祟り、という噂が流され、中央政府は機能不全に陥ります。人口の三分の一が天然痘に罹患した、という推定がなされていますが、これが事実だとすると完全に日本はここで崩壊寸前だったと言えるでしょう。

 

この中で日本復興を託されたのが橘諸兄でした。敏達天皇の五世孫(六世孫)で母親の県犬養美千代はのちに藤原不比等に嫁ぎ、光明子を生んでいます。

 

この激甚災害からの復興を託された諸兄政権は墾田永年私財法による復旧、大仏造営による公共事業による再建を目指し動き始めますが、同時に北方への拡大政策は頓挫し、エミシとの戦争は休止状態になります。

 

ここで日本とエミシの戦いについてまとめますと、エミシは騎射を得意としたようです。さらに彼らの刀は蕨手刀と言いますが、刀身が柄に対して少し反っており、斬撃戦では斬撃による破壊力が直刀に比べて強く、また力が直接柄に伝わらず、少し逃げますので殺傷能力が高かったようです。刺突よりは斬撃に力点を置いた形で、馬上から振り下ろされる刀の威力は歩兵中心の日本の軍団からすればかなりの脅威だったようです。

 

そのころの日本の軍団は基本的に大陸から侵攻してくる唐・新羅から国土を防衛するためにデザインされており、平野で敵の襲撃を受け止めるという形が想定されていました。したがって自らが森林の中に侵攻していくという対エミシ戦ではその力を十全に発揮できなかったものと思われます。

 

聖武天皇の末期から始まった激烈な主導権争いを制圧した藤原仲麻呂政権は桃生城を建設し、東北への領域拡大政策を復活させました。仲麻呂政権は東北への領域拡大に対応するために防人を廃止し、鎮守府を復活させます。

 

仲麻呂政権の特徴は何よりも強烈な帝国意識につきます。漢風諡号を制定し、神武から聖武までの漢字二字による我々にも馴染みの諡号を奉ります。さらには彼は例えば太政大臣を太師と呼び、さらに聖武天皇は厳密には「勝宝感神聖武皇帝」、位を降りた太上天皇には「宝字孝謙称徳皇帝」という尊称を奉っています。従来の天皇がストレートに「皇帝」と名乗るのを避けたのに対し仲麻呂は日本こそ天意を受けた中華であると宣言したかのようです。

 

しかし彼の栄華もそこまででした。所詮彼の権力の源泉は聖武天皇の皇后であった光明皇后だったのであり、光明皇后崩御すると彼の権力は急速に低下し、最後は光明子の娘であった孝謙太上天皇によって滅ぼされてしまいます。

 

ただ孝謙太上天皇重祚した称徳天皇の時代にも東北への拡大政策は維持されます。強烈な帝国意識の保持という面では仲麻呂政権と称徳政権は共通していました。

 

767年、称徳政権は伊治城を造営し、栗原郡を新たに設置します。郡を設置するということは、そこにいたエミシを俘囚として移配し、代わりに日本の支配下にある民を植民者として投入することを意味します。これは当然エミシの反発を買います。

 

770年、仲麻呂の乱を鎮圧し、天皇天皇を後見する太上天皇の地位を兼ね備え、朝廷に並ぶもののない権勢を誇った称徳天皇崩御します。急遽天智天皇の孫の大納言白壁王が即位しますが、この権力の動揺を見透かすかのように服属していたエミシの宇屈波宇が日本を見限り、東北に動揺が走ります。

 

774年には光仁天皇のもと、東夷の小帝国の放棄が宣言されます。その余波もあってエミシによる上京朝貢が中止されます。エミシが日本の外部の住人として朝貢をする、という姿勢は斉明以来の帝国構造の重要な構成要素だったのですが、もはやそのような幻想を抱くだけの余力はなかった、と言っていいでしょう。

 

同年、海道エミシが桃生城を襲撃します。いよいよ38年戦争の勃発です。

 

参考文献

 


天皇の歴史2 聖武天皇と仏都平城京 (講談社学術文庫)

 


蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

 


NHKさかのぼり日本史 外交篇[10]飛鳥~縄文 こうして“クニ"が生まれた なぜ、列島に「日本」という国ができたのか